第二局 みずたまりの跳び方

△16手 洗礼

「何観てるの?」


 声を掛けられて、美澄はハッと目を開けた。観ているつもりがいつしかうとうとまどろんでいたらしい。


「あ、綾音あやねさん」


 綾音は美澄の後ろを通って、リビングからダイニングキッチンへ抜けた。

 日藤馨の弟子になり、その実家に内弟子に入ってひと月。家事と将棋教室の手伝い、それに自身の勉強と研修会。毎日は目視できないほど速く過ぎていく。

 綾音は師匠である馨の二つ上の姉で、金属加工メーカーに勤務している。美澄は今この綾音と、その父親の辰夫たつお、母親の真美まみと四人で暮らしていた。

 時刻は零時を回っている。冷蔵庫のドアが開け閉めされる音がしたかと思うと、グラスに口をつけながら綾音が戻ってきた。中身は麦茶らしい。床にペタンと座る美澄の隣で、彼女はソファーに腰かけてテレビ画面を見た。


「あ、なんとか7?」

「7green、だそうです」


 DVDのパッケージを確認して美澄は答えた。キラキラと光沢のあるパッケージから、七人の男の子がこちらを見つめている。テレビの中ではその七人が、歌いながら激しいダンスを踊っていた。


「古関さん、こういうの好きなんだ」

「いえ、研修会の友達が貸してくれたんです。明日返すので観ないといけなくて」


 ふうん、と綾音は麦茶を飲んだ。お風呂上がりで濡れた栗色の髪を、肩にかけたタオルが受け止めている。

 日藤家は一階にリビングとダイニングキッチン、両親の部屋、客間があり、二階に綾音の部屋と馨の部屋、ベランダがある。美澄が借りているのは元々馨の部屋だった八畳間で、テレビはあるがDVDプレーヤーはない。


「綾音さん、観たいのあったらどうぞ。私はパソコンで観ますので」

「ううん。このままでいい」


 綾音は存外真剣にテレビを観ていた。画面を彩るチラチラした明かりが、その瞳の中でも踊る。


「この子、かっこいい」

「どの人ですか?」

「紫の髪の子。エロくていい」

「そうですか」


 画面は目まぐるしく変わり、その「紫の髪の子」を認識できないまま歌が終わった。


「明日、研修会なんでしょ?」

「はい」

「大変だね」

「いえ。通えるだけありがたいので」


 家事を手伝っているとはいえ、家賃はもちろん、食費も光熱費も免除されている。また教室を手伝った分はアルバイト代も入る。研修会の会費も、女流棋士になったら返す約束で馨が立て替えてくれていた。これ以上望んだらバチが当たる。


「ごめんね」


 綾音は画面を見たままそう言った。流れているのはバラードで、プラチナブロンドの髪の男性がソロで歌っている。


「私、イライラしてるでしょ」


 そうだ、と答えることなどできず、美澄は、いえ、とつぶやいた。


「慣れるまで、もう少し我慢してね」


 日藤家の一家に悪意がないことはよくわかっている。けれど、他人を傷つけるのは必ずしも悪意ではない。

 美澄とて、迷惑にならないよう精一杯努めてはいるが、「存在するだけで負担だ」という事実はどうしようもない。真美や辰夫の就寝が早いのも、その疲労のせいであることは明白だった。


「綾音さんのせいではありませんから。本当にすみません」

「だから謝る必要はないよ」

「でも、綾音さんにはメリットないので」


 真美や辰夫には重宝されている部分もあるが、この家で唯一将棋を指さない綾音にとっては、邪魔なだけの存在だろう。


「そういうのも大変でしょ? 周りみんなに『ありがたい』『申し訳ない』って思って生活するの」

「でも、本当にそうなので」

「古関さん、パンクするよ、そのうち」


 綾音はきっぱりと言い切る。


「何かあったら遠慮なく言って……と言ったところで、言いにくいとは思うんだけどさ。まあ、文句は夏紀に言ってよ」


 久賀は父親の転勤で東京に引っ越して、小学校五年生と六年生の二年間、綾音と同じクラスだったらしい。その時期奥沼の将棋教室にも通っていて、そこで馨と親しくなったそうだ。だからこの家で久賀は、美澄の知る「先生」とは別人に思えるほど親しげに呼ばれている。


