第23話 心の揺らぎ
どうしよう、ゾフィーとハンスが殺されてしまう。
どうしよう。
「私にできることは何かないのか!? 今から……今から幽霊の存在を証明すれば、もしかしたら……? いや、でも指紋がもう見つかってしまっている。彼らが拘置所にいるときに鍵をこじ開けて逃がすのは……いや、警備に見つかったら守り切ることができない。国外逃亡まではとても手助けできないし……駄目だ、八方塞がりだ。何か、何か……」
ゾフィーは動揺のあまり、ヴィッテルスバッハ宮殿の地下室まで沈み込んでしまっていた。
そこへ、コツコツと靴音を立てて歩み寄る人間がいた。
「お久しぶりですね、ヒルデガルトさん」
「ギュンター、悪いが構っている余裕は……」
ギュンターはにやりと笑った。
「『白バラ』の罪が確定しました。もうお前は用済みです。僕は報酬を貰えたことだし、心置きなくお前を封印できますね」
「は……!?」
ギュンターは年代物のロザリオを取り出した。
「神ノ御名ニオイテ、封印ノ儀ヲ実行スル!! 死者ノ霊ヨ、地獄ノ炎デ悔イ改メヨ──!!」
ヒルデガルトの頭上に、漆黒の闇が出現した。
それは瞬く間に広がって、半球状にヒルデガルトを覆い尽くしてしまった。
ヒルデガルトを縛ろうとする強力な封印。
以前とは比べ物にならないほど強力な術だ。
「くそっ」
ヒルデガルトは腕で闇を受け止め、こじ開けようと踏ん張った。
「んぐぐぐぐぐぐ!」
「しつこい女だ」
ギュンターは冷たく言う。
「ああそうだ。ついでに一つ、教えて差し上げましょうか。僕はお前の気配を辿って、アイケマイヤーのアトリエを探し当てました。そしてナチスの方々にその場所をお伝えしたのですよ」
「なっ!?」
「……お前のごひいきの学生が死ぬのは、他ならぬお前のせいだというわけです。どうですか? 面白いでしょう?」
「……!!」
「ふふっ、隙を見せましたね……!」
封印が更に狭まった。ヒルデガルトは黒い球体に飲み込まれようとしていた。
「うぐっ」
「はは、ざまぁない。天下の『白い貴婦人』が、僕のようなひよっこ心霊術士ごときに再び封印されようとはね!」
ギュンターの言葉に、ヒルデガルトは噛み付いた。
「う、うるさいっ!
ギュンターは不快そうに顔をしかめた。
「ふん。口だけは回るやつですね。お前こそいい加減に現実を直視したらどうですか? お前は僕には敵わない。無駄な足掻きはやめて、おとなしく……」
「黙れぇえええいっ!!」
ヒルデガルトは息も絶え絶えに絶叫した。
「何故お前たちはこんな悪さをする。私はお前たちに迷惑をかけていないのに!」
「何だ、忘れているのですか。ボケたんですか?」
ギュンターはロザリオを少しもてあそんだ。
「お前は僕の祖先なんですよ」
「……は?」
「お前はしがない農民の娘でしたが、領主の貴族の既婚男性と身分違いの恋をし、子を産んだ。その咎で処刑されたのですよ。それ以来僕の家系では、お前の討伐を使命としているのです」
瞬間、ヒルデガルトの脳裏に記憶が鋭くよみがえった。
ヒルデガルトは咄嗟に首を押さえた。
──私は処刑された。
剣でがっつりと首筋を噛まれたのを覚えている。
ヒルデガルトを斬ったのは腕利きの剣使いで、ヒルデガルトの首は一撃にて切断された……。
「あ……あああ……」
封印の締め付けがいっそう強くなる。ヒルデガルトはもがいた。
「ぐぬぬ……!」
「フフフ」
ギュンターは愉快そうに微笑んでいる。
「ああああ!!」
ヒルデガルトは叫んだ。
ひとりぼっちで、くじけそうで、それでもどうしても戦わなければならない。
そんな時はどうすればいい?
そんなことは分かり切っている!
