▲15手 彩路

 三月下旬。四日に三日は天気が崩れるこの時期にあって、その日は未明に雨は止み、濡れた路面に太陽の光がきらきらと反射していた。

 美澄は久しぶりに切った髪を風に揺らして、あさひ将棋倶楽部を目指した。冬をぶり返したようにキンと冷えた空気が、むき出しになったうなじに心地よい。


「こんにちは」


 美澄が倶楽部のドアを開けると、数人いる常連から歓声が上がった。


「古関さーん! 今日行っちゃうんだって?」

「はい。この次の新幹線で」


 研修会試験を受けた美澄は、見事D1での入会を果たした。無事に二週間後の例会から参加できることになっている。

 師匠となった馨や日藤家への挨拶、引っ越しの準備、と大慌てでこなしていたため、倶楽部にはまったく顔を出すことができなかった。


「みなさん、お世話になりました。お菓子買ってきたので、休憩がてら食べてください」


 テーブルに紙袋ごとお菓子を置くと、常田、仁木、磯島をはじめとする数人が、自分の対局の手を止めてまでやってきた。


「日藤四段って、どんな人だった?」

「想像してたよりもきさくで、明るい方でした」

「内弟子って大変そうだねぇ」

「でも、ご家族みんなやさしいですよ」

「古関さん、頑張ってね」

「はい。ありがとうございます」

「こっちに帰ってきたときは寄ってよ」


 美澄が曖昧に笑うと、仁木は大袈裟に自らの頭を叩いた。


「ああ、そっか。実家はこっちじゃないんだっけ」

「すみません。なかなか顔は出せないかもしれません。でも、近くまて来たら絶対寄りますから!」

「寂しくなるねぇ。頑張ってね」

「ありがとうございます。頑張ります」

「女流棋士になったら指導にきてね」

「それは必ず」


 何度も頭を下げていた美澄に、古関さん、とカウンターの中から久賀が声をかけた。


「新幹線の時間、もうすぐじゃないですか?」


 時刻表が搭載されている久賀は、圭吾を促す時と同じように美澄にも告げた。時計を確認した美澄も慌て出す。


「そうでした! あ、平川先生!」


 初めて会った日と変わらない笑顔の平川に、美澄は駆け寄った。


「お世話になりました」

「頑張ってね」

「はい。ありがとうございました」

「身体に気をつけて」


 言葉少なにそう言った平川は、そっと美澄の背を押す。その先、カウンターの中には一向にパソコンから顔を上げない久賀の姿があった。平川の後押しを受け、美澄は自らカウンターを回り込む。


「先生」


 呼び掛けても久賀は応えない。声は届いているはずなので、意図的に無視を決め込んでいるのだろう。少し恨めしげな表情で、久賀が諦めるのを待つ。


「……こういうのは苦手なんです」


 困り果てたようにそう言うので、美澄はつい笑ってしまう。

 しぶしぶといった風に久賀が立ち上がると、美澄の視線は久賀の腰元に向けられた。


「あの、先生」

「はい」

「最後のお願い、聞いてもらえますか?」

「……何でしょう?」

「Tシャツの裾、出してください」

「Tシャツ?」


 久賀はTシャツと美澄を交互に見て怪訝な顔をする。


「先生、あの、ちょっと失礼しますね」


 美澄が久賀のTシャツに触れると、久賀は息を飲んで硬直した。その隙にパンツから裾を引っ張り出す。


「あ! 先生。香車一本分、かっこよくなりましたよ」

「お腹冷えませんか?」

「幼稚園児じゃないんだから」


 どうでもいいやり取りはできても、さっきまで何度もくり返した挨拶が出てこない。俯く美澄を、久賀は再度促した。


「時間ですよ」

「はい」

「12番線のはずです」

「はい」

「でも、乗る前に一応確認してください」

「わかりました」


 時間に追われる形で、美澄はようやく頭を下げて別れの言葉を口にした。


「お世話になりました」


 言葉はこれまでと同じだったけれど、声音が少し潤む。押し寄せるたくさんの思い出をふり払って顔を上げると、久賀はわずかに目を細めた。二十夜の月が二十二夜の月になる程度に、わずかに。そして、ひと針ひと針オーダーメイドで、美澄のためにその言葉を贈ってくれた。


「頑張ってください」


 美澄はゆっくりとまばたきをして、まつ毛の先にまでその想いを染み込ませた。


「はい。今まで本当にありがとうございました」


 結局ギリギリの時間になり、美澄は倶楽部を飛び出した。歩道と横断歩道の境目にはみずたまりがあり、青空を映している。そこを飛び越えて駅へ走った。


「あ、雪」


 はらはらと舞う風花が首元に落ちて、美澄は一瞬首をすくめる。見上げる空はさっぱりと晴れて、門出を祝っているようだった。


「ああああ! 待って待って待って待って!」


 発車メロディーが鳴り響く中、確認しないままに12番線の階段を駆け下りる。最後の二段は飛び降りた。


「間に合った……」


 エネルギーを込めるように走り出した新幹線は、徐々にリズムに乗っていく。ほんの数時間後にはもう東京だ。

 鉄道は、誰かの意志で街と街をつないでいる。あの日久賀と眺めた踏切が、車窓の外を流れて行った。


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