▲19手 泣いていい

 リビングに差し込む日差しは、少しずつ秋の香りを持ち始めていた。九筋に残った香車にも透明な光が差している。


「ありがとうございました」


 美澄が頭を下げると、馨も軽く一礼した。そして中央にまとめた駒を数えながら駒袋に収めていく。


「これ読む?」


 広げていた棋書を馨は指差した。


「お借りしてもよければ」

「いいよ」


 パタンと閉じて渡された本を、美澄はありがとうございます、と受け取って、添削された棋譜とひとまとめにした。


「師匠、お茶飲みますか?」

「うん。冷たい緑茶ある?」

「あります。今持ってきますね」


 美澄は引戸を開けてキッチンに入る。冷蔵庫には馨の好きな緑茶が買ってあった。氷を入れたグラスに注ぐと、パリパリと音が立つ。


「師匠、今日は泊まっていかれるんですよね」


 少し声を張って問いかけると、馨がやってきた。


「うん。明日教室で指導だから」


 日藤将棋教室は、この家から徒歩三分のビルの二階にあり、馨は月に一回程度指導を担当している。


「今夜みなさんお出かけなんですけど、夕食はどうされますか? 今から何か準備しますけど」

「いや、いいよ」


 もらうね、と馨はその場でグラスに口をつける。美澄もペットボトルを冷蔵庫にしまってから、馨の隣で緑茶を飲んだ。


「ちょっと時間早いけど、ご飯食べに行こうか。たまに」

「はい」

「ついでに買い物もしていい?」

「はい」


 空になったグラスをシンクに置いた馨は、ぼんやりしている美澄の視線をたどった。


「冷蔵庫、どうかした?」

「え……いえ、別に」

「なに?」

「本当にたいしたことじゃないんです」

「うん?」


 言わなきゃだめ? という視線を向けても馨は聞く姿勢を崩さないので、しぶしぶ答えた。


「……この冷蔵庫、先生と同じくらいの高さだなぁ、って」


 馨は冷蔵庫の隣に並んで、自分の身長の位置を手で印す。手のある場所から冷蔵庫の上部までは数cm差があった。


「そうかもね」


 ふたりで冷蔵庫を見上げるが、ジーッという電気の音がするばかり。


「……すみません。どうでもいい話でした」

「こうして見ると、夏紀くんってそこそこ身長あるね」

「倶楽部でブラインド掃除する時とか便利でした」

「ブラインドの掃除か。夏紀くん、頑張ってるんだね」

「はい」


 美澄がグラスを洗って水切りカゴに伏せると、馨はハットを頭に乗せる。


「じゃあ、行こうか」

「はい」


 美澄は馨を小走りで追いかけて、その洗練された後ろ姿に感心した。ゆったりしたグレーのクロップド丈パンツを、自身の脚に合う長さに折って調節している。


「師匠、今日のパンツの丈かわいいですね」

「ありがとう。うれしい」


 夏の名残の陽を背景に馨は笑う。


「古関さんは今日、妖精?」


 美澄が着ているカットソーは、イエローグリーンの三段フリルになっている。


「『レタス』です」

「レタスにしては黄ばんでない?」

「……変ですか?」

「俺は好きだよ。ファッションは個性だから」


 ありがとうございます、と美澄はほんのり口角を上げる。馨はうつむく美澄の後頭部を見下ろした。


「俺はね、『変』は褒め言葉だと思ってるの」

「そうでしょうか」

「大事なのは、俺がそう思ってるってことだよ。他人の評価じゃない」


 美澄はさっきより明るく笑って顔を上げた。西風が古びた夏を掃き清めるように街を吹き抜けていく。


「先生は奇妙だって思ってたみたいです」


