△20手 再会

 小規模の将棋大会やイベントは、参加する棋士、女流棋士、奨励会員などが企画、スポンサーへの交渉、準備、設営から撤収まで、すべてを担うことがある。


「重い……失敗した」


 パイプ椅子を両手に三脚ずつ抱えて、美澄は後悔していた。スタッフが足りないことはわかっているので、こんな雑用は自分ひとりで十分だと請け負った手前、今さら助けを呼べない。背伸びしていてもパイプ椅子は完全に床を擦り、今にも崩れ落ちそうになっていた。

 ひとりでやり切る気概はあっても、気概で筋力は上がらない。せめてもう少し身長があれば、と美澄は妄想する。身長があれば、少ない筋力でも運びやすいのに。


「能力以上のことをしようとすると、逆に効率が悪いですよ」


 半ば崩れていたパイプ椅子を掴んだのは、スーツに包まれた腕だった。


「……先生!?」


 眉間にシワを寄せて美澄を見下ろした久賀は、もう片腕のパイプ椅子も受けとる。


「長テーブルひとつに四脚ずつ、向かい合わせに並べればいいんですよね」

「はい。あ、でも……」

「あなたは盤駒とチェスクロックを置いてください。のろのろ動かれると邪魔です」

「……すみません」


 東京という土地で、しかも見慣れないスーツ姿の久賀に、美澄は少し人見知りしていた。以前のように気軽に話しかけられず、黙ったまま作業を進める。美澄がとろとろ盤駒を運ぶ間に、久賀は四脚ずつ抱えて大きな歩幅でさっさと運ぶ。


