△14手 餞

 定休日の倶楽部に呼び出されて美澄が行くと、すでに久賀はカウンターの中でパソコンを見つめていた。


「……おはよう、ございます」


 コートについた雪を払って、ドアの隙間からそろそろと顔を出す。


「おはようございます」


 久賀はいつもと変わらない態度で立ち上がる。その久賀に、美澄は深く身体を折り曲げて謝罪した。


「先生、先日は本当に申し訳ありませんでした。わざわざ病院までいらしてくださったのに、私、大変失礼なことを口走ってしまって、その、」

「体調はもういいんですか?」


 慈しむようなやさしい声に、美澄は一瞬言葉を失った。


「……はい。もう大丈夫です」

「無理していませんか?」

「先生に言われたように、しっかり寝て、ご飯もちゃんと作って食べてます」

「それならいいんです。僕の方こそ負担のかかる話を持ち出してしまって申し訳ありませんでした」


 久賀はパソコンのデータを保存し、電源を落とす。


「今日はちょっとお願いがあって」

「何でしょう?」


 久賀は一度キッチンへ行って空の缶を持ってきた。


「コーヒー豆がなくなりまして」

「コーヒー?」

「何か、新しいものを買おうと思うんですけど、僕は詳しくないので」

「お付き合いすればいいんですか?」

「ご迷惑でなければ」


 久賀の真意が読み切れないまま、美澄はうなずいた。


「私も詳しくないですけど、それでもよければ」

「一緒に選んでくれるだけでいいです」


 久賀は微笑んで、コートを羽織った。


 平日昼間の駅ビルは閑散としている。年々人口が減り、郊外に大きなショッピングモールができて、人の流れが変わったせいだろう。

 迷わず地下の食品街に降りようとする美澄を、久賀が呼び止めた。


「あっちの店、見てみませんか?」

「地元のコーヒー店ですか?」

「最近あちこちで見かけるので、気になってたんです」


 店内には数多くのコーヒー豆が並んでいる。奥はカフェスペースになっていて、地元木材で作られたテーブルと椅子によってコーヒーとはまた違う清々しい香りに満ちていた。


「本当にいろいろあるんですね」


 コーヒー豆の袋をくるくるひっくり返しながら久賀は言う。


「動物園とか水族館とコラボレーションしてるみたいですよ」


 虎が描かれたドリップパックを差し出すと、へえ、と久賀は興味深そうに受け取った。

 この店のオリジナルブレンドには、それぞれ独特のネーミングがされており、特徴は袋に裏書きされている。久賀は、ひとつひとつ裏返して産地や特徴を読んでいた。


「たくさんありすぎてわからないですね。先生、どんなのがお好きですか?」

「『どんなの』と言われても、特にこだわりがないので。古関さんのお好きなものでいいですよ」

「そうですか。じゃあ、これにします」


『彩路』と書かれた袋を美澄は手に取る。


「決めるの早いですね。どんな味なんですか?」

「えーっと……」


 今になって説明を読む美澄に、久賀は呆れて言った。


「読まずに決めたんですか」

「だって、『彩路』っていいじゃないですか。未来が明るい感じがして。軽い口当たりって書いてます」

「あなたがいいなら、それでいいです」


 お会計をする段階になって、久賀は、一杯いただいて行きましょう、と言い出した。店員にケーキセットを勧められると、


「じゃあ、ひとつはそれで」


 と勝手に決めてしまう。


「古関さん、お好きなものをどうぞ」


 そう言われて、さすがに美澄は戸惑っていた。


「先生?」

「店員さん、待ってますよ」


 スマートフォンを手に決済を待つ久賀と、笑顔の店員に見つめられ、美澄は追い詰められるようにショーケースと向き合った。


「すみません。じゃあ、チーズタルト」


 動揺している間に、久賀はさっさと電子決裁でお会計を済ませてしまう。美澄は千円札を出して、トレイを運ぶ久賀に突きつけた。


「先生! 待ってください! ごちそうしていただくわけには行きません!」

「別にいいです。このくらい」

「だめです! 私、先生にどれだけお世話になってると思ってるんですか!」


 久賀は立ち止まり、まるで初めて地動説に気づいたような顔をした。


「……そういう自覚はあったんですね」


 その認識に美澄は不満だったが、久賀があまりに真面目なので文句を言いそびれてしまった。


「ご馳走する理由が必要なら、お見舞いということにしましょう。この前は何も持って行かなかったので」


 四人掛けの席に座り、久賀は自分の分のコーヒーを取って、トレイごと美澄の方に押しやる。


「ありがとうございます。いただきます」


 美澄は諦めてお札をしまい、久賀の向かいに座った。スティックシュガーの袋を破って、ふと手を止める。


「もしかして先生、私を甘やかそうとしてませんか?」


 久賀はむっつりと黙り込んだが、美澄はすでに確信していた。


「体調不良は私の不注意で、先生のせいではありません」


 正面から見つめると、久賀はなぜか身を引く。


「……ずいぶん近いですね」

「そうですか? 倶楽部の机よりむしろ広いと思いますけど」


 木肌を楽しむように手を滑らせると、さらさらとやわらかな音がする。


「ああ、今は盤がないからか」


 そう言うと、久賀は隣の椅子に移動してしまった。

 どことなく久賀を取り巻く空気が違っていたが、初めて外で会っているせいだろう、と美澄は尋ねることなくチーズタルトを口に運ぶ。


日藤ひとうかおる四段という棋士をご存じですか?」


 おもむろに久賀が口を開いた。日藤という棋士も知らないが、久賀の意図もわからず、美澄は甘さ控えめのタルトを咀嚼しながら首を横に振った。


「日藤先生は現在二十六歳で、プロになって三年目の若手棋士です」

「先生のお友達ですか?」

「いえ、知人です」


 妙にきっぱり言い切ってから、久賀はひと呼吸ついた。そして、ひと言ひと言ゆっくりと言葉を差し出す。


「日藤先生のところに弟子入りしませんか?」


 女流棋士になるなら、いずれ誰かのところに弟子入りすることになる。それはわかっていても、これまで明確にイメージしてこなかった。美澄は薄く唇を開いたものの、黙って久賀を見つめる。


