△12手 意味なんてない

 今にも降りそうな顔をして、今日の曇り空はとうとうひと滴の雨粒もこぼさなかった。右肩にバッグ、左手には無駄に持ち歩いた傘とコンビニのレジ袋を持って、美澄は宵時の通りを久賀と並んで歩く。


「圭吾くん、よかったですね」


 先日圭吾は、奨励会入会を目指して狭山さやま七段の門下に入ることが決まった。

 からら、と枯れ葉が舞い、その風が美澄のロングカーディガンの裾も巻き上げる。

 美澄はアルバイトから倶楽部に向かうところで、踏切から戻る久賀と鉢合わせた。


「狭山先生はご自身が苦労なさったから、弟子入り先が見つからない子はなるべく助けたい、と思ってくださってるようです」


 電車を一本見るだけだからか、久賀はアウターを何も着ておらず、いつもより猫背を丸くしている。


「これで奨励会を受験できるんでしょうか」


 見えなくても久賀が眉を寄せたのがわかった。


「わかりません」


 奨励会に合格するにはアマチュア五~四段程度の棋力が必要。二段には上がれたものの、現状の圭吾では難しい、と久賀は考えているようだった。


「だけど、受け入れてくれる師匠探してくれたんですね」

「その程度のことは別に何でもありません。門下に入って指導を受けても、推薦してもらえると決まったわけでもない。楽観的にはなれません」


「頑張れ」という言葉さえためらう久賀は、安易な慰めは口にしない。だけど以前のように『無理ですよ』とはねつけることはしなくなった。


「うまく行かないものですね」


 美澄が口を尖らせると、笑むようなため息を久賀は漏らした。


「うまく行くことの方が少ないでしょう。『毎日詰将棋を解いて、本も読んで、それでも全然勝てない。落ち込んでる姿を見るとつらい』と、相談に見える親御さんもいます」


「詰将棋って意味あるんですか?」「この本読んで意味あるんですか」「将棋をやって意味あるんですか」そんな質問には「努力は無駄にはなりません」とテンプレートの言葉を返すしかないだろうに、きっと久賀はそれをしない。

 美澄はしゅんと肩を落とす。


「仕方ないですよね。将棋は勝ち負けが存在するゲームですもんね」


 からら、とまた枯れ葉がアスファルトを擦っていく。今度はハンバーガーショップの紙袋も一緒だった。大きく一歩追いかけて、久賀は紙袋を長い指先で拾い上げる。


「努力が無駄になるのは当たり前ですから」


 実感のこもったその言葉は、倶楽部では決して言わないものだ。毎日十時間勉強しても負けることはある。久賀は幼少期からそんな経験を何度もしてきた。そして今も尚。


「努力する意味、生きる意味。……先生、『意味』って何でしょうね」


 傘を持ち変えたら、指からレジ袋が滑り落ちた。美澄よりひと呼吸早く久賀が拾う。


「すみません」

「『意味』なんて、ないんじゃないかって思います」


 いつものおだやかな無表情で久賀は言った。


「意味はあるって思いたいだけなんでしょう。弱ってる時は、自分に価値がある、意味はあるって思いたいものですから。でも、意味なんてない」


 返されたレジ袋がずしりと指に食い込む。


「あなたも言ったでしょ。『キュウリを食べる意味なんてない。キュウリを好きだって人がいるからキュウリは生産されているんだ』って」


 美澄は久賀のしずかな目を見つめ返した。暗闇ではっきりしないその目は、しかし揺るぎない。


「好きなことに、大事なことに、意味なんてないんです」


 物事を楽観視しない久賀の発言は、時折絶望的に聞こえる。けれど、美澄はその声の中に体温を感じ取れるようになっていた。

 歩みの遅くなった美澄に合わせて、久賀もゆったりと歩く。


「意味のないことに、意味のない人生をかけて、意味のない努力をする。それでいいんじゃないかと、僕は思うようになりました」


 誰かのためでなく、何かの意味を求めるわけでもなく、ただ純粋に。

 スピードに乗った車が通りを駆け抜ける。吹き溜まった枯れ葉が、ざあっと舞い上がった。


 電気とエアコンがつけっ放しだった倶楽部に入ると、久賀の眼鏡は瞬時に曇った。拾った紙袋をゴミ箱に捨て、シャツの裾で眼鏡を拭きながら、久賀はところで、と切り出す。


「研修会に入る決心はつきましたか?」


 美澄はうつむいて、机から椅子を下ろす。


「今の古関さんなら十分入会できます。むしろ、少し上の級でも通ると僕は思っています」


 美澄は久賀の方を見ずに、買ってきた野菜ジュースにストローを突き立てた。


「でも、私はもう少し今のままで……」

「将棋において実戦経験は非常に重要です。僕やネット将棋だけでなく、さまざまな人と盤を挟むことは、とても有効だと思いますよ。特にあなたは年齢制限が近いのですから、のんびりしてる暇はないと思いますけど」


