第3話 壁の落書き
***
どこか遠くで声が聞こえる。
──穢らわしい女め。
──処刑だ。
──見せしめだ。打ち首にしろ。
(どうして。私は、私は……あの人を好きになっただけなのに。
何がいけないの。私たちは同じ人間じゃなかったの。
どうして誰も助けてくれないの。あの人でさえも私を見捨てるの。
憎い。憎い憎い。全てが憎い。
……偉そうに。何が貴族だ。
許せない。許せない許せない許せない!!)
***
ヒルデガルトは目を開けて、ほっと一息をついた。また封印されたのかと思ってどきりとしたが、自分はただ眠っていただけのようだ。
ヒルデガルトはミュンヘンの外れにある秘密の地下通路に身を隠して眠っていた。
何やら嫌な夢を見た気がするが、忘れてしまった。そんなことより、封印から解き放たれてから二日目の夕方だ。今日も張り切って現代のミュンヘンを探検しよう。
「さあ、行くよ」
精霊たちを引き連れて、気ままに飛び回る。まだ日は暮れていなかったから、以前より町の様子がよく見えた。
途中、住宅の中に珍しい箱状のものを発見したので、近づいてよく見てみた。
住人が集まってじっと見ているその箱の中では、小さいけれども本物そっくりな白黒の絵が、しきりに動き、喋っていた。
「これがテレビ?」
「そうです」
「へえ~」
ヒルデガルトはテレビの裏に回ってみたが、そこには壁以外には何も無かった。
「不思議な機械だな」
改めて表側を注視してみる。箱の中の人間は、いかめしい顔つきをしていて、鼻の下に変な黒い髯を生やしていた。続いて、この髯人間に向かって、人々が右手をまっすぐに伸ばす動作をしている映像が出てきた。同時に、「ハイル・ヒトラー!」と割れんばかりの音声が飛び出してくる。
精霊たちは我先にとヒルデガルトに説明をする。
「この男がヒトラーです、ヒルデガルト様」
「このポーズが、ナチ式敬礼です」
「この男に文句を言った人間は殺されます」
「みんなと一緒にこのポーズをしないだけでも殺されますよ」
うへえ、とヒルデガルトは唸った。
「何だか宗教じみてるなあ。ちょっと前のフランスでも似たようなことがあったっけ。……そういえば、フランスは? 何をしているの?」
「ドイツが勝って、併合してしまいました。今はドイツ領です」
「……うそ? あのフランスが? へえ〜」
これは大変な事態になっているなと、ヒルデガルトは思った。
(世界の覇権を争うほどのあの大国が、新興国にすぎないこのドイツにねえ。にわかには信じがたいな)
ふわりと住宅の外に出る。人々が行き交う中を、自由自在に飛び回る。やはり、赤地に鉤十字の旗はあちこちにぶら下がっていた。また、たまに鉤十字の描いてあるバッジをつけた人を見かけることがあった。
「ふうん」
ヒルデガルトは言った。
「ナチスってのは随分と強い勢力だっていうことが分かったよ」
「権力がありますから、すり寄る人間はいますよ」
「それに、反対する奴は、老若男女、一族郎党、みんな処刑ですからね」
「処刑、ねえ……」
謎の不快な気持ちがして、ヒルデガルトは顔を曇らせた。
「うーん。圧政はどこにでもあるものだし、それこそ庶民はあっけなく犠牲にされてきたものだから、別に驚きはしないんだけどさ。なんか、嫌な感じだよね」
「嫌な感じ、ですか」
「うん。うまく説明はできないけど……。息苦しい感じ? まるで……そう」
ヒルデガルトはいいたとえを思いついた。
「私が封印されていた時に感じていた圧迫感に近いものがある」
そんなことを話しながらふらりと立ち寄った通りで、ヒルデガルトは妙なものを見つけた。
「ん?」
大きな建物の壁に、黒い布が張り付けてある。それが風に煽られてはためき、隠されていたものがちらりと見えた。
「ヒトラーを倒せ!」
古い時代に作られた茶色い壁に、真っ白いペンキでデカデカとそう書いてあった。
「んん? ねえ、ちょっと、あれ」
