第1章 新しい日々
第1話 目覚めた幽霊
「ヒヒッ……あっはっはっはっはっは!」
ヒルデガルトは大笑いしながら、空を縦横無尽に飛び回った。
眼下に広がるは、暗い町の風景。
「『白い貴婦人』がお目覚めになった」
「封印を解かれたのか。めでたいことだ」
この地の精霊たちが口々にそう言い、小さな羽を盛んに動かしてヒルデガルトの周りを飛び回っている。透き通った光の粒のように、ゆらゆらと舞い踊り、ヒルデガルトの帰還を祝福している。
「あはははははは! ははは! はは、はあ……」
ひとしきり笑い終わって疲れたヒルデガルトは、ふうっと一息つくと、精霊たちに尋ねた。
「あー……今はいつなの?」
精霊たちはまだ興奮冷めやらぬ様子だった。我先にとヒルデガルトに寄ってきて、口々に教えてくれる。
「聞いた話ですと、ヒルデガルト様が封印なされてから、もうじき九十五年だそうです」
「今は一九四三年の冬……二月もまだ始まったばかり……」
「ああ、そうなの」
ヒルデガルトは長い黒髪を掻き上げた。
彼女はヨーロッパを中心に出没する幽霊で、たびたび人間を脅やかしては楽しんでいる存在だった。純白のひらひらとしたドレスをまとった女幽霊「白い貴婦人」といえば、誰もが一度は噂を聞いたことがあるはずだった。
彼女が現れるのは死の前兆であるとか、彼女は悲恋のせいであの世にいけず彷徨っているのだとか、世の中には色々な説がある。その真偽は定かではない。ヒルデガルトが幽霊になったのはもうずっと前の話なので、自分の正体についての詳細は忘れてしまっている。出回っている噂話の多くも憶測に過ぎないものだった。
それも致し方ない。何しろ、ヒルデガルトを視認することができる人間はほんの一握りで、ほとんどの人間はその姿を確認することはないのだ。
だが、一部の人間にとってはその限りではない。ヒルデガルトに干渉できる能力を持つ、いわゆる宿敵の一族の人間もいた。ある時ヒルデガルトは彼らとの戦いに敗れて封印されてしまった。そのせいで長い眠りについていたが、今かろうじて、この世に再び現れることができたというわけだった。
「うん、それにしても、やはり自由はいいものだ。すがすがしく、晴れ晴れとした気分だよ」
ヒルデガルトがそう言うと、精霊たちはこぞって喜んでくれた。彼らはいつもヒルデガルトに親切で、忠実だ。百年の世代交代を経ても、変わらない親愛を向けてくれる。ありがたいことである。
精霊たちの正体はヒルデガルトもよく知らないし、当の本人たちもよく知らない。ただ、人間がいるのと同じようにして、彼らはいる。人間の目に留まることは、ないようだが。
さて、周りを見渡してみれば、街並みは見慣れぬものとなっていた。綺麗に舗装された道の上に、見たことのない乗り物が停まっていたり、燃料が何かも分からない明かりが心細そうに灯っていたり、へんてこりんな旗がそこらじゅうに掲げられていたり、……とにかく妙なものばかりだ。
まことに人間社会の変化は速い。
「で、ここはどこ? プロイセン?」
プロイセンとはヒルデガルトが封印された時にいた国の名だ。ヒルデガルトの最後の記憶にあるものは、プロイセン帝国のベルリンという都市でのことだった。
しかしこれを精霊たちは否定する。
「いいえ。プロイセンはもうありません」
「ここはミュンヘンにございます。ミュンヘンはドイツ帝国の領土となりました」
「ははあ……ミュンヘン。それに、ドイツ帝国か。なるほどなるほど」
眠っている間に新しい国ができていたというわけだ。面白い。
ヒルデガルトはふわふわと夜の町の中を低空飛行しながら、両の手を握ったり開いたりした。それから、道端に転がっていた石に手をかざした。石は、ヒルデガルトの念に従って、舗装された道をころころと移動していった。
「……まあ、使える力はこんなものか」
ヒルデガルトは呟いた。
「まだ万全じゃないみたい。相変わらず軽いものしか動かせないな……。いやはや」
