第2話 幽霊と女学生

 ヒルデガルトと精霊たちは、壁をすりぬけて、一般の貸家にお邪魔した。幽霊や精霊は、基本的には、壁やものがあっても気にせず通ることができるし、その気にならなければ人間に見つかることもないから、いくらでも侵入し放題なのだ。

 ヒルデガルトは物珍しく家の中を見て回り、台所まで入り込んだ。精霊たちが息せききって、最新の技術について教えてくれる。ヒルデガルトは感心しきりだった。


「電気……水道……ガス……へえぇ。こんなの、見たことないよ。この百年で世界に一体何があったんだ」

「いろいろ、ありましたね……」

「便利になったものだな。後で、人間がこいつらを動かしているところを見てみたいな」

「はい。ですが最近は戦争のせいで経済が悪いので、どれもしょっちゅう止まりますよ」

「止まるものなんだ。駄目じゃないか」

「はい。それに都市では食べ物も手に入りにくいですし……」

「まあ、それは昔からだな」

「今は戦時中ですから、特にそうなのです。食べ物を戦地の兵士たちにあげてしまうので、国民はそのぶん我慢を強いられるのです」

「ははあ、そりゃ大変だ……。昔から戦争とはものいりなもので、占領地の住民から食糧や物資を強奪するのが常套手段だったが……現地の民からも搾取をするんだな」

「今はちょうど負け始めたところで、戦線が後退しているそうですよ」

「負け戦ね……だったらとっととやめりゃあいいのに」

「そうはいかないらしいのです。あのヒトラーというやつ、最後の一兵に至るまで戦わせるつもりですよ」

「イカれてやがるな」


 ヒルデガルトは一通り台所をうろうろしてから、妙な四角くて大きな箱に目をつけた。


「何だこれ。保管庫か」

「はい、それは冷蔵庫です。食べ物を保管します」

「ふむふむ……」


 ヒルデガルトは冷蔵庫の戸をすり抜けて中に顔を突っ込み、「ザワークラウト(酢キャベツ)が二皿ぶん保管してある」と言って出てきた。それからまたきょろきょろと家の中を見て回る。


「あ、あの四角い変なものは何?」

「ラジオです。音声を聞くための機械で、人々はこれを使ってニュースを知ります。世の中にはテレビというものも出回っていて、映像を見ることができますよ」

「映像……とは……?」


 ヒルデガルトが現代に順応するにはしばらくかかりそうだった。しかし精霊たちは嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうに、丁寧に説明をしてゆく。彼らはヒルデガルトが帰還したのが嬉しくて仕方がないのだ。

 ヒルデガルトがしばらくおとなしく精霊たちの説明に耳を傾けていると、扉の方からガチャリと音がした。


「あ、家の人が帰ってきましたよ」

「おそらく女学生ですね」

「女学生? へえ、どれどれ」


 ヒルデガルトは興味津々に振り返った。


 台所の入り口には、髪の毛が肩までの長さしかない、若い娘が立っていた。彼女は、何故か、驚愕の表情で、ヒルデガルトをまっすぐに見つめていた。


「え?」


 ヒルデガルトは目を丸くした。

 何故、ただの人間が、ヒルデガルトのいるところを見つめている?

 もしかして、自分の姿が見え、声も聞こえているのだろうか――この娘には霊視能力があるのだろうか。


 そうだとして、こいつはヒルデガルトの敵だろうか、味方だろうか。


 ヒルデガルトは注意深く女学生を観察した。魂の気配を探る。


「ああ……良かった」


 どうやらこの娘は、ヒルデガルトを封印した心霊術士の一族ではない。ひとまず危険はなさそうだ。

 では、たまたまヒルデガルトの姿が、霊視能力を持った一般人の目にも見えてしまったということだろうか。そういうことは稀にある。ヒルデガルトは強い幽霊であったから、存在を察知されることがある。稀に、だが。


「──面白い」


 能力のある人間に早々に会えたのは幸運だ。それともたまたま魂の波長が合ったから、こんなにも早く巡り会えたのだろうか。ヒルデガルトは神の存在には半信半疑だが、もしもいるのなら、この巡り合わせを与えてくれたことに感謝せねばなるまい。