ヒルデガルトは壁を指さした。
「ヒトラーやナチスに反対する奴は、全員処刑じゃなかったの? デカデカと『倒せ』って言ってるんだけど」
「ええ、ですから、隠そうとしてあるのでしょうね」
「隠す……ああ、こんなメッセージが通りに堂々と書いてあったら、ナチスの奴らは調子が狂うもんな」
「そうなんです」
「きっと連中は、犯人を血眼で探しているところですよ」
「ほほう……」
ヒルデガルトは布に念を送って、ぺろりとめくってみた。再び文字があらわになる。
「ヒトラーを倒せ!」
ヒルデガルトはにやっと笑って、壁を見渡した。
「この布、通りに何枚も張ってあるけど、……もしかして全部そうなの?」
ヒルデガルトは、次々に布をめくろうと試みた。多くの布は釘か何かで固定してあったが、中にはきっちりと留めきれていない布もあって、ヒルデガルトが念を送ると布ごと弾け飛んだ。
「ヒトラーを倒せ!」
「ヒトラーを倒せ!」
「ヒトラーを倒せ!」
文字が次々と現れる。多くの人はそれを見ないようにサッと目を逸らした。「今日、風強くない?」と誰かが言った。
「ヒトラーを倒せ!」
「ヒトラーを倒せ!」
「ヒトラーを倒せ!」
この長大な壁は、ミュンヘン・ルートヴィヒ・マクシミリアン大学──通称ミュンヘン大学の建物であるらしかった。ミュンヘン大学の講義が行われる建物はミュンヘンの中にいくつかあるが、ここはその中心的な場所で、メインホールなどが備わっている建物だ。
建物の入り口、噴水のある方に回ると、何人かの人間が高いところで作業しているのが見えた。彼ら入り口の上の方に文字を、懸命に拭き取ろうとしているのだった。どうやらそこには、「自由」と書いてあったらしいことが、見て取れた。
「自由!」
ヒルデガルトは嬉しくなって叫んだ。
「今の時代は、ナチスの圧政からの自由ってわけね。私、自由のために戦う人間って好きだよ。前回も彼らに協力したっけ」
「そうなんですか?」
「そうそう。あの時はプロイセン帝国が厳しい政治を敷いていてね。市民がそれに反発して、ベルリンで激しい戦闘になったんだよね」
そもそもの発端はフランスのパリだった。フランス革命とその後のナポレオン騒動の反動で、ヨーロッパ全体で厳しい体制が置かれていた。フランスでももちろんそうだったのだが、これに対してパリ市民が再び立ち上がったのだ。革命の火の手はヨーロッパじゅうに広がった。オーストリア、ハンガリー、ポーランド、そしてプロイセンにも。ちょうどベルリンに居合わせたヒルデガルトは、この機に乗じてひと暴れしてやりたくなったのだ。
「私は市民軍に、敵の情報を教えたり、物を動かして敵軍を驚かしたり、色々なことをしてあげたんだ」
「それは、面白そうですね!」
「なかなか面白い戦いだった。人はたくさん死んだけどね……。それに、敵軍には私の天敵の心霊術士がいたんだ。そいつのせいで私は封印されたってわけ」
ええーっ、と精霊たちは抗議の声を上げた。
「それは許しがたい!」
「とんでもない奴ですね!」
「こらしめてやらなくては!」
憤る精霊たちを見て、ヒルデガルトは苦笑した。
「百年も経っているからそいつは死んでるけどさ。そいつの弟子の弟子の弟子は生きていて、この世界のどこかにいる……はず」
ヒルデガルトは束の間、目を伏せた。
自分をこの時代まで封印し続けていた、心霊術士の子孫。近くにいる気がしてならない。
何故だかヒルデガルトは、宿敵の一族の魂の気配を、非常に強く感じ取れるのだ。自分にとって脅威となりうるものだからだろうか。彼らにはヒルデガルトを消し去ってしまえるほどの力はないというのに……。だが、また封印されるのはまっぴらごめんだった。
そこへ、「すみませーん!」と声がした。
精霊の一人が必死こいてこちらに飛んでくるのが見えた。
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