「先生、すみません。ありがとうございます」

「いえ。慣れてますので」

「そうなんですか?」

「奨励会員時代に何度も経験してますし、今もイベントがあれば駆り出されます」

「ああ、そっか」


 久賀はガシガシと器用に椅子を並べていく。途方もなく感じられた作業は、驚くほどスピーディーに進んでいった。


「先生、スーツ珍しいですね」


 ジャケットを脱いだ久賀は、やはりブルーのストライプのYシャツだったが、さすがに印象は違う。


「こういう場ですから」


 今日は馨も含め、男性はスーツ、女性もワンピースやブラウスにスカートなど、みんなきちんとした服装で臨んでいる。


「あなたこそ、服装があまりに違うので一瞬わかりませんでした」


 美澄は珍しく、ベージュのパンツに青いチェックのシャツワンピースを着ている。


「棋士の私服ってどんな格好したらいいかわからなくて。それで先生の真似したんです」


 久賀は形容しがたい表情で美澄を見た。美澄の身近にいる“棋士”が馨だったこともあって、「一般的」の基準にずれがある。


「じゃあ、今日は僕のコスプレってことですか?」

「あ、そっか。そうなりますね」


 自身と久賀を見比べて、美澄は小さくため息をつく。


「服だけじゃなくて、先生くらいの身長と、先生くらいの筋力と、先生くらいの棋力があったらよかったのに」

「なんですか、それ」

「そうしたらパイプ椅子も楽に運べるし、女流棋士にもさらっとなれますよね」

「そうですけど、それってほとんど僕そのものですよね」


 想像したのか、久賀はさも嫌そうに顔を歪めた。それを嘲笑うように声が割って入る。


「すみませんねぇ、久賀センセ。うちの弟子がご迷惑かけたみたいで」


 にこにこ笑う馨を久賀はジロリと睨んだ。


「お弟子さんに『一般的な』服装の指導もしてくださいよ、日藤先生」


 馨は一度美澄を上から下まで眺めた。


「襟ついてるし、デニムじゃないし、オフィスで働いてもおかしくないじゃない。問題ないと思うけど」


 合格点をもらえてホッと胸を撫で下ろす美澄に、馨は付け足して言う。


「でも面白みはないよね。無事女流棋士になったらスーツ買ってあげる。いいやつ」


 久賀は馨の『いいやつ』に不安を覚えたようだが、美澄はやる気に満ちた笑顔を見せた。


「ありがとうございます! 頑張ります!」


 ところで師匠、と美澄は馨の胸元に目を凝らす。


「もしかして中のシャツ、レディースですか?」


 馨がネクタイをめくると、そこは併せが逆になっていた。


「うん、そう。レディースの方がデザイン華やかだからね」


 唖然として言葉を失う久賀の隣で、美澄は瞳を輝かせた。


「かわいいです!」

「だろ?」


 機嫌よくネクタイを直した馨は、時計を見て言った。


「夏紀くんいてくれてよかった。子ども大会の進行みてよ。弟弟子がひとり風邪で休んじゃって手が足りないんだ」

「僕が?」

「そこそこの棋力があって、イベントの要領わかってて、子どもにも指導にも慣れてて、みんなと顔馴染み。休んだ弟弟子よりよっぽど役立つよ」


 筋力や身長の違いだけでなく、こんな時でも美澄ではまだ力になれない。しかし、美澄にないあらゆるものを持っている久賀の方は不満そうに言った。


「ボランティア?」


 その発言に馨の眼光が鋭くなり、久賀のシャツを掴み寄せる。


「俺にそんなこと言える? 夏紀くんが俺に逆らえる?」


 久賀は顔を背けた。馨には七万年先までこき使われても文句は言えない恩がある。


「じゃあ、よろしくね。終わったら家に寄ってよ。ご飯ご馳走する」


 真美にメッセージを送った馨は、スマートフォンをポケットにしまって入口横のテーブルを指差した。


「古関さん、夏紀くんとふたりでパンフレットに広告挟んで。要領は夏紀くんがわかってるから」


 長テーブルに並んで、美澄と久賀は手作りのパンフレットを二つ折りにし、その間に将棋教室や盤駒専門店などの広告を挟んだ。一日のスケジュールと会場案内が印刷されたパンフレットはシンプルではあるが、それなりの手間が予想できる。普及活動とはボランティアの要素が強い。


「そういえば、先生なんでここにいるんですか?」


 スーツ姿の久賀にもようやく慣れて、今さらながら美澄はその疑問にたどり着いた。


「この大会は奥沼一門の主催でしょう」

「はい」


 馨の兄弟子がタイトルを防衛した記念として、師匠である奥沼七段が一門の名前を冠して将棋大会開催を呼び掛けた。馨はもちろん召集されて、イベントの運営や指導対局をすることになっているが、その弟子である美澄も一門扱いで手伝いに呼ばれたのだった。


