第7話 その夜

「あー、もう。ホンッッットに最悪だわ」

 出口に戻ると、開口一番に琴葉が愚痴をこぼした。

 外はすっかり暗くなっており、入り口にいたはずの監視員もすでにいなくなっていた。不気味なほどの静寂が、汗だくの三人を迎え入れる。

「だから言っただろ。備えもなしにダンジョンなんて危険だって」

「もうその話はいいの! それよりあんた大丈夫?」

「はぁ……はぁ……」

 ふらふらになりながらも、美羽はかろうじて首を縦に振った。真っ青になった顔は、夜のおかげで二人に気づかれはしなかった。だが、今の自分が大丈夫ではないことは彼女自身が一番理解していた。

「あ、ありがとう……琴葉ちゃん」

「いいから、あんたは休んでなさい」

 その言葉で一気に体の力が抜けたのか、美羽は地面に倒れこんだ。

 大丈夫かとマネージャー近寄ってみたが、それを琴葉に制される。

「今はこれでいいの……多分」

「多分って、お前なぁ」

「それ以上近づいたらセクハラで訴えるから」

 鋭い視線がマネージャーに突き刺さる。それを見て、マネージャーはその場に座り込んだ。

「わかったわかった」

 外に出たことで、電波の通じるようになったスマホをマネージャーは取り出す。すでに日付を超えていることを知ると、今後のために琴葉へと視線を向ける。

「何よ」

「こっからどうするんだ。帰るにももう、足がないぞ」

 彼の言葉で、琴葉も自分のスマホを取り出した。しかし、粉々になった画面を見ると、あきらめた様子でそれを再びしまう。

「今何時」

「もう十二時半だ」

 そこで一度会話が途切れる。音のない世界に、虫の音がいやに大きく聞こえた。

 緊張が解けたせいか、気が付くと美羽と琴葉はすっかり夢の中へと落ちていた。その中で一人、マネージャーは己の不幸を呪う。

(ともかく、日が昇ったら帰ろう)

ぼんやりと月を眺める。久方ぶりの戦闘は、彼の体にかなりの負担をかけていた。全身がきしむような感覚。彼女たちの前だからと平静を装ってはいたが、右足首は大きく膨れ上がってしまっている。

(あそこで撤退していなければ、どうなっていたことか……)

 もしものことを考えるべきではない、とマネージャーは気に留めないようにしてきたが、一人になると自然とそんな考えにも至ってしまった。

 そんな時だった。彼らのすぐ横の茂みが動いた。

マネージャーに緊張が走る。

「誰だ!」

 声をかけるが反応はない。しばらく周囲を見回してみると、西側の草むらがわずかに光った。彼が恐る恐る近づいてみると、何かが身を潜めている気配がした。

 近くの石を手に拾い上げ、茂みをかき分ける。そこには、鬼のような姿の魔物が潜んでいた。

「ぎゃあああああっ!!」

「えぇっ!?」

 魔物はマネージャーの姿を見ると、一目散に逃げ出した。近くの木陰まで下がると、じっと彼の様子を観察している。

 その様は、人見知りの子どもが親の陰に隠れているようだった。

(見たところゴブリン種のようだが……危害を加える気がないのか?)

 襲ってこないのを見て、マネージャーは少し気を緩めた。構えを解いても何もしてこないことを確認すると、マネージャーはゴブリンのもとへと近づいた。

「危害は加えない、安心してくれ」

「……本当か?」

 返答が返ってきたことに、マネージャーは驚きを隠せなかった。

 たしかに、知能を持った魔物は存在する。意思の疎通を図ることも可能ではあるが、ここまで流暢に話すことができるのは極めて稀なケースなのだ。

 そんな動揺を見せるまいと、咳払いでごまかす。ゴブリンと同じ目線になるようしゃがみこむと、彼は会話を続けた。

「本当だ。ただ、ここの洞窟にいる魔物の特徴を教えてほしい」

「断る」

 ゴブリンはとげのある言葉でそう言った。進展しない状況に、マネージャーも自然とはやる気持ちを抑えられなくなってくる。

「頼む。どうしても行かなきゃならないんだ」

「……人間ごときに教えることなんて何もない」

 この言葉で、マネージャーの心に火が付いた。とっさに立ち上がると、右足の負傷も気にせず彼のもとへと駆け寄る。

「あー、そうかい! でもいいのか!? 人間様を怒らせると怖いんだぞぉ!」

 ゴブリンの姿がはっきりと確認できる距離まで来ると、ゴブリンはマネージャーの顔をにらみつけた。鋭い眼光は、これ以上近寄れば命の保証はないと告げている。

「知るか」

 そっけない返事とともに、ゴブリンはじりじりと歩み寄る。二人の距離が徐々に縮まる。そして今にでも戦闘が始まろうとしていたときだった。

「マネージャーさーん。どこですかー」

 美羽の声だった。目覚めたときにマネージャーの姿が見えないことから、心配になって辺りを探していたのだ。

 彼女の一言で、二人の緊張は解けた。しかし、マネージャーにとって今の状況はあまりいいものではない。ただでさえ万全の状態ではない上に、美羽を守りながら戦うなど、全盛期の彼でもできなかっただろう。

冷汗が頬を伝う。力みすぎているせいで、口からは血がすうっと流れ落ちた。

(どうする。考えろ……)

すぐそこで起こっている事態に気づかず、美羽はどんどん近づいてくる。一歩、また一歩。そして、ついにマネージャーの姿をとらえると

「あ、マネージャーさん。心配したんですよ、もう」

と、駆け寄ってきた。暗い顔がたちまち笑顔に変わる。そして、彼女の姿がゴブリンからも視認できたとき、ゴブリンは勢いよく跳んだ。

「死ねぇぇぇぇっ!」

「しまった!」

 美羽のもとに向かおうとするが、腫れあがった右足が今になって悲鳴を上げる。美羽はその場に立ち尽くしたまま動けないでいた。ゴブリンの爪が、彼女の柔らかい肌に突き刺さろうとする。マネージャーは思わず目をそらしたが、美羽の悲鳴が響き渡ることはなかった。

「……どうなったんだ」

 ゆっくりと、視線を戻す。そこに広がっていたのは、美羽の目の前でへたり込むゴブリンの姿だった。

「マネージャーさん、な、なんですかこれ」

 マネージャーは動揺する美羽のもとに慌てて向かう。その間にゴブリンが再び襲いかかるかもしれないと懸念していたが、彼はその場から動く様子はなかった。

「大丈夫か!?」

「私は大丈夫ですけど……この子って」

 ゴブリンをじっと見たまま、美羽は口を開いた。動揺してはいるものの、その表情には少しの興味も見てうかがえる。未知との遭遇が、美羽の好奇心をくすぐっていた。

「こいつも魔物の一種だ。ゴブリンっていうんだけど……」

 微動だにしないゴブリンを不審に思いつつも、マネージャーは説明を続ける。その説明を、美羽は熱心に聞いていた。

「とにかく、こいつから離れよう。弱い種とはいえ人間に比べればかなり凶悪だ」

「は、はぁ……」

 ポカンとしているゴブリンを尻目に、二人は元の場所へと踵を返した。

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