第8話 ゴブリン危機一髪

「いったた……」

 朝。固まった体をほぐしながら、琴葉はゆっくりと体を起こした。まだ夢の中にいる美羽を横目に、彼女は自分の置かれている状況を再認識する。

「あー、そういやダンジョンに来てたんだった」

「おはよう」

「ひゃあっ!?」

 ポツリとつぶやいた独り言に返事があったことで、思わず素っ頓狂な声を出す。大きな岩に背をつけて、マネージャーは周囲の監視を続けていた。美羽と共に帰還してから一睡もしていない彼の目の下には、ハッキリとクマができていた。

彼の声だと理解すると、いつものように不機嫌そうに琴葉は言う。

「何よ、盗み聞き?」

「いやいや、あんだけはっきりと言えば誰でも聞こえるだろ普通」

 頭をかきながら、マネージャーは言葉をつづけた。会話をしながらでも、視線は琴葉ではなく、周囲の茂みに向けられている。

 あれからゴブリンは姿を見せなかった。念のためにと、より一層の警戒をしていたマネージャーにとって、太陽の光は少しの安ど感を与える。視界がはっきりとしただけで、周囲の監視はとても容易なものになった。

「あんた、もしかしてずっと起きてたわけ?」

「まぁな。誰か起きとかないと危ないだろ」

 自分が寝ている間にも、この男は働いていたのか。そう思うだけで、琴葉の心には少しの罪悪感があった。

 そんなことなど知る由もないマネージャーは、彼女が起きたことで初めて気を緩めた。大きなあくびをした後、おぼろげな様子で彼は言う。

「よっし、んじゃ俺ちょっと寝るわ。美羽が起きたら起こしてくれ」

「あ、ちょっと!」

 琴葉が止めるのも聞かず、マネージャーはそのままの姿勢で眠りについた。

 静寂が彼女を包みこむ。ここにきて彼女が初めて経験する孤独だ。危険地帯での孤独感は、彼女の不安を想像以上に膨らませていく。

 周囲をきょろきょろと見まわしてみたが、これと言って目立つものもない。ポケットからスマホを取り出すと、琴葉は膝を抱え電源をつけた。

「はぁ……」

 深い溜息を吐く。慣れない環境のせいで、いつもの強気な彼女もすっかり大人しくなっている。瞳には、うっすらと涙がにじんでいた。

(早く帰りたい……)

 気が付けば、そんなことを考えていた。

 自分がどれだけ無計画に事を進めたのかを思い知らされる。


というのも、琴葉はアイドルになってから多忙なスケジュールの中を生きてきた。稼ぎが足りないと嘆いては、アルバイトを転々とし、人気が乗り出してからは、この波を逃すまいと持てる時間のすべてをレッスンに費やす。そんな生活を一年も続けてきた彼女にとって、これほどの空白は忘れていたものなのだ。

すべての予定から解放されようやく得た自由も、彼女からすればただの無駄な時間にすぎない。これならば、早く帰ってレッスンの一つでもしておきたいというのが琴葉の本音だった。

「あー、ダメだ」

 うずく体を必死に抑える。彼女もバカではない。ここでレッスンをすれば、もしもの時のために逃げる体力を失ってしまうことも重々理解していた。だが。

(けど……ちょっとだけなら)

 すっと立ち上がると、琴葉はストレッチを始めだした。野宿をしたせいで、いつもより硬くなってしまった体を念入りにほぐしていく。その表情は、とても清々しいものだった。

 二人を起こさないようにと、道の先にある開けた場所に移動する。軽く走ると、自然の涼やかな風が彼女を優しく抱きしめた。

「よしっと」

 収録のためにと、動きやすい服装で来ていたのが幸いだった。思うように体が動くことを確認すると、琴葉は軽々と踊り始めた。

「ワン、ツー、スリー、フォー……ここでターン!」

 ひとしきり踊り終えると、琴葉はスマホの中に入っている曲を流し始めた。

 目を閉じると、その場に直立する。一呼吸おいたあと、彼女は目を見開いた。

 激しく、それでいてキレのある動き。しなやかに動き回るその姿は、荒々しさと綺麗さを見事に両立させている。華麗なステップは、そこに見る者がいればたちまち魅了されていたであろう。一曲が終わっても、彼女は休むことなく次に流れた曲を踊りだした。

