▲21手 私の知らないひと
結局、久賀にも美澄と同額のアルバイト代が支払われ、馨と三人揃って日藤家へ帰宅した。
「夏くん、いらっしゃい」
エプロンで手を拭きながら、真美は小走りでキッチンから出てきた。
「ご無沙汰してます」
「おー、夏紀。老けたね」
「綾音は相変わらずだな」
久賀と綾音が小学校の同級生であることは知っていたが、予想より砕けた雰囲気に美澄は戸惑った。そんな美澄をよそに、久賀は慣れた様子でリビングへ向かう。
「久賀くん、元気そうだね」
「ご無沙汰してます」
テレビを観ていた辰夫も片手を上げて迎え入れる。その側にためらいなく座る久賀と馨に麦茶を出して、美澄はキッチンへ向かった。しっくり馴染む久賀は、美澄の知らないひとのように見えていた。
「じゃあ私、手伝ってきますね」
青いシャツワンピースがわずかに翻る。その背中が引戸の向こうに消えるまで、久賀は横目で見送っていた。そんな久賀を見て馨は笑う。
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ」
「別に心配なんてしてない」
ふふふ、と流して、馨は麦茶を飲んだ。
「うちの師匠がさ、俺が弟子取ってからすごく心配してくれてるんだ。気持ちをすり減らすんじゃないかって。そんなことより自分の身体の心配して酒量減らして欲しいよ」
奥沼一門は棋界では最多人数を誇っており、棋士になった者は八名、女流棋士は三名、現役の奨励会員、研修会員合わせると、その倍以上になる。基本的に放任の奥沼だが、弟子を持つ苦労を背負った馨のことは気になるらしい。
馨はわずかに身を乗りだし、テーブルの上で指を組んだ。
「古関さんの師匠は俺だから、ちゃんと俺が心配するよ」
「だから心配してないって」
「わざわざ東京まで来ておいて?」
麦茶を飲んで返事をしない久賀を、馨はそれ以上追及せず、辰夫が出してくれたビールを久賀にも渡す。しかし久賀はビールを断り、テーブルの上に置かれたコーラのペットボトルを手に取った。馨はプルタブを開ける音と一緒に小さくつぶやく。
「夏紀くんはさ、古関さんを育てることで自分の人生の意味を見出だそうとしてる?」
ペットボトルに口をつけようとしていた久賀はその手を止めた。
「将棋もあのひとも、僕の人生の意味を証明するための道具じゃない」
馨は満足気にビールを飲み、久賀もそれに続く。コーラは喉をピリピリと通っていった。
馨が二本目のビールに手を伸ばす頃、いつもより少し豪華な夕食が出来上がった。
「元町さんからは去年オンラインの設定教えてもらった。平川先生、そういうの消極的だったから」
久賀の砕けた話し方に慣れないまま、美澄はエビフライと取り皿を並べる。
「あの教室は二回くらい指導行った。すごく強い子がいて、熱心に頼まれて」
「その子、今年奨励会入ったよ。受験にあたって、結局小多田先生のところに弟子入りさせたって」
「へぇ、小多田門下。じゃあ、吉永くんの弟弟子になるのか」
手を止めて見入っていた美澄に、ふたりが視線を向ける。
「先生も師匠も、普通に男の子なんですね」
小学生時代からずっと続く関係が、目の前で展開されていた。イベントでも久賀は当たり前のように他の棋士と会話していて、かつてはそこに居場所があったのだと、自然と感じられた。
「ああ、そっか。古関さんから見ると、夏紀くんの新たな一面なんだね」
「先生がお友達と話してるの、初めて見ました」
「友達じゃありません」
本人を目の前にしても、久賀はきっぱりと言い切って手洗いへ立つ。
「先生、ひどくないですか?」
久賀が去った方向を見てそう言うと、馨は少し考えながらも久賀に同意した。
「友達とは少し違うかもね」
エビフライをひとつ取って、ソースをかける。
「小さい頃から大会で顔合わせて、会えば将棋ばっかり指して。でもそれだけだから」
美澄ちゃん皿取って、と辰夫に言われて、皿を手渡しながら首をかしげる。
「普段夏紀くんと連絡取り合ってるわけじゃないし、遊びに行くわけでもないし。そういう友達はそれぞれいるからね」
「そうなんですね」
「それに、俺の方が先にプロになって、思うところもあったと思うよ。いただきます」
馨が口に入れたエビフライは、さくりと音がした。美澄は久賀のコーラが炭酸の泡を浮かべる様を見つめる。
「俺と夏紀くんだと直接対決では俺の方がちょーっと分が悪いから、複雑な心境ではあるかな」
「『ちょっと』じゃない。勝率で言うと、僕が七割勝ってる」
手洗いから戻るなり久賀が言う。
「七割は言い過ぎでしょ。せいぜい五割五分」
「1000局やった時点で僕の684勝305敗11引き分けだった」
「そのあと結構巻き返したじゃん。2000局の時点で俺も800勝越えてたはずだよ」