「いえ。ありがとうございます」


 目まぐるしく変化するライトの中で、七人が息の合ったダンスを披露している。これは、あとどのくらい続くのだろうかと、美澄はしずかにため息をついた。


 *


 頭が痛いのは、睡眠不足のせいでも脳を酷使したせいでもなく、ひたすらな自己嫌悪のせいだった。

 一日四局指す研修会で一勝三敗。その一勝も、美澄の犯したミス以上のミスを相手がしただけの泥試合で、棋譜を消滅させたいほどに恥ずかしい内容だった。

 道の端では、朽ちた桜の花びらが砂埃と混じり合っている。地元の桜はちょうど見頃だろうか。二十二年身体に馴染んだ季節感と東京の季節は、少しずれがある。


「美澄さん、お疲れさまでーす」

「お疲れさま、梨乃りのちゃん。ご機嫌だね」

「今日全勝だったんです! 次回の成績次第では昇級できそう」


 うふふふ、と梨乃はひとつにまとめた艶やかな黒髪を揺らす。


「おめでとう」


 勝負の世界で明暗が分かれるのは当然のことで、美澄もいちいち苛立ったりはしない。


「美澄さんは?」

「一勝三敗」

「あらら」

「師匠に棋譜送るのやだなぁ」


 棋譜は毎回馨に送り、後日添削されて返ってくる。あさひ将棋倶楽部にも報告がてら送ってはいるけれど、こちらは一切返事がないので、送るのをやめるべきかどうか悩んでいるところだった。


「師匠に棋譜なんて送るんですか?」

「うん。梨乃ちゃんのところは違うの?」

「うちの師匠、放任なので。昇級したり降級したときだけ報告するように言われてます」

「門下によって全然違うんだね」


 馨の師匠、つまり美澄にとっては大師匠にあたる奥沼七段は、弟子の指導はあまりしないらしい。その代わり、たくさんいる兄弟子や姉弟子が練習相手になってくれたそうだ。同門といっても弟子同士まったく接点のないところもあれば、毎月一門会を開くところもある。美澄のように他に門下生のいない場合もたくさんあって、師弟の在り方は様々だ。


「美澄さんの師匠って、日藤先生ですよね」

「うん」

「年、かなり近いですよね?」

「私より四つ上」


 梨乃は不思議そうに美澄を見つめた。


「熱心に指導してもらって、好きになっちゃったりしないんですか?」

「すき?」


 梨乃の師匠である鳥井田八段は彼女より五十歳以上年上で、棋士としてはすでに引退している。だから年の近い師弟関係が想像つかないらしい。

 しかし馨以外の師匠を知らない美澄にしてみれば、父にときめかないように、兄に頬を染めないように、馨に恋をするという概念はない。指し手の切れ味にはうっとりするけれど、それもまた恋とは別物だ。


「だって、日藤先生のお家に住んでるんですよね?」

「ご実家にお世話になってるけど、師匠は一緒に住んでないよ」

「でも今時『内弟子』なんて、よっぽどでないと取りませんよね」


 久賀と日藤の間でどういうやり取りがあったのか、美澄はまったく聞かされていない。ただ、自身に『よっぽど』の才能があるとは思わないので、久賀が『よっぽど』何かしてくれたのかもしれない。


「それより、これありがとう」


 おもむろに話題を変えて、キャラクターのついた紙袋を梨乃に差し出した。中身は昨夜あわてて観たDVDだ。


「あ、どうでした? ダンスすっごくないですか?」

「ああ、うん。すごかった」

「泰くんの汗で濡れた髪を払う仕草とかヤバいですよね! 髪切らないでいてくれて感謝しかないです!」

「そうだね」

「美澄さんは誰が一番よかったですか?」

「誰……あの、紫の髪の人、かな。エロくてかっこよかった」

「ハルくんか。美澄さんって、そっちのタイプなんですね」


 そっちがどっちかわからないまま、美澄はとりあえず笑顔を向ける。


「ハルくんって色気があるのはもちろんですけど、小学生のときダンスの世界大会に出てるんですよ。歌もうまいしラップもできるし、低音から高音までまったく隙なし! だから美澄さんの気持ちもわかります。でも大翔くんの人の心の隙間にそっと寄り添う癒しにも気づいて欲しかったなぁ」


 美澄はうなずきながら、脳内で将棋に変換していた。小学生名人戦で優勝して、居飛車も振り飛車も指しこなすオールラウンダー。しかも序盤から終盤までまったく隙なし! そう考えて、初めてハルくんに心からの敬意を向ける。


