△10手 踏切とキュウリ
アルバイトを終え、バスターミナルに向かう途中、美澄は閉店した文具屋の前に佇む久賀を見かけた。
「あ、やっぱり先生だ」
美澄の声にふり返った久賀は、表情こそ変わらなかったが、いやなやつに会ってしまった、という心の声はしっかり聞こえた。
「何してるんですか?」
ここに至っては逃れられないと観念したようで、久賀は重い口を開いた。
「踏切を見ています」
「踏切なんて見て、何の意味が━━」
と問う美澄の声を警報音が遮った。ゆっくり遮断機が降りるのを、久賀はじっと見ている。うるさくて会話などままならないので、美澄も口を閉じて踏切を見つめた。やがて、駅の方から電車がやってくる。大きな音と風を撒き散らしながら、それでもほんの二両なので一瞬で過ぎ去っていく。
「…………好きですることに、意味が必要ですか?」
遮断機が上がってから久賀はようやく口を開いた。
「え?」
「踏切を見る意味です」
美澄は何度もうなずいて、どうにか自分を納得させた。
「すみません。そうですよね。ばかなこと聞きました」
止められていた往来が再開したので、踏切付近はやや混み合っている。ふたりは邪魔にならないよう、文具屋のシャッター前に下がって道を譲った。
「先生は将棋以外だと電車がお好きなんですね」
「電車というか鉄道が」
「それ、違うんですか?」
「電車は車両。鉄道は車両を含む交通機関全般のことです」
ふぅん、と美澄は聞き流したのに、久賀は構わずに続けた。
「鉄道は、当たり前ですが自然発生したものはひとつもないですよね。すべて誰かの意志と労力で街と街を繋いでいるんです」
「意志……利権とか?」
「まあ、そういうのもあります」
日暮れはずいぶん遅くなったものの、太陽は力尽きるように地平に沈んだ。ここに着いた時より久賀の表情がわかりにくくなっている。
「古関さんはどうしてここに?」
「私、『フラジエ』っていう雑貨屋でバイトしてるんです。この先にあるショッピングビルの二階」
久賀は車の往来が続く通りを見遣る。
「古関さんはバス利用ですよね?」
「はい」
「ここ、通り道ですか?」
通ってほしくない、という圧力も込められていたが、美澄はあっけらかんと答えた。
「100円ショップに寄る時は通ります。今日は、もしかしたら先生いるかなーって」
そんなやり取りを、またしても警報音が分断した。矢印が示す線路の先に久賀は目を凝らす。
今度は貨物列車だった。何両あるのか数えていられないほど長い。赤茶色、赤茶色、黄緑、赤茶色、水色、赤茶色、赤茶色……視界の端から端まで延々とコンテナが続く。これは永遠に終わらないのではないかと思った頃、ようやく最後のコンテナが通り過ぎて行った。
「何ですか?」
最後のコンテナを見送った久賀は、自身を見つめる美澄に尋ねた。
「いえ、私は踏切で止められる時間が、世の中で一番無駄って思ってたんですけど、」
久賀はさも心外だという顔をした。
「でも先生を見ていたら、『電車見られてめちゃくちゃラッキー!』って考え方もあるんだなぁって。なんか世界がちょっとだけ広がった感じです」
久賀はもぞもぞと、居心地悪そうに視線をさ迷わせた。
「あ、写真撮らなくてよかったんですか?」
ただ眺めるばかりの久賀に言ったが、首を横に振る。
「僕は写真や動画を撮ったりはしません。こうして見ているのが好きなんです。電車が通ったときの風とか、停車している車の排気ガスとか」
「だったら東京に帰りたいんじゃないですか? ここよりずっとたくさん電車を見られるから」
倶楽部はこの地域で最も主要な駅のすぐそばだが、それでも一時間に数本、せいぜい二両か三両の列車と新幹線が通る程度。東京なら見たいと思わなくても引っ切りなしに見られるだろう。
「東京の鉄道も芸術的で素晴らしいと思います。でも、一両や二両の列車が走る姿も、その地域に根差した鉄道の在り方が感じられて、僕はとても好きです」
夏の匂いを含む風が久賀の前髪をふわりと揺らす。
「ここからふたつ先の駅は無人駅で、周りが全部田んぼなんですけど、そこを電車が通って、その風が稲穂にも届く景色は見事です」
「それは物珍しいからじゃないですか?」
美澄の声は季節を巻き戻したように冷淡だった。
「都会の人はよく言うでしょ。『のどかでいい』って。でも、それが毎日だとすぐ飽きるんですよ。変化がないから。それで結局都会に帰っちゃうんです」
海を見ながら仕事がしたい、と移住した人も、その眺めにすぐ飽きるらしい。それどころか、車やペン先が錆びる、洗濯物に潮がつく、波の音がうるさい、と戻る人もいるそうだ。
久賀は無理に反論せず、そうかもしれませんね、とうなずいた。
