△18手 先生と師匠
日藤家へと戻る美澄の足取りは軽い。この夏初めて買った日傘は重いけれど、今はそれも気にならない。左手ではスマートフォンの画面を開いては閉じていた。
「先生、お久しぶりです。お元気でしたか? 今日勝って、C2に昇級できました」
口の中で何度も練習したセリフはさりげなく言えるだろうか。緊張してなかなか通話ボタンを押せない。陽が落ちても下がらない気温で、スマートフォンを持つ手も汗ばんでいる。
声がかすれているような気がして、ペットボトルの水を飲み、咳払いを数回した。画面に「あさひ将棋倶楽部」の番号を表示させて、またしても逡巡する。倶楽部はもう終わった時間で、後片づけをしているはずだ。報告だけして切れば、さほど迷惑にはならないだろう。
通話をタップする指がそれでも臆病風を吹かせ、数回目でようやく押した。呼び出し音より、鼓動の方が大きく聞こえる。
『はい、あさひ将棋倶楽部です』
落ち着いた声が聞こえて、美澄も肩の力を抜く。
「もしもし。平川先生、お久しぶりです。古関です」
『ああ、古関さん。お元気でしたか?』
「はい。平川先生もお変わりないですか?」
『こちらは相変わらずです』
にこにことあたたかみが電話越しに伝わってくる。平川を前にすると心がアマチュア1級に戻っていく。
「今日、ようやくひとつ昇級して、C2になりました」
『それはそれは。おめでとうございます』
「ありがとうございます」
『C1、B2、あとふたつですか。近いようで遠いですね』
「はい。頑張ります」
それでも一歩前進できたことで、美澄はようやく倶楽部に電話することができた。一時は最悪の報告も覚悟したので胸を撫で下ろす。
美澄が言葉を続けるより早く、平川がわずかにトーンを落とした。
『残念なんですが、久賀先生は今日企業の将棋部から依頼されて指導に出ているんです』
声が出ず何度かうなずいたのだが、伝わらないと気づいて、そうでしたか、と付け足した。
『久賀先生にも伝えておきますね』
「よろしくお願いします」
通話を切ると、左腕がぐったりしていた。変な力が入っていたらしい。曲げていた肘の内側を汗が伝い、ハンカチで拭う。
スマートフォンをバッグに入れて、すぐ隣にあった手帳から「夏休み集中レッスン」というチラシを取り出した。その裏面には、姿焼きの棋譜が手書きで書かれてある。いつも持ち歩くせいで縁が少しよれていた。
大雑把な文字ながら、きちんと並べて書かれてあるのでとても見やすい。すでにそらんじられるほど見たけれど、本当にひどい将棋だ。この棋力で久賀に勝負を挑んだという度胸以外は褒めるところがない。もう一度目を通して、元通りバッグにしまった。
足元には日傘の影が黒々と伸びている。
美澄が戻ると、キッチンには綾音がいた。綾音も帰ったばかりらしく、エコバッグから食材を取り出している。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
「手伝います」
ダイニングチェアにバッグを放り出して、美澄はシンクで手を洗う。
「いいよ。研修会終わったばっかりでしょ」
「大丈夫です。勝ったので」
えへへ、と笑うと、綾音も笑う。
「何勝?」
「三勝一敗です。昇級しました」
「調子上がってきたね」
ダイニングテーブルに広げられた食材を、美澄はざっと眺める。
「今夜は何を作るんですか?」
「何作れると思う?」
綾音の顔を見ると、悪びれずに見つめ返される。
「安いやつ適当に買ってきただけだから」
まかせる、と綾音は美澄の決断を待つ姿勢を見せた。
「えーと、じゃあ、なま物から使いましょうか。アジ……フライだと暑いかな」
「エアコンついてるから大丈夫。はい、アジフライは決まり」
「鶏もも肉……焼くか煮ちゃうか」
「シチューにする?」
「アジフライがあるのでシチューはちょっと……。ポトフ、は合うのかなぁ?」
「合うとか合わないとかどうでもいいよ。はい、鶏肉はポトフ!」
「あと、何か野菜……」
「ある野菜適当に炒める。決まり!」
美澄が洗おうとしたじゃがいもを、綾音が手からもぎ取った。オフィス用のブラウスにパンツのまま調理するらしい。
「私、魚捌けないから、そこは古関さん頼みで買ったの」
「やります、やります」
アジを軽く水洗いしてから頭を落とす。
「海の近くで生まれると、みんな魚捌けるの?」
「どうでしょう。うちは父が趣味で釣りもやってたので」
アジの頭はやわらかく、ぐにゃりとつぶれながら切れた。内臓もとろとろに溶けていて、まな板は猟奇殺人の現場のように血塗られた。これほど流通が発達しても、地元に比べて魚の鮮度はかなり落ちる。そもそもスーパーの鮮魚コーナーが極端に狭い。
「最近、アイドルのDVD観ないね」
綾音の剥くじゃがいもの皮はだいぶ厚く、ゴツッと音を立ててシンクに落ちた。
「元々好きで観ていたわけじゃなかったので」
「すごく苦痛そうな顔してたもんね。『忍耐』って感じ」
綾音はカッチリとした真顔で動きを止めた。美澄の真似をしているらしい。
「えー、そんなでした?」
「うん。こんなだった」
綾音はふたたびカッチリとした真顔を作る。