「負けるものか……!」
「おっと、大人しくしてくださいね。今から封印してやりますから」
ギュンターがロザリオを掲げ直す。
「そうはさせるかぁっ……!」
ヒルデガルトはまとわりつく闇を振り払うようにして両手を広げた。
闇の力が少し弱まる。
「はっ、ひよっこ心霊術士めが。このヒルデガルト様を封印するなど千年早いわぁっ!!」
バチバチと力が拮抗する。ヒルデガルトの周囲には小さな青白い雷が無数に発生した。
「あああああ!!」
「うおおおお!!」
それから何時間経っただろうか。ギュンターの額には汗が光っている。
「ああああああぶち殺してやるぁぁぁ!!!!」
ヒルデガルトはバッと手を伸ばして、ギュンターの背後にあったビールの樽に念を送った。これまでに出したことのないような力で、それを無理やり空中に持ち上げる。
「うおらぁ!!! 頭を潰されて死ね!」
ギュンターの目が恐怖に見開かれた。
その刹那、ヒルデガルトの記憶に鮮やかによみがえった。
これまで自分がこうして殺してきた人間たちの顔。
自分が庇ったにもかかわらず敵に討たれて死んでいった人間たちの顔。
革命で──戦争で──虐殺で──死んだ人間の顔。
強制収容所の人間たちの顔も。
それから――これから死にゆく、ゾフィーとハンスの顔。
「……」
もう、誰も傷つけたくない。誰にも傷ついてほしくない。
ヒルデガルトは、力を緩めた。ビール樽はギュンターの脳天に直撃することなく床に落下した。タガがゆるんで、板の隙間からビールがトクトクと流れ出してきた。
「やっぱやめた」
ヒルデガルトは言った。
ギュンターは尻餅をついて、ビールの池の中に座り込んで、訳が分からないというようにヒルデガルトを見、周囲を見回した。
封印の力はすっかり弱まっていた。
「私は暴力には頼らない。言葉の力を信じることにするよ」
ヒルデガルトは低い声で言った。
「なあ、ギュンター・ローテンベルガー」
「……何だ」
「あなた、生活のためにゾフィーたちを売ったと言ったよね」
「……それがどうした」
「そうやって得たはした金でわずかな時を食いつないで、それで本当に満足?」
ヒルデガルトはまっすぐにギュンターを見つめる。
「どうして、言論の自由が保証される未来を選ばないの? 戦争が早期終結する未来を選ばないの? ナチスに擦り寄る限り、いい未来は絶対に訪れないと分かっているのに、どうして過去の成功に縋ろうとするの? どうして目先の利益や保身に飛びつこうとするの?」
「何を言って……」
困惑するギュンターに、ヒルデガルトは追い打ちをかける。
「私の封印が解けたのは、ドイツ軍がスターリングラードで負けた日だったよね」
「……!」
「その時、感じたことがある。私を封印する術の気配が変わったんだよ」
そう、封印の力が一瞬弱まった時。ヒルデガルトが復活のきっかけを掴んだ時。
「思うにあの時、あなたの師匠が死んで、術者があなたに切り替わったんじゃない?」
あり得ることだ。たとえばギュンターの師匠が戦場にいたのなら……。
「……」
「心霊術士の家系は……つまり私の家系は、死者の魂の声を聞くことがある。あなたは間違いなく、師匠の声を聞いたよな?」
「……」
「あなたは師匠の死と同時に、ドイツの敗北をも悟ったんじゃないの?」
ギュンターの心が大きく揺らいだ。どうやら推理が当たったらしい。今が好機だ。
「ドイツは負けるよ。ナチスに協力していたあなたは裁かれるかも」
「……」
ギュンターがおろおろと俯いた隙に、ヒルデガルトは——ギュンターの握りしめていたロザリオを無理やりむしり取った。
「ああっ!!」
ギュンターが悲痛な声を上げる。
「それはもう製作の技が途切れてしまった貴重な品なんですよ……!」
「知ってる。だからこれさえ壊せば」
ヒルデガルトは渾身の力を込めて、ロザリオを真っ二つに折った。
ギュンターは絶望の叫びを上げ、床にばらばらと落っこちた、無惨な姿のロザリオに半泣きで縋った。
ヒルデガルトはそんなギュンターに冷たく言い放った。
「私はあなたを永遠に許さない。私の友人たちを理不尽に死なせることを許さない」
「……」
「さよなら。ギュンター・ローテンベルガー」
ヒルデガルトはその場を去った。
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