「先生は、なんでこっちに来たんですか?」
方向が一緒なので、結局久賀と美澄は並んで駅の方へと向かった。
「平川先生に誘われて。他に働くあてもなかったので」
「スカウトですか。いいですね。芸は身を助ける」
久賀はうなずかず、
「将棋なんて、なくてもいいと思いませんか?」
と言った。温度のない淡々とした声からは、感情が読み取れない。
「…………思いません、けど?」
今や将棋中心の生活を送る美澄には、将棋のない生活は考えられなくなっている。けれど、今日の久賀はいつも以上に自虐的だった。
「誰かの命を救うわけでもない。生活に役立つわけでもない。遊びたければ他にいくらでもある」
「まあ、そう言われてしまえばそうですけど」
「そんな将棋しか僕には取り柄がなくて、それなのに棋士にもなれなかった。将棋を教えることだって他に上手な人がたくさんいて、東京にいても仕事がない。僕が必要とされているのは、単にこの地域の人材不足です」
難関を突破して奨励会に入っても、棋士になる人より退会する人の方が多い。「元奨励会員」は毎年増え続けている。
「将棋なんてなくてもいいのに、僕には何もないのに、僕が生活するためにみんなに将棋を押しつけている。そう思うことがあります」
空はインク瓶を倒したように夜が染み広がっていた。民家の玄関先に咲いているゲラニウムがピンクなのか紫なのか、判別できないほど辺りは暗い。
「先生のおっしゃること、多分、その通りなんだと思います」
考え考え話す美澄を、久賀は静かに見つめた。
「でも、押しつけでいいと思うんです。押しつけられたって、いやなものはいやなんだから」
美澄の周りに将棋を指す友人はいない。美澄が将棋好きだと知った時「何であんなに時間かかるの? さっさと打てばいいのに」と言った友人もいた。そういう子に、読みの分岐と精度の話をしたところで、受け入れてはもらえないだろう。
「先生、キュウリ好きですか?」
唐突な質問に、久賀は目をまるくする。
「キュウリですか? ………普通に好きです」
「私、キュウリきらいなんです。もう匂いからして全然だめで」
今まさに匂いがするかのように、美澄は顔を歪めた。
「キュウリって、匂いはほとんどありませんよね」
「好きな人はそう言うんですよ。でもきらいな人間からすると、すごーく匂いが感じられるんです」
はあ、と久賀は気の抜けた声を発する。美澄の真意を図ろうと顔を見るが、本人は心底いやそうに語気を強める。
「キュウリって、全然栄養ないらしいんですよ。あれ、ほとんど水分。サラダだって、キュウリがなくても成立するでしょ? だから、キュウリってこの世にいらないと思うんです」
政治家がマニフェストを訴える時のように、美澄は力強く言い切った。さらに、キュウリの栄養なんて他の食品で代用できるとか、十年以上キュウリを食べていないけど健康だとか、めちゃくちゃな持論を展開し続ける。キュウリに特別な思い入れはないはずの久賀も、さすがに不憫になったようで、
「暴論ですね。食べ物の価値は栄養素だけではないでしょう。キュウリ農家の方は日々おいしいキュウリを作る努力を続けていらっしゃると思いますよ。ちなみに僕はサラダにキュウリが入っていないと物足りないです」
と擁護した。
「でも先生、もし世界中の人がキュウリぎらいになって、全っ然売れなくなったら、キュウリ農家さんがどんなに頑張っても無理だと思いませんか? 必要ではないんだから」
久賀が言葉に詰まっている間に、美澄はさらに続ける。
「だからキュウリって、結局キュウリが好きだっていう変な人が多いから生産されてるんですよ。なくていいのに」
「……変な人」
「将棋が見向きもされなくなったら、どんなに頑張ったって先生の仕事はなくなります。ここに優秀な先生がたくさん来るようになったら、先生は必要とされなくなるかもしれません。でも、今はとりあえず、いてくれないと困るんです。この地域にも将棋が好きな人はたくさんいて、田舎に移住してまで教えてくれる人はいないので」
倶楽部の前について、久賀は足を止めた。青信号が点滅したので、美澄も渡らずに久賀の隣に佇む。
「いいんです。先生が無能な人間でも、いなくてもいい人だとしても」
「そこまで言ってないんですけど」
表情のわかりにくい世界で、美澄の声はすがるように久賀にまとわりついた。
「先生、ここにいてくださいね」
わずかな沈黙のあと、久賀は美澄を見下ろし、電気がついたままの倶楽部を示した。
「指しますか?」
「はい!」
青に変わった信号に背を向けて、美澄は久賀に続いて倶楽部に入った。
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