 女学生に見えているのは、ヒルデガルトだけのようだった。周りの精霊たちには目もくれない。彼女は、囁くような声で、ヒルデガルトにこう尋ねた。


「ゲシュタポの方でしょうか……?」


 ヒルデガルトは聞き慣れない言葉に首を傾げた。


「ゲシュタポ?」

「ナチスの秘密警察のことですよ」

 精霊たちが教えてくれた。

「ナチスに従わない市民に対して、弾圧を加える、武装組織のことですよ」


 ヒルデガルトは「あー……」と納得した風に言った。そんな物騒な組織があるのか。だとしたら、この娘はヒルデガルトを見て、警察とやらが家の中に捜索に踏み入ったのだと、勘違いしたのだろう。だいたい、、家に勝手に踏み入るようなやつは、泥棒でなかったら役人だと相場が決まっている。


「違う違う。私ね、幽霊」

「えっ?」

「ほらこれ、浮いてるし、体は透けてるでしょう」


 ヒルデガルトはドレスをひらめかせて空中でくるりと一回転してみせた後、テーブルのある場所を難なく通り抜けてみせた。


「ええと……」


 娘は驚くよりも、警戒心を強めた様子だった。


「……幽霊は、ナチスの協力者の方なのですか……?」

「いや、全然違う」

「……」


 女学生はぽかんとした。それから悩まし気にかぶりを振った。


「……とにかく、うちから出て行ってくれる?」

「ええー、何で?」

「え、だって……。知らない人にいつまでも居てもらうわけにはいかないから」

「でも、霊的な存在は私以外にもそこら中にいるよ? 何で私だけ出て行かなきゃならないわけ」


 ヒルデガルトは精霊たちを指し示した。精霊たちは弱い存在だから、その存在を感じ取れる人間はまずいない。ヒルデガルトの宿敵の一族でさえ不可能だ。


「嘘……」


 女学生は青い顔で辺りを見回した。


「何にもいないわ」

「それは、あなたには見えていないだけ」

「そんな」

「精霊たちはみんな、人間に興味があって、人間のやることを見るのが好きな、愉快な連中なんだよ」

「そんな……」


 女学生は戸惑った様子で呟いた。しかし、すぐに深呼吸をして、落ち着いた様子でこう言った。


「……そうだとしても。他人がそばにいるっていうのが目に見えている状態で生活するのは、嫌な気分がするものでしょう。ずっと見られているのも怖いわ」

「ふうん。確かに、一理あるね」


 ヒルデガルトは頷いた。この娘はちょっとは頭の回転が早い。しかも冷静で、動じない。なかなか好感が持てる。

 ヒルデガルトはいいことを思いついた。


「分かった、今は出て行ってあげてもいいよ。……代わりと言っては何だけど、私とお友達になってくれる?」

「お、お友達?」

「私のことが当たり前に見える人間って、すごく少ないんだよ。せっかく巡り合えたんだから、仲良くなっておきたいな」

「……でも、私、あなたがどういう幽霊なのか、知らないわよ」

「これから知ればいいよ。こうして会ったのも、何かの縁だと思うし」


 女学生は、しばらく考え込んだ。それから、慎重に頷いた。


「分かったわ。知り合いになりましょう」

「やったね。私の名は、ヒルデガルト。あなたは?」


 女学生はかすかに微笑んだ。


「ゾフィー・ショル」

「なるほど、いい名前だ。よろしく、ゾフィー」

「よろしく、ヒルデ」


 あだ名で呼んでもらえて、ヒルデガルトは嬉しくなって両手を伸ばした。


「握手しよう。……触れないけどね!」

「ええ」


 ゾフィーの差し出した右手をがっしりと握るふりをする。


「じゃ、ご希望に沿って、私はひとまずこの家から退散するよ。またね、ゾフィー!」

「……ええ、そうね……」


 戸惑いがちのゾフィーの前で、わざとらしく優雅に一回転して、ドレスの裾を持ち上げて一礼する。それから壁の向こう側へと溶け込んでいった。

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