▲13手 私はあなたに生まれたい

 ベッド脇に久賀がいたために、目覚めたばかりの美澄の目には動揺の色が浮かんだ。


「先生……なんで?」


 声が落ち着いているように聞こえるのは、単に力が入らないせいなのだろう。

 周りを囲むミントグリーンのカーテンは、上部が網状に開いている特徴的なデザインで、周囲を伺った美澄もここが病院であることを思い出したようだった。


「『フラジエ』でしたか。古関さんのバイト先に行ったら、こちらの病院に搬送されたと聞いたので。過労だそうですね」


 血管の浮き出た細い腕からは点滴の管が伸びている。表情がなく、色のない病衣をまとっている彼女は、まるで下手な鉛筆画のように見える。


「『アルバイトを増やしたから』と店長さんが心配していました」


 否定も肯定もせず、美澄はふう、と息をつく。

 二時間ほど前、倶楽部に美澄から電話があった。途切れ途切れの弱った声で、まだバイト先にいて今日の指導は遅れる、と言う。とても将棋の指せる状態には思えなかったが、通話は切れてしまった。切れる直前に『古関さん、救急車来たよ』と聞こえたのが気になり、倶楽部は平川に頼んでフラジエを訪ねた。

 フラジエの店長は三十代の女性で、突然の訪問に戸惑っていたが、美澄の友人だというスタッフが久賀の存在を認識していた。そこで当然知っているものとして語られた美澄の現状に、久賀は目眩を覚えた。


「古関さん、大学は辞めていたんですね」


 美澄の瞳に気まずそうな揺らぎが見えた。

 一年近く前、去年の三月には大学を中退し、そのことで親とも揉めたらしい。仕送りも止められ、美澄は生活のために雑貨店以外にもアルバイトを増やさねばならなかった。


「行政法のレポートが書き終わらなくて、辞めたくなっちゃったんです」

「いや、将棋ですね」


 断言すると、美澄は口を閉ざして視線を点滴へと逃がした。ずいぶん伸びた髪。ひどい顔色。目の下のクマ。痩せた指。艶のない爪。


「先生、すみません。先に倶楽部に戻っててもらえませんか? 私もなるべく早く行きますから」


 身体を起こそうとする美澄に、荒げたくなる声を押し殺して、久賀はしずかに制した。


「体調が戻るまでゆっくり休んでください」

「もう大丈夫です」

「そうは見えません」

「本当に大丈夫です。寝たら楽になりましたから」

「いいえ。しばらく勉強は休んでください」

「そんな悠長なこと言っていられません」

「古関さん……お願いです」


 頭を下げて懇願すると、美澄は力を抜いてベッドに沈んだ。


「寝てなかったでしょ」

「寝てましたよ。……少しは」

「ご飯は? 食べてましたか?」

「お腹がすいたら、適当に」


 久賀の深いため息が、真っ白な布団にぶつかった。


「少なくとも毎日五時間、いえ六時間は寝てください。ご飯は面倒でもちゃんとしたものを食べてください。目の前の一局を勝つためではなく、長期戦なのですから、休むことも戦いの一環です」