「綾音さんにもご迷惑をおかけしました」
「いや、結構楽しかったよ。人気あるのわかった」
「そうですか?」
「大翔くんみたいな弟欲しかったよね」
「師匠の方がいいですよ」
両手がふさがっているせいで、綾音は首をぶんぶん振った。
「ないないないないないないないない! 小学生の頃から変な格好ばっかりしてて、一緒に歩くの恥ずかしかったもん」
「そんなことないです。師匠は服もお人柄も将棋も素敵です」
「キャップをふたつ重ねてかぶるんだよ? 左右違う靴履くんだよ?」
「華やかでいいと思います」
「弟子っていいなぁ。全肯定してくれるんだもんね」
哀れみの視線を向けて、また分厚い皮をシンクに落とす。
「じゃあDVDは観ないで返したの?」
「はい。もうお断りしました」
「友達は大丈夫?」
「大丈夫じゃなくても、友達を作りにきたわけじゃないから仕方ないです」
梨乃は明らかに落胆していたけれど、挨拶や会話は普通に交わす。年齢も環境も違って、共通の話題は将棋しかなかったので、大事な話題を減らしてしまったことは申し訳ないと思っている。
「友達作りって永遠の課題だし、大事なことだと思うけど。でもそうだね」
開いたアジの血を洗い、細かい骨もできるだけ取る。アパートのキッチンよりはかなり大きいけれど、それでも作業スペースは限られるので、綾音に場所を渡した。
「安心した」
そうつぶやいた綾音に、美澄は軽く頭を下げる。
「不甲斐ない結果ばかりで、ご心配をおかけしました」
「そうじゃなくて、ちゃんと女流棋士になる気あったんだなぁ、って」
ゴリゴリと綾音は鶏肉を切る。
「何しにここに来たのかな、って思ってたから。いてくれて助かってるけど」
綾音は笑ったが、美澄は笑えず顔を歪めて首を振った。
「すみません。甘えてました」
手を洗って、綾音は冷蔵庫からビールを取り出す。飲む? と聞かれても、美澄はやはり首を横に振った。
「他人の家に居候するって、しんどいよね。それはわかってるつもり。油、火つけるよ」
揚げ鍋に火をつける綾音に、アジにつけた小麦粉を落としながらうなずいた。
「みなさんには本当に感謝しています。そのご恩に報いるには、ちゃんと女流棋士にならなきゃいけないのもわかってます」
「私たちのことはどうでもいいよ。たいした協力できないから。でも、夏紀は違うでしょ」
久賀の名前が飛び出して、アジを卵にくぐらせていた手が止まる。
「夏紀、テーブルに頭つくくらい深く頭下げたらしいよ」
揚げ鍋に菜箸を入れて、油いいよ、と綾音が呼ぶ。作業はまったく進んでおらず、慌ててパン粉をつけたせいで、床にかなり飛び散った。
「古関さんが男だったら、夏紀が苦労しなくても受け入れ先は見つかったと思うんだ。でも、女はねぇ」
久賀は最初、馨の師匠である奥沼七段にお願いしたらしい。奥沼門下は人数が多く、姉弟子もたくさんいるから知り合いも作りやすいと考えた。奥沼も了承してくれたのだが、その妻が、他所のお嬢さんを預かるには身体が辛いと言ったらしい。他に何人頼んでも、内弟子となると家族の了承が得られなかった。
「仕方ないよね。ただ他人と生活するってだけでも大変なのに、若い女の子が家にいるって気を使うもん」
男っていくつになっても男だって言うからね、と汚いものを見るように吐き捨てる。綾音が言うように、男だったら受け入れてもいい、という声はあったようだ。
久賀は女流棋士にも何人も頼んだ。けれど、そもそも弟子を取ってもいいという人自体見つからなかった。
綾音は左手でビール缶を持ち、右手で鍋に油を回す。
「最初はうちの母に頼みに来たの。うちはほら私もいるし、同居すること自体は可能だけど、母は弟子を取る気がなくて」
そこで久賀は馨に頭を下げた。それまでずっと黙って聞いていた馨は、ひと言「いいよ」とあっさり受けたそうだ。
鶏もも肉を入れると鍋から油の弾ける大きな音がする。綾音は少し声を張った。
「夏紀が馨に投了以外で頭下げるなんて、天地がひっくり返ってもないと思ってた」
『よっぽど』の理由。それは美澄にではなく久賀にあった。馨にとっては十分なほど。
アジを引き上げることを忘れていた。尻尾がすっかり黒くなっていたけれど、身を食べる分には支障なさそうだ。
「これをプレッシャーに感じる必要はないし、結果的に女流棋士になれなくてもいいと私は思う。でも、夏紀と馨の想いは知っておいて欲しい」
はい、と答えた声はかすれて、ほとんど吐息だった。
キャベツ忘れてた、と綾音が言うので、美澄は野菜室からキャベツを取り出す。それを持ったまま冷蔵庫を見上げた。将棋教室の月間予定表やキッチンタイマーが張りつけてある、さらにその上を。
「ねえねえ、このポトフの味、微妙じゃない?」
美澄は差し出された小皿から透明に近いスープを口に含む。
「……ぼやっとしてますね」
「ぼやっとしてるよね」
「どうしましょう?」
「シチューにしちゃおうか」
「そうしましょう」
美澄はキャベツを冷蔵庫にしまって、戸棚からシチューのルーを取り出した。
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