 あはは、と馨は声を立てて笑う。


「夏紀くんはねぇ。『タンクトップが高いって納得いかない。布の面積少ないのに』とか言う人だから」

「言いそうです」


 久賀は今日も青か黒のシャツを着ているのだろう。せめてTシャツの裾は出してくれているだろうか。

 また吹いた西風が美澄のフリルをひらりと撫でた。


 オムライスの卵をつついて馨は、これどうなってんだろう、とつぶやく。


「何回かチャレンジしたんだけど、できたことないんだよね、ふわとろオムライス」


 スプーンですくったとろとろの玉子を目の高さで眺め、口に入れてからさらに考え込む。


「師匠ってお料理好きですよね」

「そうかな? 普通だと思うけど」

「私、一人暮らしでオムライスは作りませんでしたよ。面倒臭くて」


 美澄が食べているハヤシライスも、普段自分では作らない。一人暮らしだと、どうしても調理が簡単なメニューに偏りがちになるのに、馨はその手間を厭わない。


「うちはみんな働いてて、俺が一番時間あったから料理してただけ。慣れの問題じゃないかな。古関さん、料理はきらい?」

「特に好きではないです」

「好きじゃないのに毎日やるのは大変だよね」

「先生に、食事と睡眠も戦いのうちだ、と言われたので」


 吹き出した馨は、腕で口元を押さえる。


「どこの誰がそんな偉そうなこと言ってんだろうね」


 久賀は倒れたあと、ひと月ほど日藤家のお世話になっていたらしい。最後の奨励会は日藤家から行ったそうだ。


「古関さん」


 いつの間にかオムライスの皿は空になっていて、馨は組んだ両手に顎を乗せて美澄を見据えた。


「食欲はあるみたいだね」

「はい」


 予想より多めだったハヤシライスも、残り四分の一まで減っている。


「寝れてる?」

「……はい」

「何かあった?」

「いいえ。たいしたことは何も」


 馨の視線を感じつつ、美澄は大きな牛肉を口に運んだ。


「別に俺に何でも話せ、とは言わないけど、俺もうちの家族も、困ったときは力になりたいと思ってるよ」

「はい。ありがとうございます」


 馨を待たせているプレッシャーから、美澄は食べる速度を上げた。馨の方は気にした様子もなく、ゆったりと話しかける。


「夏紀くんとは連絡取ってる?」

「いいえ」

「どうして?」


 美澄は目を伏せて力なく笑った。


「もう、ご迷惑はかけられないです」


 久賀とは友達でも家族でもないから、他愛ない話をする間柄ではない。次に連絡を取るとしたら、女流棋士になった時か、挫折して辞める時だろう。

 味わう余裕もなく残りのハヤシライスを掻き込み、口元を紙ナプキンで拭う。


「師匠、何かお買い物あるんですよね? お付き合いします」


 馨は一瞬だけ困った顔をしたが、すぐに目を細めて笑顔を作った。


「そう? じゃあ、フライパン買うの付き合って。小ぶりなやつが欲しくて」

「はい」


 眠れないわけじゃない、と言い訳しながら、美澄は布団に転がっていた。エアコンの風がときどきカレンダーの端をめくる。仰向けになると蛍光灯の明かりがまぶしくて目を閉じた。

 馨には眠れていると返事をしたけれど、決して寝つきはよくなかった。そもそも、対局の前日はあまり眠れない。だからこんなことは慣れていると、自分にも言い聞かせていた。

 けれど、浮き輪を水中に沈めようとするみたいに、なかなか睡眠に入っていけない。ようやく眠っても、浅い眠りからまたぷかりと浮き上がってしまう。眠れないわけじゃない。けれど、よく眠れているわけでもない。