「ふう……」

 その勢いのまま、彼女は三曲を踊り終えた。心地よい疲労感が琴葉を包む。

 朝の涼しげな風を浴びて地面に寝転がると、不意に何かの影が彼女を覆った。影の先を見やると、そこにはあのゴブリンがいた。

「……へ?」

 思わず体がこわばる。上へ上へと視線を移すと、ゴブリンと目が合った。

 わけがわからず、とっさに立ち上がる。表情には、驚きよりも焦りの色が見えていた。

「ああああああ、あんた誰よ!?」

「お、俺は、その……」

 あたふたと、ゴブリンは琴葉よりも動揺していた。

(こんなやつにあたしは怖がってたのか……)

 そう思うと馬鹿らしくなり、彼女は深い溜息をこぼす。その間にもキョロキョロと落ち着きのない様子で周囲を見回しているゴブリンが、ふいに口を開いた。

「ほ、ほかに誰もいないのか?」

「今はいないけど」

 異常なまでに警戒心を抱くゴブリンに、琴葉は疑問を抱いた。本来自分より強いはずの魔物が、真っ先に襲いかからずその場でたじろいでいるわけがない。

そう考え、彼女は周囲にほかの冒険者でもいるのではないかと同じように周囲に目を配らせる。しかし、それらしき人影は見当たらなかった。

「後ろに立ってたみたいだけど、なんのつもり?」

「お、俺は別に……何も……」

 一向に怪しさを見せるゴブリンに、琴葉のいら立ちを見せる。

 そんなことなどつゆ知らず、彼はいつまでもその場で様子を見ている。そして、その状態が五分ほど続いたころ、ついにしびれを切らした琴葉がゴブリンのもとへと近寄った。

「あのね、いい加減にしなさいよ!」

「何を言ってるんだ」

「あんたの方こそ、何が目的かは知らないけどね……付きまとわれるのってすっっっごいムカつくのよ。わかる!?」

 まくしたてるように琴葉はゴブリンを追い詰めた。その剣幕に、ゴブリンも思わず圧倒される。おずおずと下がるが、ついに背が樹にぶつかる。逃げ道を失ったゴブリンは、観念したのかその場で土下座をした。

「な、何よ」

「そ、その命だけはどうか……」

「はぁ!?」

 蚊の鳴くような声で懇願するゴブリンに、琴葉は驚きの声を隠せなかった。プルプルと震えながら、ゴブリンはじっと琴葉の返事を待つ。

 それを前に、琴葉はどう言い返せばいいものかわからなくなってしまった。

 そんなふうに固まったままでいると、背後から誰かが走ってくる足音が聞こえた。琴葉がいないことに気づいたマネージャーだ。琴葉の姿を見つけると、息を切らしながらまっすぐと向かってくる。

「心配したんだぞ……何やってたんだ!」

 彼の存在に気付いた琴葉は、どう説明したものかと頭をひねらせた。とりあえず見せた方が早いかと、さっと横にずれる。そこからあらわになった光景にマネージャーはひどく驚いた。

「またお前か! 今度は琴葉に近づきやがって……」

「え、何。こいつのこと知ってんの?」

 マネージャーの予想外の反応に、琴葉は目を丸くした。いかにもといった具合で話す彼の対応をうかがう。自分では魔物の対処ができないことを知っているからこそ、琴葉はそれ以上の追求はしないようにした。

「まぁな、さっき美羽が襲われかけた」

「よし、ぶっ殺す」

 自分の商売道具である美羽が襲われた。彼女が怒りをあらわにするには、それだけで十分だった。

 ポキポキと、指の骨を一本ずつ鳴らしていく。そこに、アイドルとしての面影はなかった。

「ま、まままま待ってください。教えます。教えますからァ!」

 叫ぶようにゴブリンは言った。しかし、二人の足は止まらない。二つの影が重なると、重い音と断末魔が響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る