 迷いのない正論に逃げ道を塞がれて、美澄は正直に答えるしかなかった。


「その、お金が……」


 研修会は慈善事業ではないので、当然毎月会費がかかる。それに加えて研修会までの交通費も自己負担だ。東北にも研修会ができたので、東京に通うより負担は少ないとはいえ、それなりの出費はせざるを得ない。けれど、女流棋士を目指すには研修会に入会するのが一番早いのも事実だった。


「ご両親の理解が得られない、ということですか?」


 美澄はゆっくりとうなずいた。


「古関さんは今大学四年生でしたか。本来一番いいのは、ご実家から研修会に通うことです。奨励会員も研修会員も、基本的には実家の支援を受けてプロを目指します」

「先生も?」

「はい」


 美澄は小さくしっかりと首を横に振る。


「うちは難しいです」

「だったら、女流棋士になるのを諦めますか?」

「諦めません!」


 強い眼差しを返すと、久賀は待っていたようにうなずいた。


「では、どうするつもりですか?」

「……両親のことは、説得を続けます」


 金銭や家庭の事情については、久賀もこれ以上は踏み込めない。納得はしていないだろうが、話は切り上げてくれた。


「始めましょうか」

「はい」


 久賀が王将を並べ、続いて美澄が玉将に手を伸ばす。


「……古関さん、痩せましたね」


 指を見つめて言うので、美澄はパッと手を引っ込めた。


「セクハラですよ、先生」

「事実を言っただけじゃないですか」

「最近乾燥してガサガサなので、あんまり見ないでください」


 久賀が先手で居飛車穴熊、美澄も中飛車で穴熊に囲って、しばらくは相穴熊の定跡形が続いた。しかし中盤。久賀の指した手を見て、美澄は深く考えに沈む。

 角? 歩突きじゃなくて?

 当然三筋から攻めてくると思った久賀が角を上がった。美澄の攻めを警戒した手であることはわかるが、素直に三筋を攻めるよりもややバランスが悪い。

 失着? でも先生が?

 読みにない手、ミスだと思われる手を指された時、自分がその相手をどれだけ評価しているかが展開を左右する。それを「信用」という。単純なミスでも強い相手であれば、この人が指すならミスではなく深い読みに裏付けされているかもしれない、と警戒されて、失着を見逃す場合もある。自分の読みを信じるか、相手を信用するか。

 ちらりと久賀をうかがったが、表情からは何も読み取らせてもらえない。

 美澄は久賀の角を歩で受けたあと、呼吸を整えて攻めに転じた。その後、徐々に徐々に美澄が久賀を追い詰める展開になっていく。

 あと一手、あの銀を仕留めれば勝てる。

 息も絶え絶えにそこまで攻め続けた美澄に、久賀はそんな瀕死の状態から猛攻を仕掛けてきた。あと一手手番が回ってくれば勝ちに持って行けるのに、久賀はその手番を与えてくれない。桂馬を打って、成って、角を切って、銀を打って。王手、王手、王手、王手、……。美澄の手番は全然やってこない。あと一手が遠い。

 からがら久賀の猛攻を耐え切った美澄は、やっとの思いで念願の銀を取って、歩を成る。


「負けました」


 久賀が投了を告げてチェスクロックを止めても、美澄は顔を上げる力さえ残っていなかった。

 将棋は勝ったとき、あからさまに喜びを表さない。それは目の前の敗者に対する礼儀という理由もある。が、一手間違うと途端に逆転される勝負において、勝っている方は相手が投了するまでミスできない緊張が続く。手順を何度も確認し、絶対に間違えないように神経を尖らせ、不安からくる疑心暗鬼と戦う。だから、勝ったときには喜びよりも、負けなかった安堵の方が大きい。