 ドアがノックされて、美澄はビクリと起き上がった。


「はい」

「遅くにごめん」


 馨の声だったので、美澄はパジャマの上にラベンダー色のカーディガンを羽織ってからドアを開けた。


「寝てた?」


 コンタクトを眼鏡に変えていた美澄を見て馨は尋ねた。馨も風呂上がりのようで、実家に置きっぱなしにしているTシャツとハーフパンツ姿だった。


「いえ、これから棋譜を並べてから寝ようと思ってて」


 馨はじっと美澄を見つめた。


「あの、どうかしました?」

「古関さん。やっぱり夏紀くんに電話してみたら?」

「先生に?」


 馨はもどかしそうに頭を掻いた。


「俺たち家族には言いにくいことも、夏紀くんになら話せるでしょ」

「そんな、言いにくいことなんて……」

「俺は古関さんを夏紀くんから預かったと思ってる。至らない自覚もある。だから遠慮しないで電話したらいいよ。冷蔵庫なんて見てないでさ」

「いえ! あれは本当に深い意味はないんです!」


 美澄は自身の失態を悔いる。冷蔵庫に変な意味を持たれてしまうと、今後使いづらい。


「それに私、先生の連絡先知らないので」


 馨は、は? と言って動きを止めた。


「今までどうやって連絡してたの?」

「棋譜は倶楽部のパソコンに送ってます。あと、何かあれば倶楽部の電話に」

「夏紀くんからは?」

「連絡来たことありません」

「はあ!?」


 表情を険しくした馨は、


「スマホ貸して」


 と手を差し出した。そう言われても他の人なら渡さないけれど、相手が馨であることとその怒気に押されて言われるままに渡した。馨は自分の電話帳を見ながら、美澄のスマートフォンで電話をかける。


「━━━━もしもし、夏紀くん? 日藤だけど、今大丈夫?」


 最低限の礼儀は払いつつ、馨はぶっきらぼうに話す。知らない番号にもすぐ出た相手は、どうやら久賀らしい。


「これ、古関さんの電話。ちょっと古関さんと話して」


 馨は美澄にスマートフォンを押しつけると、おやすみ、と部屋を出て行った。残された美澄は恐る恐る受話口に耳を当てる。


「……もしもし」

『……もしもし、久賀です』


 高すぎず低すぎず、久賀の声は耳のちょうどおさまりの良いところに届いた。


「お久しぶりです。古関です」

『えーと、あの、』

「はい」

『馨が『古関さんと話せ』って』

「……はい」


 少し間があって、気を取り直したように落ち着いた声が返ってきた。


『馨は無意味なことはしません』

「はい」

『それで、僕の方からあなたに緊急性の高い用はありません』

「はい」

『ということは、つまり……あなたが僕に用がある、と馨は判断したんじゃないでしょうか』

「そう、みたいです」


 美澄の返答から一拍おいて、真摯な声で久賀は問いかけた。


『何かありましたか?』


 馨に聞かれたときと違って、何もありません、という虚勢が張れなかった。沈黙は雄弁で、もう嘘は言えない。


『将棋のことだったら、こちらが聞かなくたって、あなたはベラベラ話すから、おそらく将棋以外のことですよね』

「『ベラベラ』って……」

『ですが、僕はたいした能力もないので、聞いたところで力にはなれないと思います。だから先に謝っておきます。すみません』


 そんなことを馬鹿正直に言うなんて、電話の向こうにいるのはやはり久賀だと思った。力になれないと言いながら聞く姿勢は変えず、その沈黙はひどくやさしい。そう思ったら張り詰めていた気持ちが緩んだ。いや、張り詰めていると自覚さえしていなかった心のやわらかい部分が緩んだ。

 それは、隠すようなことでも、馨に話せないようなことでもない。些細などうでもいいこと。


「『所詮おばさんでしょ』って言われました」


 胸の痛みは気のせいではなく、事実じくりと痛んだ。


「言われたっていうか、言っているのをたまたま聞いちゃっただけなんですけど」

『誰に?』

「研修会の友達……友達だと私は思っていた子です。高校生なのに、最初からきさくに話してくれる子で、とても助けてもらいました」


 相づちや返事はない。それでも久賀が心を寄せてくれていることは、なぜだか伝わってくる。


「でも、私と対局が決まって、他の子に『所詮おばさんでしょ。負けたら恥』って」


 唇の震えが声に混ざらないように、力を込めて話した。


「あと、『服が変』って」

『ああ』

「たいしたことじゃないのはわかってるんです。別に若く見られたいとか、そんな風に思ってるわけでもなくて。すみません。気持ちの切り替えがうまくできてないだけで、師匠には余計な心配をかけてしまいました」


 ぱたりと降りた沈黙の向こうで、久賀が思考に耽っている気配がする。それは美澄にとって慣れ親しんだ、懐かしく居心地の良い気配だった。


『……その人と将棋の話はしましたよね、当然。戦法とか、勉強内容の話もしましたか?』

「はい。しました」

『負けたでしょ。その人とやって』

「……はい」


 気持ちに動揺があったことも確かだが、序盤から作戦負けで、終始梨乃のペースだった。思考が読まれているような不安から手が伸びず、指先から崩れていく感覚に襲われる。ひとりできりきり舞いしてひとりで転んでひとりで負けた。そんな不甲斐ない将棋だった。