ヒルデガルトは、風を巻き起こしながら町の上空まで舞い上がった。透明な姿をした精霊たちも、楽しそうにそれに続く。
上空から見下ろす町は、百年前と比べて随分と発展しているように見えた。だが、その割には暗くて陰気臭くて活気がない。堅苦しい閉塞感だけがある。
「ミュンヘンってこんな町だった? もうちょっと明るくて、人々が朝までビールを飲み明かすような、活気があったと思っていたんだけどな」
「今は戦時中でございますゆえ」
「戦時中?」
ヒルデガルトは首を傾げる。
「それが何か? 戦争なんて年がら年中やっていたでしょう」
「現代の戦争は話が違うのです。百年の間に、国も技術も大幅に進歩しました」
「今起こっているのは、第二次世界大戦」
「第二次? 世界大戦?」
「今ドイツは、イギリスやアメリカやソ連と戦っています」
「ソ連?」
「かつてのロシア帝国です」
「ほほう……?」
また、新しい国の話だ。いつの間にか、国際情勢が激動していたらしい。理解するのに少々時間を要しそうだ。
「そういうわけで、この御時世、いつ市街地に向けてイギリスから爆弾が飛んでくるかも分からないのです」
「灯りなど点けていたら、格好の標的になってしまいます」
「そりゃまた、物騒な時代になったもんだね」
ヒルデガルトは興味深そうに言った。
「それからさ、さっきから気になってたんだけど。あの、町じゅうにぶら下がっている、赤地に黒いバッテンのついたへんてこな旗は、一体何?」
精霊たちは、何故か口々に溜息をついた。
「それは、ナチスの印、アドルフ・ヒトラーの印です」
「バッテンは、鉤十字といいます」
「ふうん。ヒトラーって誰?」
「十年前にドイツの政権を掌握した、独裁者ですよ。何十万人もの人間が彼の犠牲になっているといいます」
「おやおやおや……そいつはひどいな……?」
「ナチスとは、国家社会主義ドイツ労働者党のことです」
「ヒトラーが率いている政党の名前にございます」
「政党。ふむふむ」
ヒルデガルトはにやりと笑った。
「……たった今、私は、ナチスとやらの連中をからかってやりたくなったよ」
ヒルデガルトはとにかく、面白いことや悪戯が大好きで、特にお偉方にちょっかいをかけることを至上の楽しみとしていた。ふんぞりかえって偉ぶっている奴らの顔が情けなく歪むのを見るのは、最高に痛快だった。
それに、以前、人間たちの戦いに混じって遊んでいた際に、「自由」という概念を知った。ヒルデガルトはこれがいたくお気に入りだった。自由のために戦い、偉い人たちをやっつけようとする人間たちの、勇ましいことといったら! そういう戦いは是非とも応援したいものだ。
そんな理由で、前々から、偉そうな貴族の連中などを大いに怖がらせて遊んでいたヒルデガルトだったが、今回の獲物はナチスの連中というわけだ。
「ヒトラーって奴の鼻を明かしてやろうかねえ」
ヒルデガルトの言葉を聞いた精霊たちは、小さな目を一斉に輝かせた。
「それは、きっと愉快でしょうね」
「是非ともお願いします」
「了解、了解。で、ヒトラーって奴は今どこに?」
「ええと。誰か、知ってる?」
「今は、ポーランドの方面かと」
「ありゃ……それは、かなり遠いな」
ヒルデガルトは少し残念そうに言った。
「ヒトラーでなくても、ナチスの協力者ならば、そこらじゅうにいますが」
精霊がおずおずと進言する。
「うーん、そいつらで遊んでやるのも、悪くはないんだけど……」
ヒルデガルトは考え込んだが、すぐに顔を上げた。
「ま、その前に、町をもう少し散策しておこう。いきなり獲物を仕留めるのも面白くないし、まだ私は調子が万全ではないし。何をやるにしても、まずはこの時代に慣れておかなくっちゃね」
「では、我々もお供します」
「助かる。
ヒルデガルトは精霊たちを伴なって、夜の町へと繰り出していった。
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