第4話 白バラ通信
一生懸命に飛んできたその精霊は、緊張した面持ちで挨拶をした。
「は、初めまして、ヒルデガルト様」
「はい、初めまして」
ヒルデガルトはこの精霊の気持ちをほぐすために、にこっと優しく笑ってみせた。精霊はいくらかほっとしたようだった。早口で話し始める。
「あの、私、ヒルデガルト様が反ナチ活動をなさると伺って……それで、是非ご覧いただきたいものがあるんですけど」
「何々?」
「文章なんです」
「文章?」
「えーっと、反ナチの文章を書いた人がいるらしいんです。その文章が残っているんです」
ヒルデガルトは瞬きした。
文章を書いた。ただそれだけ。
それだけでも、重大な犯罪になりうることを、ヒルデガルトは知っている。まさに、封印される直前の時代もそうだった。「言論の自由」というものが、無かった時代だった。今も、そうに違いない。
妙なことを書けば逮捕される。反ナチの文章など書こうものなら、きっと処刑だ。それなのに、危険を冒して、あえて書いた人間がいる。誰だろう、それは。どんな文章だろう。
「何それ、見てみたいな」
「こちらへおいでいただけますか?」
「いいよ。みんな、行ってみよう」
「では、ご案内さしあげます」
精霊の誘導に従って辿り着いたのは、大学から飛んで間もない場所にある、ヴィッテルスバッハ宮殿の本宮殿であるレジデンツという建物だった。古めかしく、厳然としている、巨大で四角いこの建物はどうやら、今ではナチスのミュンヘンでの拠点の一つになっているらしい。
軍服を着た男たちが威張って出入りしている。
「へぇ……」
ヒルデガルトはきょろきょろしながら、壁をすり抜けて宮殿の内部にやすやすと侵入する。
精霊は、宮殿の奥まったところの一室に、ヒルデガルトたちを連れて行った。
その部屋では激しく議論が行われていた。
「では、このけしからんビラを大量かつ無作為に郵送した輩と、大学の壁にあの恥ずべき落書きをした輩は、果たして同一人物かどうかについて……」
「疑いようもなく同一人物だろう! これらが学生の手によるものであることは明白だ!」
「まあ待て、犯人が学生団体であることは充分考えられる。複数人による犯行と見る野が妥当だろうよ」
「だとしても同じことだ。一人を取っ捕まえて、仲間の情報を吐かせるのだ!」
ヒルデガルトは机の上に行って、議論の中心となっている一枚の紙を見つめた。
題名には、「白バラ通信」と書かれていた。
中身はこうだ。
「無責任な専制の徒に、抵抗することもなく統治を委ねることは、文化民族にとって何よりもふさわしくないことである。誠実なドイツ人はみな、自らの政府を恥じているのではないか? ……」
「ほほう」
ヒルデガルトは言った。
「これはつまり、ナチスがドイツを治めていることを、批判しているのだな……」
それから続きに素早く目を通す。このビラは、今の政府を支持するのはドイツ人にとってよくないことなのだということを、熱心に説いていた。
「この果てしなく常軌を逸している犯罪の残忍さが、白日の元にさらされる時、ドイツ人とその子孫は非常に大きな恥辱を受けるのではないか? ……もしドイツ民族が自由意志や理性的判断を放棄するならば、その時ドイツ人に値するものとは没落なのである。……」
また別の紙にはこうあった。
「……我々は、『白バラ通信』が外国勢力によるものではないということを、はっきりさせておく。我々はナチスの権力が軍事的に打破されるべきであると知っているが、ドイツ人の精神の回復そのものは、内側からなされるべきだと考える。ただしこの回復には、ドイツ人が自ら引き起こした罪を認識することと、ヒトラーとその共犯者たちに立ち向かう姿勢とが、不可欠である。……ヒトラーとその共犯者たち相応しい程度の罰というとこの世にもはや見当たらないが、それでもやはり、来るべき新たな世代のためには、あえて罰を与えるべきなのである。ナチスの協力者は一人残らず罰せられるべきなのだ!
