△22手 私信
一歩ごとに暗くなっていく道々、美澄はスマートフォンの画面を見ては頭を抱える。ロキソニンを処方されてもおかしくはないほど、その表情は苦渋に満ちていた。暗くなった画面をもう一度開いて、そこに「久賀夏紀」の文字が浮かぶと、天啓を乞うように空を仰ぐ。星の見え始めたそこからは、もちろん天啓などやってこない。
*
そろそろ美容院行かなきゃなぁ、と秋吉女流二段は長い髪をまとめ直す。
「生活に追われて将棋どころじゃないよ……」
馨の姉弟子である秋吉は、差し入れに買って来てくれたネコ型のカップケーキを配りながらそう言った。カップから顔を出すように作られたそれは愛らしく、潤んだチョコレートの瞳でこちらを見つめている。
馨は美澄にいくつか研究会を開いてくれていて、今日は秋吉とその友人の森川女流初段、馨、そして美澄の四人というメンバーだった。場所は奥沼七段が主宰する将棋教室の別室で、時折講師やスタッフも休憩に訪れる。
盤を挟むと殺すか殺されるか、というやり取りになるが、盤を離れれば秋吉はもうすぐ四歳になる男の子の親。家事と育児で思うように時間の取れない中、いかに集中して有意義な練習ができるか。今はそこが課題だと悩みをこぼす。森川も同意して、悩ましげに過去を思い返した。
「卒論のときはきつかったなぁ。締切は迫るし、昇級もかかってて」
くたりと頬杖をつくと、ハーフアップにした髪の毛も肩から落ちる。
「私、大学受験のとき一回降級したよ」
秋吉は笑って言うが、渦中にいる美澄の胃は締めつけられた。早くから女流棋士を目指した人はその人なりに、学校生活や受験などと両立しなければならない苦労があるのだそうだ。
でもね、と鬼気迫る表情で秋吉は訴える。
「子育てしてみると将棋ってすごく楽しいよ。公園で日焼けしたり、ミニカー踏んで悶絶したりしなくていいもん。将棋サイコー!」
ネコの頭に容赦なくフォークを突き刺して、馨は盛大な苦笑を漏らした。
「秋吉さーん、俺まだ独身なので、結婚に夢持たせてください」
「する気ないくせに」
美澄はネコと目を合わせないように、後頭部からそっと食べ始める。そんな美澄に、森川はテーブルから身を乗り出して忠告した。
「子育てもそうだけど、メンタル削られる恋愛は気をつけた方がいいよ。恋もボロボロ、将棋もボロボロで、本当に地獄だから」
訳知り顔で笑う秋吉に、森川はウェットティッシュを投げつけた。
「それは大丈夫です。何もないので」
あっさりとした美澄の返答を聞いて、秋吉と森川は馨に視線を向けたが、馨は少し肩をすくめただけだった。
秋吉はそうっとネコの耳を口に入れる。
「古関さんの場合は生活よりも将棋だよね。昇級かかってるときは、短期的にでも高い棋力を発揮しないと上がれないし」
「はい。頑張ります」
美澄の行く道は、棋士や女流棋士なら誰でも通ってきた道。楽観的なことを口にしないのは、誰もがそのシビアさを知っているからだ。
「そこは内弟子だし、日藤くんが目を光らせてるから心配ないか。溺愛してるもんね」
「はい。かわいい弟子にめろめろです」
心にもない言葉はカラッと乾いていて、誰も真に受けない。
しかし、師弟の在り方はさまざまとは言え、これほど徹底指導する例は稀だった。そのため弟子入り当初、あれこれ詮索されることもあったけれど、ほとんど美澄の耳に入ってこなかったのは、馨の人柄と立ち回りのおかげだった。何を口にしても、馨は危うい雰囲気は毛筋ほども出さずに受け流す。
「森川さんの不毛な恋については、なんとなく耳に入ってますけど、」
「そうなの!?」
「うちの弟子の反面教師にしたいので、詳し~く聞かせてもらえますか?」
馨がニヤニヤと身を乗り出すと、同じ分だけ森川は椅子ごと下がって逃げた。
「もうその話はやめて……」
