▲11手 それぞれの悪夢
アルバイト先で格子柄のタオルを補充しながら、美澄は眉間に皺を寄せる。
「だめだ。盤に見える……」
「『バン』って何?」
カートを押してきた真依がダンボール箱からハンガーの束を取り出して、美澄に押しつけた。少し背伸びをして、高い位置にあるフックに掛けていく。
「将棋盤」
「ああ」
興味ない、という低いテンションで真依は返事をした。
「なんか美澄、受験生みたいだよね」
「受験の時はこんなに勉強しなかったよ。レジとかタグで『29』とか『55』とか二桁の数字見たら、全部符号に見える」
最近では夢の中でも詰将棋を解いている。ものすごく簡単なはずなのに、何をどうしても詰まない。倶楽部にいる人たちはみんな解けて帰っていく。解けずに苦しみ続けるのは美澄だけ。目覚めてみると、そもそもの盤面がおかしくて、そりゃ詰まないよな、と胸を撫で下ろすところまでが一連の悪夢。
「ごめーん。何言ってるか全然わかんない」
マニアックな世界なので共感してもらえるとは思っていない。この「共感してもらえるとは思っていない」は、将棋界全体にうっすら漂う諦念のような気がする。
「美澄、このあとみんなでご飯行こうって話してるんだけど、どうする?」
「ごめん。約束ある」
「まさかと思うけど、将棋?」
すでに彼方まで引かれていることがわかるから、美澄は返事をしなかった。
「こんな時間に将棋教室ってやってるの?」
「やってないよ」
「じゃあなんで?」
「個人的に指導してもらってる。昼間働いてるから、朝と夜」
アルバイト終わりに踏切で久賀と顔を合わせることが続いて、その流れで指導してもらえるようになった。美澄としては手を合わせて拝みたいほどありがたいことなのに、ダンボール箱を畳む真依の顔は引きつっていた。
「飽きない?」
「飽きない」
「先生厳しいの?」
「厳しい」
最近では、スーパーでそば茶と烏龍茶を迷った時にまで、久賀のお説教が脳内再生されるようになってきた。
『「わかんない」じゃなくて、わかるまで考えてください』
同じ値段ならば、普段安売りしないそば茶を買うべきかな。血液もサラサラになるって聞いたし。
『何でもすぐ鵜呑みにしない。自分の頭で納得できるまで安易に採用すべきではありません』
血液サラサラ情報は判断に含めず、やはり普段の食事に合う味で選ぶべきか。
『堂々巡りになったら意味ありません。決断よく』
脳内の久賀は、実際以上に口うるさい。
「でもさ、たまには息抜きも必要だよ。根詰め過ぎたら良くないって」
「うーん」
青いシャツの背中には、中指の爪の先すら届いていない。まだ限界を越えられず、全力も出し切れていない自分に「息抜き」なんてしている余裕があるのだろうか。
突然、真依が肩を跳ね上げた。棚と美澄の間に入り込んで、ポケットからスマートフォンを取り出す。アルバイト中にスマートフォンを持ち歩くのは当然規則違反で、社員に見つかったらお小言どころでは済まない。
「ごめん、美澄。私やっぱり行くのやめる」
素早くメッセージを確認した真依は、少し怯えるようにそう言った。真依は何も言わないけれど、例の彼のところにまだ通っていることは、なんとなくわかっている。
「うん。私も行かないから」
「そんなに先生が怖いんだ」
揶揄するような言い方は、真依自身が彼を怖がっているからだろうと美澄は思っているが、そのことには触れない。
久賀は怖くない。「今日は休みます」と言ったら「そうですか」と答えるだけ。美澄のことを「そういう人なのだ」と「理解する」だけ。
「怖いよ」
氷点下の痛みを伴う恐怖は他にある。手を離されることが何より怖い。
倶楽部に入ると、久賀の視線が美澄の全身をさっと走った。
「……先生、どうかしました?」
「あ、いえ。今日は珍しく落ち着いてるな、と思いまして。いや、これで『落ち着いてる』って感じる僕もどうかと思いますけど」
今日の美澄は、淡いベージュの格子模様のワンピースに、ちょこんと赤いベレー帽を載せている。それは一見すると、シンプルな秋の装いに見えた。
「今日のテーマは『マヨネーズ』なんです」
「………………マヨネーズ」
将棋盤を挟んだ時には絶対見せないような表情で、久賀はくり返した。
「本当はこう……斜めに赤いラインが入ってたら理想的だったんですけどね」
手で理想的なラインを表現する美澄に、久賀は少し首をかしげて尋ねる。
「ふざけてます?」
「いいえ」
美澄はいたって真面目な顔で久賀を見つめ返した。
「ふざけてるように見えます?」
「ふざけてないのに『マヨネーズ』……」
口元に手を添えて、久賀は咀嚼するように小さくうなずいた。
「居飛車と振り飛車ってかなり感覚が違うと思ってましたけど、」
「はい?」
「僕とあなたの感覚のずれは、それ以上みたいです」
真顔でそんなことを言い放って、久賀はふたたびパソコンに向き直った。
土日の倶楽部は、十時に開いて十八時に閉まる。その後も久賀は、情報を集めたり、指導のための教材を作ったりしているようだった。
「三手詰めですか?」