なお、『白バラ通信』の宛名は無作為に選ばれたものであり、記録はどこにも残っていないということを、付記しておく。……」
ヒルデガルトはもっとよく読もうとして、紙を念力で持ち上げようとした。
途端に、部屋がシンと静まり返った。
「あ、やべっ」
ヒルデガルトは、持ち上げかけた紙を、慌ててもとの状態に戻した。しかし時すでに遅し。人間たちは、ビラがひとりでに空中に持ち上げられようとする様子を、目にしてしまったのだ。
うっかりしていた。長い眠りの中で、人間たちの間で暮らす時の心得や感覚を、忘れ去ってしまっていた。
「……何だ、今のは」
「勝手に、動いた……?」
「ポルターガイスト現象か……!?」
バカバカしい、と一人の男が一喝した。
「風で動いたに決まっている。議論を続けるぞ」
もちろん、こんな寒い中、部屋の窓など開けてはいないし、扉だって閉まっている。それなのにこの意見には誰も反論することはなく、何事も無かったかのように議論が再開された。
「んー。まあ、いいか」
ヒルデガルトは知らんぷりを決め込み、ヴィッテルスバッハ宮殿を後にした。
「つまり、あなたが言いたいのは、あのビラを郵送しまくった人間たちが、このドイツにいるっていうことね」
案内人の精霊はこくんと頷いた。
「ヒルデガルト様のお仲間探しの、お役に立てるのではないかと」
「うん。面白くなってきた。ありがとうね」
ヒルデガルトはねぎらいの言葉をかけた。精霊は嬉しそうだった。
「さて、それでは情報を集めるとしましょうか」
暮れなずむ町を眺めながら呟く。
「あれを書いたのが学生団体である可能性が高いということなら、ゾフィーは何か知っているかな? ちょっとお邪魔して聞いてみようっと」
その時だった。空気を引き裂いていくような大きな音が、ウウ──……と町じゅうに響き渡った。
「えっ!?」
ヒルデガルトは動揺して地面まで落っこちた。
その間を通り抜けてゆくのは、慌ただしい人々の足音だ。
どこからか、子供の悲痛な泣き声も聞こえて来る。
ただならぬ空気感だ。
「何これ!?」
「落ち着いてください。空襲警報のサイレンです」
「空襲って何!? っていうか、道行く人がみんな大慌てで逃げていくんだけど……」
「空から爆弾が落ちてくるかもしれないので、そのお知らせです。霊的な存在にとっては害はありませんから、安心してください」
衝撃的な言葉だった。
「空から!? 爆弾が!? 落ちる!? そんなことができるの!?」
「はい。今ではどの参戦国でも、相手に有効的な打撃を与えられる方法だということで、採用されているんですよ」
「じゃあ、これも戦争の一環なんだ!?」
「そうですけど……何か?」
「だって、武器庫とかの、戦争に使う施設ならまだしも……ただの街のただの市民に爆弾を落としたって、しょうがないでしょう?」
「でも、戦争は国を挙げてやるものなので……」
「それが?」
「一般の市民への心理的な打撃も、戦争に影響するんですよ」
「そんな、そんなことのために、そんな恐ろしいものを落とすのか」
「それに、都市が破壊できたら、経済的にも困ったことになって、戦争を続けられなくなりますからね」
「そんな……」
ヒルデガルトは辺りを見回したが、緊迫した町の雰囲気は変わらない。
「最近の兵器は怖いんだね。空から雨みたいに殺人兵器が降ってきたら大変だよ……」
それから、はたと思い当たった。
「ゾフィーが心配だ!」
爆弾の雨だなんて、そんな事態になったら、ただの人間に過ぎないゾフィーが無事で済むはずがない。ヒルデガルトにできることは少ない──というか、ほとんどないだろうが、友人として放ってはおけない。
「こうしちゃいられない。様子を見に行かないと」
ヒルデガルトは再び上空へと舞い上がり、昨日訪れた家へと急いだ。
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