「『限界を越えろ』って言ったり、『休め』って言ったり、先生の要求は難しいです」


 他に二人いる同室の患者は、それぞれ談話室とシャワールームに行っていた。

 窓の外は吹雪なのに、風の音ひとつ聞こえない。月明かりも星明かりも雪も寒さも届かないこの場所は、鮮明な痛みと向き合うことだけを強いる。


「僕も同じ経験がありますから」


 半分閉じていた美澄の目が、ひたと久賀を見つめた。


「最後の三段リーグの時です。一人暮らししていたのですが、家事って思う以上に時間取られるでしょ」


 毎日必要なことだけでなく、電球が切れたり、古紙をまとめたり、小さなイレギュラーは日々たくさん起こる。


「だから、少しでも手を抜けることは抜こうと思いました。ご飯は作る時間はもちろん、食べる時間も惜しかったので、食パンをそのままかじったり」

「いつも?」

「はい」

「それだけ?」

「はい」


 美澄は口を開いたが、そこから言葉が出てこない。


「寝る時間が一番もったいなくて、特に設定していませんでした」

「『設定していない』って……」

「たまに意識がないときがあって、多分、そのとき寝ていたんだと思います」


 久賀は苦笑して言ったが、美澄は笑わなかった。


「ついでに言ってしまうと、人と会う予定がなければ風呂も━━」

「それで倒れたんですか?」

「そうみたいです。三ヶ月ほど経った頃でした。気づいたら、病院で寝てました」


 知人が久賀を発見し病院に運んだらしいが、そのあたりのことははっきり覚えていない。ただ、今美澄が見ている景色とよく似たものを見つめながら、道を踏み外したのだと悟った。


「古関さん。立ち入ったことを言うようですが、やはりご実家に戻られたらいかがですか?」


 美澄は返事をせず、じっと天井に目を向けている。


「ご実家で静養して、少しゆっくりしたペースで将棋と向き合ってみてもいいんじゃないでしょうか。将棋連盟所属にこだわらなければ、女流棋士になる道は他にもあります。一度生活を立て直して、それから棋戦で好成績を残すか、研修会でB2に合格すれば━━」

「先生、無理ってわかってること言わないでください」


 芯の通った声でぴしゃりと言い切った。


「どんなに時間があったとしても、なんとなく続けていてなれるものではないでしょう? 今実家に戻って、生活を優先させてしまったら、私は絶対に女流棋士にはなれません」


 美澄は拒絶するように、決して久賀を見ようとしない。


「先生は、『自分には何もない』って言いましたけど、私から見たらすごく贅沢だなって思います。だって先生は、小学校一年生で将棋に出会ったんですよね。それでずっと将棋を追いかけてきた。近くに将棋教室がたくさんあって、周りに強い人がたくさんいて、応援してくれる人がたくさんいて、将棋会館にも通えた。思う結果は得られなかったかもしれないけど、すごく素敵な恵まれた人生だと思います。何より、あんなにきれいな将棋が指せるじゃないですか。羨ましいです。私は、何もないんですよ。本当に何もないんです。昔から「しょうらいのゆめ」を書くのが苦手でした。プリンセスにもケーキ屋さんにもなりたいと思わなかったし、学生時代打ち込んだ部活もありません。アイドルやアーティストを追いかけたこともありません。高校も成績をみて行けるところ。大学だって高校の担任が勧めたからこっちに来ました。私は、何かに夢中になる感覚が欠落してるんだと思ってました。派手な服を着るのは、せめて明るい気持ちでいたいからです。苦しいですよ。何のために生きてるんだろうって、ずっと思ってました。誰か鉛筆でも転がして人生決めてくれないかな、って思ってました。こんな年で将棋始めて女流棋士になろうなんて、せっかく進学させてもらった大学をやめるなんて、愚かだと思いますよ、自分でも。でも、悔しくても苦しくても好きだと思えるものに、やっと出会えたのに。それなのに……すみません、こんな話」


 弱った身体を削るようにして美澄は吐き出した。呼吸が少し乱れている。


「いえ、こちらこそ、身体がつらいときに余計なことを言いました。本当にすみません。もう休んでください」


 沈黙が降りた。ここは点滴のリズムで時間が過ぎていく。


「今、何時ですか?」


 久賀は腕時計を確認して「十八時七分です」と伝えた。


「面会時間、大丈夫ですか?」

「十八時までだそうです」

「じゃあ先生も、もう帰らないと」

「そうですね」


 久賀はそれでも少し迷って、ようやく腰を上げた。


「お大事にしてください」

「ありがとうございました」


 ベッドサイドのカーテンを久賀はゆっくりと引く。すぐに美澄の姿は見えなくなった。


「先生」


 カーテン越しの声ははるか遠くに聞こえる。久賀はカーテンに手を伸ばしたが、触れることはできなかった。

 呼びかけた美澄は、しかし誰に話しかける風でもなく、ひとり言のようにつぶやいた。


「私は、先生に生まれたかったです」


 そんな風に望んでもらえる人間ではない。なぜなら、自分は今これほどまでに無力だ。

 久賀は足音を立てないよう、そっとその場を後にした。



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