▲17手 警報音

 昇級した! と抱きついてくる梨乃を受け止めて、美澄は笑顔でお祝いを述べる。


「おめでとう」

「ありがとー!」


 アップに結い上げた梨乃の髪がくりんと踊る。自身が負けても不思議と他人の昇級は喜べた。けれど、喜ぶ気持ちと、比較して落ち込む気持ちは、相反することなく同居する。


「美澄さんは?」


 無邪気に聞く梨乃に、美澄も正直に答える。


「一勝三敗」

「あらー」


 梨乃がすん、と眉を下げたので、かろうじて苦笑いを返した。

 負け方も良くなかった。初戦勝ってからの三連敗。同じ勝ち数でも、三連敗のあと一勝したのとでは、次に向かうモチベーションが全然違う。

 悪くないと思っていた。悪くないと思っていたのに負けた。つまり、その「悪くない」がそもそも間違いだったのか。それともどこかで致命的なミスを犯していたのか。三戦とも? 前回、前々回が二勝二敗と指し分けだったから、調子が上向いてきたと油断したのだろうか。


「まあまあ、美澄さん」


 黙り込んだ美澄の背中を梨乃はやさしく撫でる。


「大丈夫、大丈夫。次は勝てるって」

「うん。ありがとう」


 ありがとう、で思い出し、バッグから借りたDVDを取り出す。


「こっちもありがとう」

「これ、すごくかっこよくなかったですか?」

「うん」


 昨夜またあわてて観た内容は、ほとんど思い出せない。眠気に襲われ、濃いコーヒーを片手に、指で瞼を持ち上げていた記憶しか残っていなかった。


「このライブの時の着ぐるみ、ヤバいですよね。かわいいと美しいは共存できるんだな、って初めて教えてもらいました。大翔くんがかわいすぎて画面破裂するんじゃないかって毎回気が気じゃないんですよ」

「破裂したら困るなぁ。ご迷惑かけちゃう」

「もう大翔くん、私の息の根止めにかかってますよ。でも呼吸止まっても永遠に見ていられる……」


 パッケージを眺める表情は生き生きとしている。梨乃の目の輝きを、美澄は羨ましく見つめた。


「美澄さん、このあとご飯食べに行きませんか? 私、絶対に美澄さんを沼に引きずり込みたいんです!」

「あ、ごめん。私は仕事が……」


 梨乃が肩を落とす。元気に跳ねていた髪も、心なしかしおれて見えた。


「そうでした。内弟子って大変ですね」


 申し訳なさで痛んだ美澄の胸に、梨乃は別のDVDを押しつけた。


「次はこれです。今までと雰囲気変わって一瞬びっくりするんですけど、どんどん引き込まれるんです! ハルくんのソロ、振り付けもハルくんがしてるので絶対いいと思います! これ見て元気出してくださいね!」


 ありがとう、とDVDを振って、美澄は足早に駅へと向かった。

 嘘だった。家事は研修会の前日と当日は免除されている。

 早くひとりになりたかった。ひとりになって、ゆっくり落ち込みたかった。けれど帰ってもひとりになれる場所はない。二つ前の駅で降りると、そこは全然知らない場所で、線路の伸びている方向へぼんやりと歩いた。

 将棋会館のある千駄ヶ谷と違って、美澄の生活圏は田舎と大差ない。むしろ、地方では大型ショッピングモールの影響で潰れたような小さな商店街が今も残っていて、馴染みのない美澄でさえ懐かしさを感じる。

 夏至を過ぎたばかりで日暮れは遅く、終わらない夕暮れを歩いているようだった。古びたアスファルトの割れ目から伸びたハマスゲが、濃い影を落としている。

 三連敗は地獄の入口のようだ。三局しかなかったから三連敗したけれど、もし五局あったら五連敗、十局あったら十連敗していたように思う。

 将棋に運の要素は少ない。相手のミスで運よく勝ちを拾うことはあっても、運悪く負けることはない。負けるには理由があって、その理由がある限り永遠に負け続ける。

 指すのが怖い。今指したらきっと負ける。

 胸の奥にあるラムネ瓶の中でビー玉がからん、からん、と音を立てていた。抜け出したくても出られない。出られそうな気がしても、出られない。同じところをぐるぐるぐるぐる。からん、からん。それは、生きている意味があるのだろうか。

 踏切の警報音は、こんな時でもはっきり聞こえた。気づけばあたりは暗く、その中で点滅する赤いランプはすべての思考を蹴り飛ばして、我を見よ、と入り込んでくる。左の遮断機が降り、右の遮断機が降りる。

 踏切のほとりに立ってみると、頼りない棒一本隔てて、その先は黄泉へと通ずるように暗い。かすかに聞こえた電車の音が、徐々に大きくなってくる。まもなく、やってきた電車の車内照明が光の帯となって眼前に広がった。


『…………好きですることに、意味が必要ですか?』


 あのときより車両の数はずっと多く、光の帯も警報音も永遠のように長い。風にあおられた髪の毛が視界に入り、撫でつけるように押さえた。


『将棋は、進化し続ける者しか勝てない競技です』

『女流棋士を目指すとか、段位を上げる以前に、負けても悔しくても将棋が面白いっていう気持ち。それがあれば前に進める』

『終わりにしましょう。話になりません』

『努力が無駄になるのは当たり前ですからね』


 潤みそうになる瞳を閉じても、赤色ランプの明滅はわかる。眼裏に翻った青いシャツが、しょぼくれた背中を叩いた。


『だって、ずるいでしょ。『自分には才能がなかったんだ』『努力する才能もなかったんだ』全部言い訳できます』

『もっともっと努力してください。限界を感じたなら、それを越えてください。全力を出す、とは並大抵のことではありません』


 遮断機が上がって、再開された往来に押される形で美澄も歩き出す。踏切は少しだけ小高く、線路の真ん中に立ってみると、ゆるくカーブを描きながらどこまでも続いているように見えた。その上を、水で薄めたような青空が夕闇に押されて地平に沈んでいく。


『頑張ってください』


 唇の震えを、歯形がつくくらい強く噛んで止めた。

 棋譜をまとめて馨と倶楽部に送る。詰将棋。棋譜並べ。ネット対局。棋書。泣くより他にやるべきことはたくさんある。


『意味のないことに、意味のない人生をかけて、意味のない努力をする。でも、それでいいんじゃないかと、僕は思うようになりました』


 この世界では勝つより他に解決策はないのだ。そのために必要なのは意味ではなく、ただ真っ直ぐな努力だけ。

 進む先に広がる夜空は、透き通って見えた。



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