第7話 非暴力の革命


 ハンスとゾフィーは強く頷いた。


「僕たちは、自分の手で、ナチスによる政治そのものを根本的に否定したいんだ。民衆みんなが納得するような、正当な方法でね。憎いやつを殺したところで、本当の意味でナチスを否定したことにはならないだろ?」

「殺しなんていう野蛮な罪は犯さない。私たちは、言葉の力によって平和的に国を変えていきたいの。だって『白バラ』は正義のために戦っているんだもの。──だから私たちは、私たちの活動を宣伝することで、市民を勇気づけようという方針なの」

「……へぇ……」


 そういう考え方を、ヒルデガルトはしたことがなかった。

 権力構造というのは絶対的なもので、それを覆すには力が必要だ。力のないものはひざまずくしかなく、力のあるものはそれを結集させて戦う。それがヒルデガルトの知っている世界というものだった。

 ゾフィーたちもそうではないのか? だってあんなスローガンを掲げていたのだから。


「……じゃあ、あれは?」

 ヒルデガルトは問うた。

「『ヒトラーを倒せ』って書いてあったのは? あれはどういう意味?」


 ああそれ、とハンスはこともなげに言った。


「権力の座から引きずり落とすっていう意味さ。もちろん、正当な、誰もが納得できる手段でね」

「ほへえ〜……」


 ヒルデガルトはフワフワと空中を浮遊した。


「私はかなり長くこの世界を見てきたけど、そういうのはなかなか見ない提案だね」


 暴力なしで権力者を倒す、か。


 そんなことができるものなのか?


 ……やれるものならやってみせてほしい。


 その光景を見てみたい。


「いいねえ。面白そう」

 ヒルデガルトは言っていた。

「決めた。あなたたちがそういうなら、私も暴力は使わない。そういうやり方で手伝ってあげてもいいよ」


 ゾフィーは首を傾けた。


「ええと、とってもありがたいのだけれど……具体的には、どういうことなの?」

「んー、そうだねー」


 ヒルデガルトはくるくるとバレリーナのように回転し始めた。思いつきで言ってしまったので何か案があるわけではなかった。

 だが、幽霊にもできる仕事があるはずだ。

 ……そう、たとえば、ナチスの連中は、落書きの犯人を捕まえようとしていた。でももし、落書きの犯人がそもそも存在しなかったら? そんなもの、捜査のしようがない。

 ヒルデガルトはニヤリとして、回転を止めた。


「手のひらにひとすくいのペンキくらいは、動かせるように鍛錬しておくよ。そしたら、誰もいないのに落書きが現れたように見えるでしょ?」


 ゾフィーの顔色が少し明るくなった。ハンスは「ハハッ」と短く笑った。

「そりゃいい。犯人探しの邪魔になるってもんだよ」

「ヒルデ……本当にそんなことができるの?」

「うん、やってやってもいいよ。その方があなたたちも安全だろうし。私も友達の役に立ってみたいしね」

「……友達……」

「いいんじゃないかい、ゾフィー」

「……そうね。ありがとう、ヒルデ」

「ありがとう」

「どういたしましてー」


 ヒルデガルトは今更ながらちょっと照れ臭くなって、天井近くまで舞い上がったのだった。


「そうとなったら早速次の作戦を立てないとな」


 ハンスは勢いづいていた。


「僕はアレックスとヴィリーに話をしてくる。それからフーバー教授にも」

「分かった。……クリストフは?」

「彼は落書きには前向きじゃないから、知らせないでおくよ」

「分かったわ。私もあの後変なことがなかったかどうか、ギゼラとかに聞いておくわ」

「助かる。じゃ、俺は明日の準備があるから。レポートの続きを書かないと、そろそろまずいんだ」

「それじゃ、私も明日の準備をするけれど……ヒルデはどうする?」


 ゾフィーはヒルデを見上げた。ゾフィーはまたくるくると回転していた。


「うーん。私もそろそろ、町の探検を再開しますかね。またフラッと遊びに行っても、いいかな?」

「それくらいなら」

「ありがとう、ゾフィー。それじゃ」

「ええ、また……」


 ヒルデガルトは微笑んで、後ろ向きに進み、スウッと壁に溶けて、ショル宅を辞した。


 少し、考えたいことがあった。

 ヒルデガルトはその辺を漂っている精霊たちを呼び集めた。


「あのさ」


 ヒルデガルトは顔をしかめて問いかける。


「非暴力の革命って、実際にはどういうこと? あの子たちは権力者をナメてるの?」

「そんなことはございませんよ。今の世の中、選挙によって為政者を変えることは一応可能ですから」

「選挙? それって、基本的に偉い人にしかできないじゃないか?」

「それは昔の話ですよ。今のドイツでは『普通選挙』が――つまり、国民なら、階級の上下も男女の性差も問わず、投票によって為政者を決められる選挙が――行われてきました」

「……? ……」


 ヒルデガルトはポカンとした。


「なんだそれ。そんなに国民に優しい国家が存在しているなんて。市民たちの願いがある程度叶っているじゃないか」

「そうですね」

「じゃあ、じゃあ……ナチスって奴らも選挙で選ばれたのか」

「左様です」

「そんなバカな。ドイツ国民の奴らはこんな圧政を望んでいるとでもいうのか」

「いえ、その限りではないかと。これはおそらくですが、『こんな暴政が敷かれることなど当初は予想していなかった』、という者が多いのではないでしょうか」

「そうか……それなら、また選挙でぶっ潰せばいいんだな。なるほど、ゾフィーたちのやりたいことが分かって来たぜ」


 仮にも選挙で選ばれた者を暴力で排除しては、理屈が通らない。ここは国民の支持を集めて、正々堂々と選挙で倒す。国民たち自らの力によってナチスを否定する。そういうやり方のほうが理に適っている。

 正当な手段というのはこういうことだったのだ。


 しかし精霊たちは悲しそうな顔で互いに顔を見合わせていた。


「……何だ? 言いたいことがあるなら早く言ってみろ」

「は、はい。その、選挙でナチスを倒すということですが、非常に困難かと思われます」

「ほほう。それは何故かな」

「今は、ドイツ総統であるアドルフ・ヒトラーに、国家の全権が委任されているからです。つまり、独裁者です」

「……それが? そんな奴はさっさと降板させればいい」

「いいえ。できません。それが独裁者が独裁者たるゆえん。ナチスの奴らは巧妙な手口で、憲法にのっとって全権委任法を成立させました。これは具体的にどういう法律かというと、『今は緊急事態であるがゆえに、個人の自由をある程度制限して、総統の命令に従うように』というもの。もちろん、個人が選挙に行くという自由も、制限されてしまいます。つまり実質的には選挙はもうできないのです」

「まどろっこしいな……。要は、ヒトラーは法の抜け穴を使って独裁者になった、そしてもう選挙をさせてはくれない、ということだな」

「……まあ、そんな感じでございます」

「無茶苦茶な奴だな。自分は選挙で選ばれておきながら、そういうことをしちゃうんだ」

「無茶苦茶ですね」

「ふむふむ。となるとゾフィーたちは何を目指しているのかねえ」

「さあ……」


 ヒルデガルトはくつくつと笑いを漏らした。


「ああ、おかしい。目覚めて早々に、こんなに面白い奴らと出会えるなんて思ってもみなかった。私は運が良いな」

「それは、何よりです」

「ああ、あいつらは何を見せてくれるんだろう。楽しみだ。きっとすごいことが起こる予感がするよ」


 ヒルデガルトは笑い続けながら、心の赴くがままに、スイッと街に泳ぎ出していった。

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