③ ミポリン

 女子のレースは男子のレースの翌日だ。私は女子のレースはテレビ観戦しか出来ない。男子レース日のレース前、コーストレーニング時間らしく女子選手が何人も走っていた。

 日本代表は「今井美穂いまいみほ

 ミポリンはいないかな? と探していると、ちょうどスタート練習を始めるのが見えた。

 限られた時間の中で集中して走っているので声を掛けにくかったが、コース脇で走りを見ながら拍手していると、ミポリンは気づいてわざわざ止まってくれた。

 何か声を掛けたかったけれど、言葉が浮かばず、背中をポンポンと叩いて「頑張れ!」っていうゼスチャーだけしたと思う。ミポリンも言葉を発する事なく「頑張ります!」というゼスチャーだけをしたと思う。

 それだけで、たぶんお互いに充分通じ合えたように思えて、会えて良かった! と心から思った。


 ミポリンと初めて会ったのは、たぶん八年程前の「ツンドラカップ」。私の住む長野県野辺山高原で真冬の雪上、マイナス10℃位の中で行われる自転車レースの草の根大会だ。私は沢山着込んで長靴で参加してたのに、レーシングウェアを着て自転車シューズで参加している女子がいた。ツルツル滑り転びやすい路面と厳しい寒さの中、咄嗟に足をつきにくいビンディングシューズで走るのは勇気がいる。選手でもなさそうな、見た事もない女子がそんな格好で走り、しかもいいスピードで楽しそうに駆け抜けていた。

「何者なんだ? この人は?」

 それが私が最初に見たミポリンだったと思う。

 その後、再び地元の草の根大会を一緒に走った後に我がペンションに遊びに来てくれたんだったかな? 色んな話をしてくれた。

 彼女はもともと陸上の七種競技の選手だった事、今は小学校の先生をやっている事、など。


 ミポリンの本格的なレース参戦はそれからだったと思うが、その舞台はシクロクロス。すぐに頭角を表し、日本のトップカテゴリーで上位入賞の常連となった。ミポリンはとにかくレースを楽しんでいる感じで、その思い切りのいい元気な走りは見ていて気持ち良かった。

「強い娘が現れた」

 関係者の注目が集まり、期待されるようになったミポリンは、そういうプレッシャーが嫌いなようで、プレッシャーの掛かるレースはいつもの力を出せずに低迷していた。


「マウンテンバイクもやってみたい」とミポリンは言っていた。やればすぐにでも日本のトップクラスで走れる事は私も分かっていた。機会があって、ペンションで主催しているキャンプに誘い、MTBを貸して一緒に走った。その時「東京オリンピックを目指さないのは勿体ない」というような話をした。先生という職業、ストイックには取り組みたくはない事、一緒にやる仲間や環境が無い事などがネックになっているようで、暫くはシクロクロスだけを走っていた。


 ちょうど私がMTBレースに参戦をしなくなったのと入れ替え位にミポリンがMTBレースに参加し始めた。初めから上位争いをする姿は予想通りだったが、少し期待以下の走りが続いていた。全日本チャンピオンにもなったけれど、ちょうどカテゴリーの違う若い子達の台頭が凄まじい時で、彼女の影は薄かったと思う。


「こんなものなのかな?」という思いが、2〜3年前に大きく変わった。シクロクロスでもMTBでも彼女の本気がレースの走りを通して伝わってくるようになった。

 プレッシャーの掛かるレースで負けなくなった。接戦になっても負けなくなった。直接対決で、期待されている若手選手よりも速く走り、正真正銘の全日本チャンピオンになった。

 東京オリンピックへの出場を誰よりも本気で考え、選考基準を吟味し、考え、実行し、代表の座を勝ち取った。


 しかし、ミポリンにとって東京オリンピックのコースは酷だった。

 MTBでは日本とアジアのレースしか経験が無く、まるで違う競技に挑戦するような物だった。

 プレ五輪では難しいセクションは全て回避し、時間の掛かるエスケープルートを走らざるを得なかった。


 プレ五輪から一年半後の本番。東京オリンピック。

「すごく成長した」という前評判に期待が高まったが、ミポリンはゴールに辿り着く事が出来なかった。トップの選手から決められたタイム差が付くとレースを続行出来なくなる。タイムアウトを告げられ、その場で座り込んで泣いているミポリンの姿がテレビ画面に映し出された。


 女子のレースの前夜から雨が降り続けた。スタート前に雨は上がったものの、コースの難易度はより高くなった。当日の試走でミポリンは激しく転倒した。レース前半でパンクした。不運が重なった。

 しかし、ミポリンはそんな事は一つも言い訳にしなかった。確かにそれらに対応出来なかったのも実力であるが、オリンピック本番は残念ながらミポリンのいい所を発揮出来る条件にならなかった。そういったシチュエーションになるかならないか、望む結果と望まない結果は紙一重だとも言える。


 悔しさは呑み込んで、ミポリンは感謝の気持ちを書き込んだ。

「ただ、ただありがとう。本当に幸せな時間でした」と。

 オリンピックに向けて過ごした濃すぎるくらい濃いワクワクして過ごした数年間と、たくさんの方との出会いは一生の財産だと語ってくれた。

 良かった!


 日本代表に決まってから一年かけてやってきた事が本番では出せなかったかもしれないけれど、彼女は一年前にエスケープルートしか走れなかったあの難しい激しいコースを全て走れるようになっていた。

 いくら身体能力の高い彼女でも、リスクを伴う高度なテクニックを大人になってから身に付ける事は大変な事だったに違いない。

 勇気を出して挑んだ所で大怪我をしてスタートラインに立つ事さえ出来なくなったら元も子もない。

 フィジカルも、、テクニックも、メンタルも、少しも妥協する事なく、今出来る最高を一日一日積み重ねてきた事を誇りに出来ているミポリンに大きな拍手を送りたくなった。


 メダルを獲って、日本中に報道される選手達と違って、ミポリンの挑戦の事は、極限られた人達しか知らないだろうし、私だってほんの一部分しか知らない。ミポリンが教えている子供達はもっと知ってるんだろうな。大切な事を。


「いいもの、見せてもらったよ。ありがとう!」

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