 それを聞いて、久賀はため息に似た悩ましい声を漏らす。


『研修会は棋譜を取りません。だから、誰がどんな戦型を得意としているのか、今何を勉強しているのか、そういう情報が、勝敗につながることがあります』

「……はい」


 聞かれるままに何でも話した。同じ苦しみを共有していると思っていたから。梨乃の意図が情報収集であったかどうか、美澄にはわからない。ただの日常会話だったと思いたい。でも、知り得た情報は利用するだろう。それは卑怯なことでも何でもない。


『他者から向けられた悪意による傷は、簡単に癒えるものではありません』


 変わらない淡々とした声で、けれど傷口に手を添えるように、ゆっくりと久賀は話す。


『例え他人から見て些細に思えても、タイミングや、そもそもの人間関係や、状況など、さまざまな要素が重なって、深く傷つくことはあります。その際、されたことの内容はさして重要ではありません。あなたがもし『些細なことで傷つくのは自分の弱さだ』と思っているなら、それは違うと僕は思います』


 泣いていい、と言われたのだと美澄は思った。長ったらしく回りくどい、久賀らしい言い方で。顎から膝に落ちようとする涙を手の甲で拭い取る。


『……『服が変』については、フォローできませんが』


 さっきと同じ真剣なトーンでそう言われ、美澄は吹き出した。


「先生、正直」

『でも、僕はきらいじゃないです。慣れたので』


 沈黙が降りても、どちらも通話を切ろうとしなかった。お互いの気配だけが電話回線を伝って届く。


『残念ですが、将棋において年を取ることは、あまりメリットの多いことではありません。でも、人間としては特に卑下すべきものでもないと思いますよ』


 布団に寝転がり、白い天井を眺める。ここは東京の馨の部屋。けれど久賀の声が聞こえる。


「先生はきっと、白髪頭になってもあのカウンターに座ってるんでしょうね。今の平川先生みたいに」

『いや、その頃には移転するかリフォームしたいです。今のトイレ、水量がたいぶ少なくなってるので』

「そうでした。懐かしい」


 トイレ掃除は毎日久賀がしているのだろう。ブラインドに埃は積もっていないだろうか。


「先生」

『はい』

「ありがとうございます」


 何が解決したわけでもない。お互い黙っていると何も聞こえない。姿も見えない。けれど、ただそこにいるという事実に安心して、美澄は目を閉じた。

 目覚めた時、カーテンの向こうはすでに明るかった。かけっ放しだった眼鏡の位置を直し、床に落ちていたスマートフォンを見ると六時半を過ぎている。画面には乾いた涙の跡が残っていた。

 電気もパソコンもつけたままで寝てしまったことに罪悪感を覚えながら一階に降りると、キッチンから小さな悲鳴が聞こえた。


「師匠? おはようございます」

「おはよう」


 フライ返しを手にふり返った馨は、しげしげと美澄の顔を見る。手で触ってみると、泣いたせいでむくんでいるのがわかった。恥ずかしさで顔を覆う美澄に、馨はにっこりと笑う。


「さすが俺。最善手」


 顔を覆ったまま美澄は、え? と首をかしげた。


「ずっと血の気がなかったんだよ」


 食べるよね、と馨はトースターに美澄の分のパンを追加する。


「ご心配をおかけしました」

「別にいいよ。心配するくらいしか師匠の仕事なんてないんだから」


 馨は得意げにフライ返しをくりんくりんと回したあと、


「それよりさ、これ見てよ」


 と顔を曇らせる。ダイニングテーブルを回り込むと、床には破裂したような卵が飛び散っていた。ふわとろオムレツを作ろうとしたらしい。


「母さんと姉ちゃんには内緒にして」


 困り果てながら、馨は遺体を検分する刑事のように卵片をつつく。


「わかりました」


 美澄は笑って、雑巾持ってきますね、とキッチンを出た。



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