「狭山先生は奥沼先生の弟弟子なので、このイベントに一枚噛んでるんです。その縁で、今日は圭吾くんも参加することになりました」

「圭吾くん、来るんですか! わあ、会いたい!」

「古関さんもいるかもしれない、と言ったら、圭吾くんも楽しみにしてました」


 圭吾には満足にお別れも言えなかった。あれから半年以上が過ぎ、東北では雪も降り始める季節だが、元気にしているだろうか。


「それで、先生は? 引率ですか?」

「……まあ、そんなところです」


 大変ですね、と美澄は労ったが、久賀は曖昧な表情を返しただけだった。


「先生、お元気でしたか?」


 毎日将棋を指すので、毎日久賀のことを思い出す。美澄が心配するようなことは何もないけれど、どうしているかと気にはなる。


「先月少し咳か出たくらいで、特に悪いところはありません。インフルエンザの予防接種も済ませました」

「そういう意味ではなかったんですけど、お変わりないみたいでよかったです」


 しぼらく作業を続けていると入口のドアが開いて、記憶にあるより大きな男の子が顔を覗かせた。


「失礼しまーす」

「圭吾くん!」

「古関さん、久しぶり。狭山先生にお願いして、早めに入れてもらっちゃった」


 立ち上がって圭吾を迎えた美澄は、以前と目線が違うことに歓声を上げる。


「背伸びたねぇ。中一だっけ? やだやだ大人!」


 大騒ぎする美澄を放っておいて、圭吾は久賀に向かって頭を下げた。


「久賀先生、こんにちは」

「こんにちは。お父さまは?」

「客席の方にいます」


 久賀が隅の方に立っている男性に挨拶をしに行ったので、代わりに圭吾が作業に入る。


「古関さん、俺、奨励会落ちた」


 美澄は作業の手を止めたが、事実を伝えるだけの声に悲壮感はない。


「受けたの?」

「うん。全然ダメだった。小学生に負けた」


 奨励会試験は毎年八月に三日間かけて行われる。師匠を立てて推薦を受けた者が受験して、一次試験はその受験者同士で六局戦う。四勝で合格、三敗で失格。しかし、圭吾は一勝もできなかった。


「高校になったら級を上げて受験しなきゃいけないから、無理言って受けさせてもらったんだ。でも、やっぱり奇跡なんて起きないね」


 美澄は小さくうなずいた。奇跡は起きない。どんなに願っても起きない。将棋を指しているものは誰でも、日々それを感じている。勝つことも負けることもすべて自分の力。


「だからこそ勝つと嬉しいんだけどね」

「せめて二次試験までは行きたかったな」


 二次試験は現役の奨励会員と三局対局して、一勝できれば合格となる。


「俺、奨励会は諦める」


 圭吾はさっぱりと言った。


「いいの?」

「でも将棋はやめないよ。高校は強いところ受験して、団体戦で勝ちたい」


 たくましくなった姿が嬉しくて、美澄は自分とあまり差がなくなった頭をぐりぐりと撫でた。


「研修会はどう?」


 ボサボサになった頭を撫でつけながら圭吾が尋ねた。尋ねられた美澄の方はパンフレットの上に倒れ込む。


「激流川上りって感じ」

「激流?」

「一歩進む前に三歩下がる。ぼうっとしてると五歩くらい下がる」

「よくわかんないけど、大変そうだね。頑張って」


 圭吾のやさしい声に美澄はじんわりとあたたまる胸を押さえた。


「でも久賀先生は『古関さんは大丈夫』って言ってたよ」

「そうなの?」


 美澄よりよっぽど丁寧に作業している圭吾は、広告を挟み終えたパンフレットを段ボール箱に収めていく。


「『古関さんはしぶといし、なんだかんだとメンタルの強さは常人じゃないから』って」

「それ、褒められてるのかな?」

「……多分」


 徐々に関係者は増え、美澄はいただいたお酒やお花を受付横のテーブルに並べる。その隣で圭吾は出入りする人を目で追っていた。


「すごい。プロ棋士がいっぱい。名人までいる」


 その発言を受けて、美澄は圭吾に顔を寄せて囁いた。


「名人って、どの人?」

「一番奥のテーブルで揮毫してる人」

「え! あの人?」


 名人は竜王と並ぶ将棋界最高峰タイトルのひとつ。末席を汚すことすらできていない美澄には、雲の上の存在だが、にこやかに揮毫している青年にその威圧感は見えなかった。


「本当に名人? 圭吾くんの見間違いじゃない?」

「間違いないって」


 戻ってきた久賀に、美澄は同じことを尋ねる。


「先生、あの揮毫してる方が名人なんですか?」


 この会場にいる者としてその発言は常識外で、久賀は目を大きく見開いた。


「まさか、現役の名人を知らないんですか?」

「お名前と棋譜は存じ上げてますけど、お顔まで把握してなくて。……さっきお弁当運んでもらいました」


 久賀が絶句した。


「名人戦の中継とか画像は?」

「チラッと見ましたけど、盤面ばっかり見てたので。服装違うし」


 せっせと揮毫する名人を見つめていた圭吾は、大人びたため息をついた。


「古関さん、相変わらず何も知らないんだね」


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