「え! 先生と師匠ってそんなに指してるんですか!?」
ふたりは顔を見合わせる。
「途中からわからなくなって忘れました」
「3000はいってない気がする」
桁の違いに美澄が言葉を失っていると元気よく脚で引戸が開けられた。
「はーい、お待たせ。美澄ちゃん特製の茶碗蒸し!」
綾音がトレイから、ひとつだけ受け皿の色が違う器を久賀の前に置く。
「はい。夏紀のは椎茸抜き」
「どうも」
「そういえば、先生って椎茸苦手だったんですね」
茶碗蒸しを作っているとき綾音から、夏紀は椎茸苦手だから入れないで、と言われていたのだ。
「……噛んで、飲み込めないことはないです。栄養価が高いことも知ってますし」
味を想像したのか、強張った表情で久賀は言う。
「いえ、いいんです。ただ、全然知らなかったので」
「あなたと椎茸について話す機会がなかっただけです」
「そうですよね」
久賀のことを美澄は何も知らない。美澄のことも久賀は何も知らない。将棋というただ一点の繋がりは馨も同じなのに、今しがた見せられた関係に比べて、ひどく儚いもののように感じられた。大好きな豚汁もれんこんのきんぴらも、うまく喉を落ちていかない。
「久賀くん、ご両親はまだ海外?」
「この春からロンドンに戻ったようで、まだしばらくは帰らないみたいですね」
「倶楽部の方はどう?」
「思ったより忙しいです。オンラインも始めたし、指導の依頼が多くて」
「父さん、うちはオンライン導入しないの?」
「そこまで手が回らないよ」
ただ箸を持ったまま、賑やかな会話にタイミングだけ合わせて相づちを打つ。
「夏紀って今夜は泊まって行くの?」
「いや、明日は仕事だから帰る」
「あら、そうなの? 残念。泊まって行けばいいのに」
「またの機会にお邪魔します」
「夏くんがうちに初めて泊まったのっていつだっけ? 小学生だったよね?」
「おばさん、昔のことは……」
「廊下とか暗いから、夜のトイレなんて小学生にはハードル高かったみたいで」
「おばさん、もういいです」
「あ! 思い出した! 夏紀、夜中に、」
「綾音!」
久賀は美澄を睨みつけるようにして、
「……未遂です」
と言った。
「『未遂』って何がですか?」
「未遂です」
「……はい」
迫力に押されて何度もうなずく。忍び笑う馨や辰夫にも、久賀は鋭い視線で口止めした。
この場で美澄だけが知らない話題、美澄だけが共有していないものに、胸の中にひんやりしたものが兆す。
そんな美澄の目の前で、久賀はいたって自然に振る舞っている。
「馨、辛子ない?」
「冷蔵庫。自分で取ってくれば?」
「私持ってきます」
立ち上がろうとした美澄を、久賀が手で制する。
「僕が使うものなので」
キッチンにもためらいなく入り、冷蔵庫を開ける音がする。しかし、しばらくしても戻ってくる様子がなく、やがて冷蔵庫がピーピーと抗議を始めた。
「もう、しょうがないな」
美澄が立ち上がるより早く、綾音が箸を置いてキッチンへ向かう。
「何してるの?」
「いや、どこだったかな、って」
「目の前にあるじゃない」
「ああ、本当だ。ありがとう」
「あ、美澄ちゃんすごい。夏紀って本当に冷蔵庫と同じくらいの高さだ。身長何cm?」
「178」
「うちの冷蔵庫、178cmだったんだね」
「それ知ってどうするの?」
「全然いらない情報だよね」
綾音の笑い声を聞きながら、美澄は口に運ぼうとしていた茶碗蒸しを元に戻した。
「すみません。今日、ちょっと疲れちゃったみたいで」
「大丈夫?」
真美は心配そうに伏せた美澄の顔色を見る。
「大丈夫です。でも、ご飯は明日食べてもいいですか? あんまり遅くならないうちに、コピーしたい棋譜もあるので」
「それはいいけど、何か食べやすいもの作ろうか? お粥とかスープとか」
立ち上がろうとする真美をあわてて押し留めた。
「本当に大丈夫です。疲れただけで、とっても元気なので! ちょっとコンビニ行ってきます」
辰夫も心配そうに白髪混じりの眉を下げる。
「もう暗いから、馨ついて行ったら……」
「大丈夫です。本当にちょっとですから」
無理に笑って立ち上がり、手つかずの食事にラップをかけて冷蔵庫にしまうと、美澄は財布を持って玄関を出た。
いっそひとりの方が救われる。
夜風に冷まされ、吐きそうなほどの不快感は違和感程度にまで静まった。体調が悪いわけではなく、どういうわけか落ち込み続ける気持ちのせいだとわかってはいた。
右に曲がるとすぐにコンビニはあるのに、わざと真っ直ぐ歩いて少し離れたコンビニを目指す。空を見上げる余裕もなく、爪先の30cm先ばかり見て歩いていた。
「何やってるんですか」
久賀の声がしたが、美澄は顔を上げなかった。
「先生はどうしたんですか?」
「あんな飛び出し方したら、みんな不審に思うでしょう。追いかけろ、と馨に蹴り出されました」