「へえ~、ハルくんってすごいんだね」


 ところが、変換した経歴がほぼ久賀と一致していることに気づき、そちらの方がより一層美澄に驚きを与えた。ただし、「色気がある」は変換できないし当てはまらない。


「でもよかった! あれ観てハマらない人はいないと思ってるんです。で、次がこっち。ドームなのでとにかく派手ですごい仕掛けがいっぱいなんです! オープニングで大翔くんのお姿を拝見しただけで、四局指した疲れなんて一気に浄化されますから!」

「……ありがとう」


 頭が痛いのは、きっと低気圧のせいだ。


 *


 カレーができた頃、タイミングよく馨が顔を出した。


「師匠、いらっしゃいませ」

「カレー?」

「はい」

「外までいい匂いしてる」


 馨はセロリのようなさわやかさを持つ青年で、美澄とはまた違う個性的なファッションを好む。今日は襟つきの白いシャツとノーカラーの白いシャツを二枚重ねで着ていた。


「今日はカレーやめればよかったですね。せっかくかわいいのに、染みがついたらもったいないです」


 馨は、ありがとう、と笑って袖をまくった。


「大丈夫。気をつけるよ」


 真美と辰夫は教室で指導中、綾音は彼氏と遊びに行っているので、美澄は馨とふたりテーブルに向かい合ってカレーを食べた。


「やっぱり、カレーってそれぞれの家庭で味違うよね」


 白シャツを気にした様子もなく、馨はすいすいスプーンを運ぶ。


「そうですか? お家にあるルー使ったんですけど」

「野菜の切り方かな。うちの母は何でも賽の目に切るんだ。その方が煮えやすいからって」

「合理的でいいと思います」

「あ、そうだ」


 はい、と馨はバッグから紙を取り出して、美澄の前に置いた。


「ありがとうございます」


 赤字で添削された棋譜を見ると、カレーでも牛丼でも、味なんてどうでもよくなった。


「すみませんでした。不甲斐ない結果で」

「そこは謝る必要ないよ。結果は古関さん個人の問題でしょ」


 結果は個人に属する。冷たいようなドライなようなこのスタンスは、棋士全体に通じるものだ。


「ただ、結果が出なかった原因が、今の生活にあるなら話は別だけど」


 スプーンを置いて馨は美澄と向き合う。


「大丈夫です。単に私の勉強不足ですから」

「そう」


 冷蔵庫の音が大きく聞こえるほど沈黙が続いた。スプーンとお皿のぶつかる音。福神漬を噛み砕く音。


「師匠」

「ん?」

「どうして私の弟子入りを許してくださったんですか?」


 馨は顔を傾けて美澄を見つめたまま、カレー皿に山盛り二杯の福神漬を入れる。


「夏紀くんに恩売るチャンスだから」

「それだけですか?」

「棋譜は見たよ。女流棋士になれる見込みがない人を弟子に取るほどお人好しじゃないし」

「ありがとうございます」


 馨は麦茶を飲んだが、うかがうように美澄から目をそらさなかった。


「誰かに何か言われた?」

「……かなり、レアケースだと」

「ああ」


 慎重に言葉を選んだのに、馨はすぐに理解したようだった。福神漬を飲み下してから言う。


「邪推する人はいるよね」

「師匠も何か言われますか?」

「もう慣れた」


 慣れるというより、おそらく最初から気に留めていない。馨はおだやかそうに見えるが、芯は頑固で揺らがないひとだ。勝ち気で直截な物言いをする綾音でさえ、馨に余計な口出しはしない。馨が決めたから、美澄はこの家に入ることができたのだ。だからこそ、なぜ会ったこともない美澄の弟子入りを許したのか疑問だったが、納得の行く答えは得られなかった。


「棋界の師弟関係を理解してる人は何も言わないし、外野の言うことなんて気にしても仕方ない。これから女流棋士になれば、根も葉もないことを山ほど言われるようになるよ。いいトレーニングだと思ったら?」

「はい。そうします」


 馨はひと口残ったカレーにほぼ同量の福神漬を合わせる。さっき袋から開けたばかりの福神漬は半分以下に減っていた。


「師匠、福神漬お好きなんですね」

「カレーは福神漬を食べるための口実でしょ」

「私『口実』を作ってたんですか?」

「出来のいい『口実』だと思うよ」


 馨はにっこり笑って、二杯目のカレーをよそうために立ち上がった。


「私やります」

「いいよ、別に。それより食べたら昨日の研修会の将棋振り返るからね」

「はい。お願いします」


 まだ知り合って日は浅いが、美澄はこの師匠に久賀とは異なる類いの信頼を寄せていた。人柄は久賀が保証してくれたとはいえ、それでも恵まれた出会いだったと感謝している。

 不満など何もない。



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