「日藤先生は一人暮らしをされていますが、ご実家も都内にあって、将棋会館まで電車で一時間程度です。お母様は、今は引退されましたが、数年前まで女流棋士でした。お父様もアマチュアの強豪として長く活躍された方です。昨年、ご自宅の近くにおふたりで将棋教室を開かれました」

「先生、あの……」

「そこに、内弟子として入ってもいい、とお許しをいただいています」

「内弟子……!」


 平成初期まで、地方に生まれて棋士を目指す子どもたちは、内弟子として師匠の家に住まわせてもらい修行を積むことがあった。交通機関の発達と、何よりインターネットの普及によって、地方でも情報を得ることが可能になったことで、現在内弟子に入る人はほぼいない。


「家事を手伝ってくれれば、生活費のすべては面倒みてくださるそうです。それから、将棋教室の手伝いには、わずかだけど報酬も出すと言ってくださってます。また日藤先生の師匠である奥沼七段の教室までは電車で三十分。そこで勉強させてもらえるようにお願いしてあります」


 次々語られる内容は驚きの連続で、頭の中をすり抜けていく。ただ、この話が破格であることだけは理解できた。


「あの、なんでそんな好条件……。見返りは?」

「あなたが女流棋士として活躍することでしょう」

「それだけですか?」

「それだけです」


 目を伏せて考え込む美澄に、久賀は覗き込むように首を傾ける。


「何か腑に落ちないことでも?」

「いえ、ただ単に、話がうますぎるような気がして」

「師弟制度は、人材育成支援であると同時に、自ら得たノウハウを後世に伝えるためでもあります。単純な利害とは別の話です。もちろん、師匠によって個人差はありますが」


 美澄は俯いていたが、それは悩んでいるわけではなかった。突然のお出かけ。チーズタルトの理由。


「……これかぁ」


『お見舞い』ではなく『餞別』。久賀が敷いてくれたレールをひたすら走ってきた美澄に、彼は新たなステージを用意してくれた。


「行った方がいい、とわかってます」

「はい」

「でも、私が東京に行ったら、先生とはどうなるんですか?」


 ここまで淀みなく答えてきた久賀が言葉に詰まった。


「……『どう』って?」

「私が東京に行ってしまったら、もう倶楽部に行くこともなくなってしまうじゃないですか。実家もこっちじゃないので」

「はい」

「私、ずっと先生に教えてもらえると思ってたので、今ちょっと混乱してます」


 スティックシュガーを二本とミルクを入れたコーヒーは甘ったるく、それでもさらりと喉を通った。口当たりは軽く苦味も少なく、なるほど前途の幸を願う『彩路』というネーミングは正しい。それでも美澄の眉間には皺ができた。


「僕は棋士ではないので、弟子はとれません」

「それは、わかってるつもりでしたけど、」


 美澄はがくりと首を落とす。


「わかってなかったんですね」


 いつまで経っても動かない美澄に、久賀は困ったように言葉を重ねる。


「日藤先生はとてもできた方です。僕の知る限り最も信頼に足る人だと思っています。認めたくはありませんが」


 子どもっぽくむくれたような表情は、久賀にしては珍しい。そこに美澄の知らない過去が覗いていた。


「実は他にも幾人かお願いはしたのですが、日藤先生が引き受けてくれてよかったと、僕は思っています」


 美澄は何度もうなずいて、ようやく頭を上げた。


「先生がそう言うなら、そうなんだと思います」


 美澄は握りしめていたフォークを置いた。明確な理由が乗ったチーズタルトは重く、これ以上ひと口だって食べられる気がしなかった。


「ご両親のこともありますし、大切なことですから、ゆっくり考えてください」


 久賀の表情は悲しいほどに穏やかだった。言葉でどう言っても、美澄が女流棋士を目指す限り、そこに選択の余地はないのだろう。


「私、行きます」


 ゆっくり考えろと言われたにも関わらず、美澄はひと呼吸ののちに答えた。


「先生のことだから、すっごくいろいろ考えて、これが一番いいって思ったんですよね」

「そうだとしても、これは他人の一提案です。鵜呑みにせず、自分で考えて納得して決めてください」


 美澄は強く首を横に振った。ずいぶん伸びて、ひとつにまとめた髪の毛が背中で揺れる。


「いいえ。行きます、東京。先生がそう言うんだから、行きます」


 それはささやかな反抗だった。自分では選ばない。考えない。あなたの言葉だから信じる。


「よろしくお願いします」


 机にくっつくほど下げられた美澄の頭に、久賀は寂しげな笑みを落とす。


「わかりました」


 窓の外では雪が雨に変わっていた。



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