 初めて久賀に勝っても、美澄は負けた時以上に消耗していた。


「とうとう、負けてしまいましたね」


 投了の局面を見下ろして久賀は言った。


「先生のミスじゃないですか」

「ミスはしましたけど、そこをちゃんと咎められるようになったのは、古関さんの成長です」


 ぐったりする美澄を置いて、中盤まで盤面を戻す。


「古関さんなら、ここでもう角を切ってくると思ってました」


 美澄は言われた通りに角を動かす。数手動かすと、みるみる劣勢になった。


「以前なら自信満々で切ってました。本譜は全然自信なかったので」

「大人になりましたね」


 盤面を戻して、美澄は歩を取り込む。


「僕が受けてたら、また違ってたんでしょうけど」

「先生は攻めてくるような気がしたんです」

「これだけ指していれば、お互い棋風もわかってきますよね」

「先生と何局指したかなぁ」

「……1000局はいってないと思いますけど」


 言いながらも、手元ではパチパチと今の将棋をたどる。


「この飛車取り、」


 久賀は美澄の飛車の前にパチリと歩を打った。


「逃げてくれればな、と思ったんです」

「時間あったら逃げる手も読みました。でも時間なかったので」

「古関さんは逃げないと思いました」


 美澄に攻められて、久賀の穴熊囲いは弱体化していく。


「勝ったと思ったのに、まさかここからあんなに逆襲されるとは思いませんでした。先生、全っっ然諦めてくれないんだもん」


 よくかわし切ったな、と思う。一瞬でも気を緩めたら、そのまま首が落ちていた。


「諦めてましたよ。でもほら、あなたは間違えてくれそうだし」

「ドウセソウデスヨネー」

「詰めろ(受けなければ詰まされてしまう状態)のいくつかは、ハッタリだったんですけどね」

「え!」

「ちゃんと時間かけて読めば気づかれたと思いますけど、時間ないし、自信満々で指せば騙されてくれるかな、って」


 恨みがましい視線を美澄は久賀に向ける。もし雪玉を持っていたら、確実にぶつけていた。


「このあたりで逆転したと思ったんですけど、飛車で受けたのが好手でした」


 久賀の声には、わずかに悔しさが滲んでいる、


「やぶれかぶれでしたよ。先生は▲5五角打ってくると思ってたので、それ指されたらもうだめだなって」

「このラインへの角打ち警戒してたんですよ」

「そんな手見えてませんでした」


 投了図と同じ局面になり、ふたりは手を止めた。


「勝てましたけど、」


 美澄はぐったりと机に突っ伏す。


「全然追いつけた気がしない……」


 いろいろなことがわかるようになって、久賀の指す手が“奇跡”ではなく、長く苦しい努力と研鑽の積み重ねであることがわかるようになっていた。それはむしろ、奇跡より深い輝きで美澄を惹きつける。


「そうですか? 僕は結構本気で指しましたけど」


 顔を上げた美澄には、眼鏡をかけていない、やや不機嫌そうな久賀の横顔が見えた。


「負けるのは、もうしばらく先だと思ってたんですけどね」


 ようやく勝利を実感した美澄は、ほころぶ顔を抑えつつ、盤面を初形に戻す。


「先生、もう一回」


 盤から顔を上げると、目線はちょうど久賀の襟元にぶつかる。ふと、違和感を持った美澄は、その肩へと視線を滑らせた。


「先生」

「はい」

「シャツ、裏返しじゃないですか?」


 美澄が指差す一点に、久賀も視線を向けた。肩と袖の縫い目が外側になっている。久賀は大きな手で口元を覆ったが、耳がほんのりピンク色に染まっていた。


「敗因はこれでしたか」


 後ろを向いて一度シャツを脱ぎ、表に返して着直した。


「先生、ボタン」


 指摘されて、あたふたと襟のボタンを留める。


「大丈夫ですよ、先生。裏も表もあまり変わらないから、誰も気づいてないですって」


 絶対に数人は気づいただろうと思いつつ、美澄は一応の嘘をつく。


「慰めてくれなくて結構です」

「これからはリバーシブルのシャツを着たらいいんじゃないですか? 結構かわいいやつありますよ」

「無理です。あなたの『かわいい』は独特ですから」

「服の着こなしは『俺、似合う!』と思い込むところからですよ」

「それ、僕には生涯越えられないハードルです」


 久賀は美澄のカナリアイエローのニットを見る。


「古関さんは派手好きですからね」

「だって、冬は世界から色が抜け落ちる季節じゃないですか。せめて洋服くらい華やかにしないと」

「秋にも『世界が色づく季節だから、華やかにしないと』と言っていたこと、忘れてるでしょ」

「明るい色の服を着てると、気持ちも明るくなるんです」

「では、いつも地味な服を着てる僕は、いつも気持ちが沈んでいるように見えますか?」


 美澄はぱちくりとまばたきをした。


「……見えるんですね」

「いえ! 確かに最初はちょっと暗い感じがしましたけど、最近はそうでもないです」


 久賀は不貞腐れたように、窓の方を向いてしまう。


「でも先生、いろんな色を着られるようになるって、大事だと思うんですよ」


 美澄はニットの袖を少し引っ張った。


「ピンクも黄色も青も似合う人が敢えて着る黒と、黒しか着られない人が着る黒では、見え方が全然違うと思うんですよね」


 意外にも久賀は深く同意した。


「それはなんとなくわかります。アマチュアが第一感で指した手と、プロ棋士が深い読みを入れて指した手が同じだったとしても、そこに含まれる意味には雲泥の差がありますから」


 ほらほら! と美澄は手を叩いて喜ぶ。しかしすぐに


「あ、でも、」


 と、頬杖をついて久賀を見つめた。


「先生には、ずっとそのままでいてほしいかも」

「どっちなんですか」


 盤の向こうに見える景色は、青いシャツであってほしい。美澄は漠然とそう感じていた。


「じゃあ先生、気を取り直してもう一回」


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