「じゃあ今後とも、将棋の方のご指導お願いします」
研究会は、どんなに年齢差があり棋力や段位に差があっても、お互いのメリットがなければ成立しない。盤を挟んでも勉強にならないと思われたら相手にしてもらえないため、教室のように指導してもらえる場ではないし、安易に頼めない。
そんな研究会の約束をまんまと取りつけた馨はにっこりと笑って、半分になったネコをひと口で平らげた。
「でもちょうどよかった。ひとり欠員出た研究会あるんだけど、古関さん参加しない?」
「よろしくお願いします!」
「じゃあ、連絡先交換しようか」
森川と美澄がスマートフォンを並べて連絡先を教え合ってるところに、馨も頭を突っ込んだ。
「古関さんさぁ、」
「はい」
「夏紀くんのメッセージID知ってる?」
「いいえ」
当然のようにかぶりを振る美澄に、馨は、だと思った、と嘆息する。
「棋譜は?」
「今までと一緒で、倶楽部のパソコンに送ってます」
「それで?」
「特に連絡ないです、けど……?」
馨は真顔になって、「あのね、」と言ったきり、言葉を飲み込んだ。どっちが悪いのかなぁ……と、口の中でつぶやきながらスマートフォンを操作する。まもなくチャイムのような音がして、美澄の端末に馨からメッセージが届いた。
「それ、夏紀くんのIDだから、メッセージ送っておいて。師匠命令」
「……命令、ですか」
「で、この前の研修会の二局目、銀の使い方についての見解聞いておいてね。三間飛車に関しては、俺より夏紀くんの方が詳しいから。……何?」
訴えるような美澄の視線を受けて、馨は首を傾ける。
「いきなりメッセージって、ハードル高いです。何て送ったらいいんでしょうか?」
馨は呆れ顔で手洗いに立った。
「そんなの自分で考えなよ」
やり取りを聞いていた秋吉が口を挟む。
「『夏紀くん』って久賀夏紀くん?」
「はい」
「久賀くん、メッセージのやり取りとか、得意そうに見えないよね」
「そうなんです」
ただでさえ物言いに問題のある久賀とのやり取りにおいて、声色がわからないと不安だ。
「でも、意外と律儀だから、無視はしないんじゃないかな」
「無視はしないと思うんですけど、こっちが長文送って『了解』だけだったら心折れます」
「……そうだね」
ずしりと重くなったスマートフォンを、美澄はバッグの奥に突っ込む。
「やだなぁ……」
結局グズグズとためらっていたら、記憶のないうちにネコは胃の中に移動していた。
*
「『こんにちは』かな。もう『こんばんは』か。『はじめまして』?」
暮れゆく空を眺めながら、体重が減りそうなほどため息ばかりつく。
布団屋の店先にもクリスマスリースが飾られる季節。通りを抜ける乾いた北風は十分に冷たいけれど、雪を運んでくる気配はない。
商店街を抜けると、空がひらけて見えた。おだやかな夕焼けにブルーブラックの夜空が滲んでいる。黒い影となった踏切が空を指して立っていた。
夕闇の踏切は懐かしく、美澄はそれを写真におさめる。
美澄
『先生、お元気ですか? 古関美澄です。今、近くの踏切を通りました。だいぶ寒くなりましたので、踏切を見に行く際はあたたかくして、お風邪など召されませんよう、どうぞお気をつけて。』
16:05
半ばやけくそでそう打って、写真とともに送信した。照れくささに耐えきれず、スマートフォンをバッグの底に放り込む。
言葉にできない衝動から日藤家まで走って帰ると、家の外まで甘辛い匂いがしていた。
「ただいま戻りました」
キッチンに立つ真美が、美澄の声に笑顔で振り返る。
「おかえりなさい。ひとり?」
「はい。師匠もお誘いしたんですけど、今日は帰る、と」
「いいの、いいの。馨の分は用意してないから」
真美の前にあるフライパンには、魚の切り身が四つ乗っていた。