「すみません」
「あなたはもう少し感情を隠す術を身につけるべきです。もう子どもじゃないんですから」
「すみません」
「まあ、あの一家はメンタルが不安定な人間の扱いには慣れていますから、大丈夫でしょうけど」
「すみません」
かすかな足音だけが続いて、とうとう久賀が根負けした。
「何があったんですか?」
美澄は答えなかった。もったりとした歩調は美澄にとってもひどく遅い。歩幅の大きな久賀はときどき立ち止まりながらも、そのペースに合わせて辛抱強く待った。
「わかりません」
美澄の返答は素っ気なかった。機嫌をうかがって、久賀は美澄の顔を見る。しかし、不貞腐れているわけではなく、美澄自身も理由がわからずに戸惑っていた。
「……僕は、あなたに何か余計なことでも言いましたか?」
「違います!」
美澄は弾かれるように顔を上げた。
「先生に会えて、本当に本当に嬉しかったんです」
美澄も困り果てて、額に手を当ててうつむいた。
「なんでこんなに落ち込むのか、自分でもわからないんです」
久賀も美澄も黙って歩いた。歩幅が極端に小さいため、なかなかコンビニにはたどり着かない。
「明るい色の服を着たらどうでしょう」
久賀からそんな言葉が出るのは意外で、美澄はきょとんと見上げた。
「あなたが以前そんなことを言っていたので。『明るい色の服を着ると、気分も明るくなる』と。僕と似たような服を着て、気分が明るくなることはないかと思って」
不本意ではありますが、と本当に不本意そうに言う。
「先生は落ち込んだときどうしますか?」
「僕は……僕の方法は、あなたには適用できないと思います」
久賀と視線を合わせて、美澄は納得した。確かに今、踏切を眺める気持ちにはなれない。
美澄はしばらく考え込んでいたが、突然、
「なんか、腹が立ってきました」
と言い出した。
「え?」
「なんか、腹が立ってきました。先生に」
「僕に? なんで?」
「わかりません。でもなんか、殴りたい」
美澄が握りしめた手を見てそう言うので、久賀は、えー、と情けない声を出す。
「せめて理由を」
「だからわかりませんって。でも、何もかも先生が悪い気がするんです」
理不尽に向けられた怒りに、久賀はしばらくうなだれていたが、
「……じゃあ、殴りますか?」
と、美澄の目線まで頭を下げた。
「いいんですか?」
「それで気が晴れて将棋に集中できるなら、甘んじて受けます。あ、でも手加減はしてください。痛いのは好きではないので」
眼鏡をはずし、目をつぶって奥歯を噛み締める久賀を目の前にしたら、美澄の中にわだかまっていた“何か”は霧散した。そのあとにはあたたかな気持ちが広がる。
すぐ目の前から聞こえてきた笑い声に、久賀も薄目を開けた。
「覚悟が揺らぎそうなんですが」
「先生、ありがとうございます。もう大丈夫です」
尚も笑いながら、足取り軽く歩き始める。下がって上がって、自分が何に振り回されているのか、美澄にはわからない。どんな難解な局面も、この感情の動きに比べたら明快に思える。
「本当に?」
「はい。大丈夫です。なんだかお腹すいてきました。みんなにアイス買って帰りましょう」
眼鏡をかけ直した久賀がその隣に並んだ。
「食べ終わったら、久しぶりに指しましょうか」
「いいんですか!?」
「それを想定してお酒は断ったので」
美澄は久賀に抱きつかんばかりに目を輝かせた。
「私、先生に聞きたいことがいっぱいあるんです! この前の研修会の四局目で三間飛車を採用した時、▲6六角って上がられてそのあと桂馬跳ねるところで」
「ああ、昔流行したタイプの対四間飛車の相振り飛車でしたね」
「そうです。あの時、△5五歩突くタイミング、やっぱり遅かったですよね」
「▲6六に角上がって桂跳ねるのはひとつの形ですから、それを完成される前に━━」
「ちょっと待ってください! 盤欲しい」
眉間に皺を寄せて、美澄は久賀の言葉を遮った。
「まだ何も言ってませんが」
「先生は初期設定で頭の中に盤が搭載されてるでしょうけど、私は後づけなので電力使うんです。だから早く帰りましょう」
踵を返した美澄を久賀が呼び止める。
「アイスは?」
「アイス……買わなきゃダメですか?」
自分で言い出したことさえ面倒くさそうに美澄はしぶる。
「コピーすると言った棋譜もないでしょ。手ぶらで帰るのは不自然です」
「じゃあさっさと買いましょう。それでさっさと帰りましょう」
「それから、僕は七時半には出ます」
「えー! 全然時間ない……。先生、走って!」
残り100mを美澄は全力疾走する。久賀もホッとした顔で、そのあとを追いかけた。
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