パソコンディスプレイを覗いて美澄は尋ねた。例の悪夢が頭をよぎるが、その問題は見た瞬間にしっかりと詰んだ。
「一手詰めから三手詰めにレベルを上げるとき、持ち駒で引っ掛かる子がいるんです。だから、持ち駒なしから始めて、次に持ち駒ひとつ、その次に取った駒を使う、と細かく段階をつけられたらいいな、と思って」
将棋が他のボードゲームと違う大きな要素が「持ち駒」で、これがあるからかなり複雑なゲームとなっている。最初は持ち駒を計算に入れることが難しく感じる子もいるだろう。
「この問題は先生が作ったんですか?」
「全部ではありませんが」
「詰将棋、得意ですもんね」
久賀は奨励会時代、毎年詰将棋解答選手権に出ていた。入賞こそしていないが、プロも参戦する最高難度のクラスで受験していたし、詰将棋の創作もしているようだ。
「先生、難しい詰将棋が解けるようになれば、終盤力も上がりますか?」
美澄は簡単な十五手詰めまでしか解けないが、世の中には百手を越える詰将棋もたくさんあるし、手数は少なくても難度の高い作品もある。ひとつの問題を数日かけて解くことも珍しくない。
久賀はたっぷり五秒は考え込んだ。
「難しいところですね。詰将棋には詰将棋特有の型があって、それは実戦とは別物ですし。詰将棋が得意だから棋力が高いのではなく、棋力が高いから詰将棋“も”解ける、と考える人もいるくらいですから」
「じゃあ、詰将棋って意味ないんですか?」
「そんなことはないと思います。ただ、レベルが上がれば詰将棋だけで棋力を伸ばすことは難しいと思います」
久賀が背もたれに寄りかかったので、キャスターつきの椅子がギッと鳴った。
「『どうしたら強くなれるか』とは、どんな競技においても永遠の課題だと思うんです。将棋に限っても、その人の年齢、経験、どこまで極めたいかによってかなり違うでしょ。トップ棋士になってしまえば、そこを模索して成果を示すことこそが仕事とも言えます」
美澄はカウンターの上で不満げに頬杖をつく。
「絶対の方法はないってことですね」
「でも、それなりに確立されたものはありますよ。初心者に詰将棋はとても有効です」
「あと、棋譜並べと実戦。この三つは間違いないですよね」
自らも毎日それらを実践している美澄は、折った三本の指を見つめて言った。久賀もカウンターの上で手を組んでうなずく。
「だけど、どこでどう行き詰まるかは個人差が大きいですし、それはやはり指導する者がその人に寄り添って考えてあげるべきです。その場合、必ずしも棋士が適任とは言えないと僕は思います。『どうしたら初段に上がれるか』なんて、棋士は悩んだ経験ないでしょうから」
「先生も?」
すい、と美澄は顔を上げる。美澄はこの倶楽部に来た頃、棋力は十分ながら我流の癖が強くて、平川から初段の認定をもらえなかった。その後も厳しく査定されて昇段に苦労したことをを知っている久賀は、ややためらったものの正直に答える。
「……初段は、そうですね。苦労しませんでした」
これみよがしなため息がカウンターの上を滑り、久賀の手まで到達した。
「だから、指導者としては、僕なんかより平川先生の方がはるかに優れているんです。僕はあなたの中にある可能性を見ようともしなかったけど、平川先生はすぐ見つけたでしょ」
暗に自分の中に可能性があると言われて、美澄はわずかに頬を染める。久賀はそれに気づかず、マウスを動かしてパソコン画面を閉じた。
「そういう意味では、ツールが発達して、取得できる情報量に差がなくなった今でも、対面での指導の重要性は高いと思っています」
美澄は三段昇段も視野に入るほどになっていた。昇段スピードには個人差が大きいが、何かを掴んでからの美澄の成長は著しい。
「古関さんは、そろそろ研修会に入った方がいいと思いますよ。いろんな人と対局すると、自分の課題が明確になりますから」
美澄はカウンターから離れ、久賀に背を向けた。掃除のため机に乗せてあった椅子を下ろし、盤と駒とチェスクロックを置く。
「……もう少ししたら考えます」
年々秋が遅くなり、九月半ばになっても暑さはやわらがない。美澄はバッグからウェットティッシュを取り出して、ベタついた手を拭いた。
「ところで先生、夢でも将棋指したりしますか?」
「しますね」
おもむろに変えられた話題に、久賀はあっさりうなずいた。
「金銀三十枚くらい持ってるのに、全然詰まない夢とか」
「悪夢ですね」
「あとは、三段リーグの夢をよく見ます」
途端に美澄は何も言えなくなってしまう。プロになれなかった現実を久賀は何度なぞったのだろう。もし昇段できた夢ならば、尚のこと悪夢だ。
不自然に黙ったまま盤の前に座る。そんな美澄の思考を知ってか知らずか、久賀は向かいの席に座ってにこりと笑った。
「古関さんも、そのうち研修会の夢を見るようになると思いますよ」
始めましょうか、と久賀は駒箱を開ける。拭いたはずの美澄の指に、駒が汗で張りついた。
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