「ブリですか?」
外まで香っていたのは照り焼きだれだったようだ。
「うん。安かったから」
ダイニングチェアにバッグを置いて、シンクで手を洗う。
「生姜おろしますね」
「たっぷりお願い。生姜くらい贅沢しよう」
「了解です」
「今年は何でもかんでも高いよねぇ。白菜も高い。水菜も高い。庶民は鍋物も食べられなくなりそう」
「気候のせいかもしれませんね。色も悪いし」
ふたりで愚痴をこぼしていると、バッグの中で着信音がした。
「電話? 誰?」
「すみません。私です」
美澄は一旦手を洗ってバッグの中からスマートフォンを取り出す。画面には「久賀夏紀」とメッセージの着信を知らせる表示があった。
久賀夏紀
『それは一般的な1種踏切のB型警報機ですね。遮断機も最も一般的なB型の腕木式。写真が暗くてはっきり見えませんが警報灯は全方向型でしょうか?』
16:26
「そんなの知らないよ……」
つぶやいた美澄を、真美がふり返る。
「どうかした?」
「いえ、何でもないです」
スマートフォンをしまおうとすると、ふたたび着信音がする。
久賀夏紀
『補足します。警報灯は、丸くて平たく片面しか点灯しない片面型、両面に赤色ランプがつく両面型、円筒形で中のLEDライトが360°見える全方向型があります。視認性の点で、片面型は死角が多く事故に繋がる危険性があるため、現在は両面型もしくは全方向型に置き換えられつつあります。』
16:29
「真美先生、すみません」
「どうしたの?」
「十分だけ、出てきてもいいですか?」
「いいけど、もう暗いから気をつけてね」
片道五分を走って、美澄は踏切に戻った。辺りはすっかり暗く、踏切も闇に溶けている。
「これか」
美澄の身長より高い位置にある警報灯は、確かに円筒形をしていた。伸び上がり、フラッシュを焚いて、警報灯を写真におさめる。
美澄
『全方向型でした。』
16:37
美澄
『先生、ところで先日の研修会の棋譜、見ていただけましたか? 師匠が二局目の銀の使い方について、先生の見解をお聞きしたいそうです。』
16:39
もう一度走って戻り、キッチンに立った。出汁を取り、しめじとキャベツとベーコンを放り込んで、味噌を溶く。何度も麻婆豆腐の味見をしていた真美は、難しい顔でスプーンを美澄に差し出した。
「味見し過ぎて味わからなくなった。もっと辛い方がいいかな?」
口に入れた肉味噌は、辛さより甘味が強い。
「でも、これ以上辛くしたら辰夫先生食べられなくなりますよ」
「そうねぇ。お子さまみたいな舌で困っちゃうわねぇ。じゃあ味はこのままで、辛さは各自ラー油で調整しよう」
もうひと匙すくった肉味噌にラー油を足して口に含むと、これはこれでおいしい。そのとき着信音が鳴ったので、美澄はスプーンを口にくわえたままスマートフォンを開いた。
「美澄ちゃん、どうしたの?」
ラー油の香りを含んだ深いため息に、真美はふり返って尋ねた。
「師匠に頼まれて、先生にちょっと質問したんですけど」
真美の眼前にスマートフォンをかざすと、エプロンのポケットから出した老眼鏡をかけて、距離を取って眺める。それからげんなりと顔を歪めた。
「よく打ったね、こんな長文。老眼には優しくないわ」
久賀から送られてきたメッセージは、スクロールが必要なほど長く、しかもほとんど符号だった。料理しながらでは読むことさえままならない。
「頭痛い。このまま師匠に転送します」
「そんなの『お寿司おごってくださーい』って返事しておきなさい」
あはは、と笑って美澄はブリを皿に盛りつける。
時間がかかったであろうこのメッセージを、どこでどんな風に打ってくれたのだろうと想像しながら。
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