第8話 権力者嫌い


「暴力は使わない。選挙もできない。それで、言葉でもって戦う、か。……いよいよ面白くなってきたな」


 ひとけのない道を飛びまわり、鉤十字の旗をむやみやたらとはためかせて回る。


「あっはっはっはっは!」


 気分が良かった。何か悪戯をしてみたくなってきた。

 そこでヒルデガルトは、ナチスのミュンヘン支部になっているらしいヴィッテルスバッハ宮殿のレジデンツまで、一直線に飛んで行った。


 宮殿は眠っていなかった。夜の番をしている兵士が、いかめしい顔つきで周囲を警戒している。


「非暴力とは言っていたけれど、道徳的にとは言っていない。悪さはしていいんだ。たとえばこいつらの重要書類を隠すくらいなら、やってもいいだろう」


 ヒルデガルトは宮殿内を探索した。遥か昔にも訪れたことがあったから、おおよその見取り図は把握している。重要そうな書類がどこにあるのかもだいたいの予想がついた。


「あったあった。これこれ」


 ヒルデガルトは、没収されていた大量の「白バラ通信」を発見した。胸の奥底から笑いが込み上げる気持ちがした。実に愉快だったし、楽しかった。


「あいつらに不利な証拠は、少ない方が言いもんな」


 みんな破って捨ててしまおうかと思ったが、何となくそれははばかられた。

 ゾフィーたちが一生懸命に作ったビラだ。引き裂くなどというような侮辱はしたくない。


「足がつかないところに、持って帰ろうかねえ」


 いい隠し場所は精霊たちに聞くか、大昔の秘密の通路が残っていたらばそれを利用する。それはいいとして、問題はどうやって運ぶかだ。


「少しの紙ならドアの隙間に差し込むことができるけど、これだけ多いとなあ……」


 地道に一枚ずつ運ぶのも何だか面倒くさかった。そこまでするのは利点が少ない気がするし、足がつくのもよくない。


「ま、保管場所が分かっただけよしとしよう。べつの悪戯をしてやろうっと」


 そこでヒルデガルトは、他の重要そうな書類を見つけて棚の裏に隠してしまった。もう少し力がついたら、電話のコードをぶっこぬいたり、会議室の扉を開かないように細工したり、机に傷をつけて書き物をしにくくしたり、たくさんの悪戯ができるようになると思う。こうしてナチスの連中の作業効率が下がるといい。


「ヒヒヒッ」


 きっと明日はヴィッテルスバッハ宮殿内でちょっとした騒ぎが起こるだろうから、そいつ見物するのも悪くない。何しろ、重要書類がめちゃくちゃになっているのだから。

 ヒルデガルトは、権力者が慌てたり絶望したり取り乱したりする姿が大好物なのだ。


「そういえば、いつから私は権力者が嫌いになったんだっけな」


 ふと思った。


「んー。何でかなあ」


 それにはヒルデガルトの人生が影響している気がしてならない──つまり、ヒルデガルトが幽霊になった理由と関わっている。

 では何故、ヒルデガルトは死んだのだったか。


「確か私はただの貧しい農民の娘で……ええと、思い出せないなあ……前に起きてた時は、覚えてたはずなんだが」


 ヒルデガルトはふわふわと宙に浮かびながら、首を捻った。


 だがすぐに、鼻の上に皺を寄せた。


「やめやめ。そんなことを考えたってしょうがない。何だか嫌な感じがするし、きっとロクなことがなかったんだろ」


 長く存在していると記憶が曖昧になる。封印もされていたからその影響もあるだろう。だいたい死んだ時の記憶なんてひどいものに違いないから、忘れてしまうくらいがちょうどいいのだ。

 貧しい農民の出の娘が、何らかの理由で早死にし、何故か「白い貴婦人」と呼ばれていながらも、貴族などの偉い人々を憎んでいる……これはなかなか不思議なことではあった。だが理由や経緯などさして重要ではない。大事なのは、今、この時に、自分が愉快であるかどうかだ。

 偉そうなやつらがコケにされていると、面白い。それだけでいいではないか。うむ。


「さあて、悪戯するとしますかね」


 気が済むまで書類をひっくりかえしたヒルデガルトは、飽きて来たので、一旦ヴィッテルスバッハ宮殿を離れることにした。


「ふんふんふんふんふんふーふふん」


 上機嫌で口ずさむのは、フランス革命のときに流行った歌、「ラ・マルセイエーズ」。あの時もヒルデガルトは市民の味方をしたものだ。確かあの時に、自由というものの素晴らしさを知った。ただただ貴族への恨みで動いていたヒルデガルトが、初めてちゃんとした理念を持って戦ったのがフランス革命の時期だ。

 ただあの時は、確かにちょっと血腥い事件が多すぎた。多くの人が戦いで死に、ギロチンにかけられて死んだ。暴力による革命とはそういうものだ。

 それに比べてゾフィーたちの方針の平和的なこと。……でも、だからこその説得力がある。


 正当な方法で、権力者を選び直す。

 それは、意外と「自由」の理念に近いかもしれない。


 他人の自由を侵害しない範囲で、自分たちの自由を拡大し守ること、これこそが自由というものである……と、どこぞの偉い人も言っていたらしい。


 たとえそれが極悪非道という噂のヒトラーであっても、彼が生存するという自由を侵害しない範囲で、自分たちの自由を主張する……ゾフィーたちのやりたいことはまさしくこれなのだ。


「んんー、でも。やっぱり権力者の自由なんて、守ってやる義理はないと思うんだがなあ……」


 ゾフィーたちの思想を理解するには、ヒルデガルトはまだまだ考えを深める必要がありそうだ。

 大丈夫だ、時間はたっぷりある。


 ……とはいえ、そろそろ眠くなってきた。


「隠し通路がまだあるか、確認してこようかな! もしあったら、そっちの方が安眠できそうだし」


 ヒルデガルトはヒュウと風に乗って、夜のミュンヘンの町の中へと飛び込んでいった。

 地下に潜り、暗い土の中を進む。やがて、以前使ったことのある無人の地下室を見つけた。


「やった。ここ、結構落ち着くんだよね」


 ゾフィーたちの家からは少し遠いから会いに行きづらいけれど、そんなもの飛んでいけばいいのだから問題はない。


「さて、寝よ寝よ」


 ヒルデガルトは空中でふわりと横になると、気持ちの良い姿勢を探してもぞもぞした。それから、浮いたまま眠りに落ちた。


 戦時下の町の夜は、緊迫感をたたえながらも、静かに更けてゆく。


 朝、ヴィッテルスバッハ宮殿は予想通りの大騒ぎであった。


 棚を整理していた下っ端の男が書類の足りないのを確認してサッと青ざめると、恐る恐る上官に報告に行った。報告を受けた男は激昂し、あちらこちらに怒鳴り散らして、一斉に書類の捜索が始まった。みな、見当違いの場所を探している。


 じきに隠したものがみんな見つかってしまったが、大捜索および大叱責のおかげで業務が大幅に滞ってしまったらしい。ヴィッテルスバッハ宮殿では怒号がやまず、誰もが忙しそうにバタバタと歩き回っていた。


 しばらく宮殿の中を見て回り、重要機密の情報を盗み見たり、精霊たちとお喋りをしていたヒルデガルトは、やがて飽きてしまった。


 そこで、ゾフィーの家の前まで行って、待ち伏せをすることにした。

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