▲9手 僕はきらいです
雨混じりの雪、雪混じりの雨。車が通るたび、解けかけた雪がシャラシャラと鳴る。
久賀の指導を受けるようになって、ふた月経っていた。詰将棋、棋譜並べ、棋書、実戦、詰将棋、棋譜並べ、棋書、実戦、……。くる日もくる日もくり返しているのに、なかなか勝てるようにはならない。サイトでの勝率にも変化はなく、成長している実感がまったく掴めなかった。
南の方では桜の開花が聞こえるようになったのに、美澄の将棋は開花しない。
「やっぱり私、才能ないのかな……」
こぼした弱音に久賀の視線が刺さって、美澄は、すみません、と手を動かした。今日倶楽部は定休日で、美澄と久賀はブラインドの掃除に励んでいる。これは昨日の朝、ブラインドを上げた久賀が降ってくる埃に咳き込んだため、見かねた美澄が掃除を提案したのだった。
両手に軍手をはめて撫でるように拭くだけなのだが、窓が大きいのでなかなか終わらない。腕を左右に動かすたび、ニットについているリボンもぴらんと跳ねた。
「古関さんは、将棋は才能だと思いますか? 努力だと思いますか?」
手を伸ばしてブラインドの上を拭きながら久賀は尋ねた。
才能、と答えてしまうと、久賀に何を言われるかわからない。意見というより顔色を伺って返答した。
「……両方、だと思います」
久賀はブラインドを下までおろして、上から順に拭いていく。
「そもそも『才能』とは何か議論のあるところですが、それは置いておいて、棋士に限定しても才能と努力の必要性の割合は、個々に意見の分かれるところです」
「……はい」
「でも、中には『才能は必要ない。すべて努力だ』という人もいます」
にわかには信じがたい意見だった。河童を見た、と言われた方がずっと信憑性がある。
「それは、さすがにちょっと……」
「不服ですか?」
久賀を目の前にして、美澄は胸の奥でかさぶたを剥ぐような痛みを覚える。
「……努力ですべてが決まるなら、夢が叶わなかった人は努力が足りなかった、ということになります」
久賀の表情は変わらなかった。言葉をそのまま受け入れるようにゆっくりとうなずく。
「そうですね」
「厳し過ぎます!」
「はい。とても厳しい意見です。そして、それに見合うだけの努力をしているからこその意見です」
人間は決して平等ではない。環境、体質、運、……。自分ではどうにもならないさまざまな要素を抱えて生きている。自分が努力しているからと言って、他者も同じ物差しで図っていいものなのかと、美澄は疑問に思う。少なくとも久賀を知っている者として、その意見を支持したくはなかった。
「でも、それって『努力する才能』があるってことじゃないんですか?」
淡々とブラインドを拭く背中に、かすかに拒絶の影が差した。
「……そうかもしれません」
言い捨てるようにして、久賀は黒くなった軍手をはずした。美澄の言葉によって生じた胸の内の不協和音を、宥めているようにも見える。
「先生?」
この問いに正解はないはずなのに、何かを踏み抜いた気がして呼び掛けた。
久賀ははずした軍手をバケツに放り込み、新しい軍手をつけ直す。おそらく何度も考えたであろうこの問題を、もう一度考えて、久賀はゆっくりと口に乗せた。
「『才能』が必要ないとは思いません。例えば脳の造りとして、計算力に優れた人や記憶力に優れた人は、そうでない人より将棋の上達は早い。上達が早ければ努力はしやすいし、結果として努力の量も増えます」
「はい」
久賀は机の上に腰掛けて宙を見る。
「脳の造りについては、例えば女性の棋士が生まれない理由を、脳の造りの違いだという人もいるし、ホルモンのバランスだという人もいます。これは『才能』という考え方に近い。けれど、単純に競技人口の違いだという人もいますし、歴史の違いだという人もいます。男性棋士の歴史が四百年あるのに対し、女流棋士が創設されて五十年に満たない。けれど近年は女性の競技人口が増えて、奨励会でも三段に上がる人も出てきました。まあ、これは女性の社会的立場が上がったことにも起因していると僕は思っていて、男性が女性と練習将棋を指すことに抵抗を感じなくなってきたことも大きいです。それによって、将棋を指す女性の棋力が……すみません、話がそれました」
「……いえ」
少なくとも久賀は、男女の棋力の差は生まれ持った違いであるとは考えていないようだった。そこに決定的な線を引かれなかったことに、美澄はひっそりと安堵する。
「……結論から言うと、僕は『努力する才能』という言葉がきらいです」
正解不正解ではなく、久賀はここで好ききらいを持ち出した。感情を優先しない彼にしては珍しく、だからこそ強い想いを美澄に感じさせる。
「だって、ずるいでしょ。『自分には才能がなかったんだ』『努力する才能もなかったんだ』全部言い訳できます」
久賀は机を降り、ブラインド掃除に戻った。美澄もブラインドに視線を戻したが、どこまで拭いたかわからない。仕方なく適当に目の前から再開した。久賀も手を動かしながら続ける。
「才能はあった方がいいです。絶対。上達が早ければ楽しい。楽しければ続けられる。続けられれば上達する。上達すれば楽しい。正のループです。でも、その才能の有無を論じるのは、すべての努力を尽くした後ではないでしょうか」
久賀の表情はおだやかだった。むしろ美澄を労るようにさえ見える。
「正のループがなくたって努力は続けられます。ただ、その原動力は結局将棋が好きだという気持ちだと思います。何万時間努力を続けても、楽しさを見出せる。そんなものに出会えるかどうかの違いであって『努力する才能』ではありません」
少なくとも、将棋を愛する気持ちは才能の有無によらない。苦しいことの方が多い中で、それでも将棋をやめようとは思わないなら、努力する他に道はないのだ。愚かだよね、と真依の声がする。
「僕は努力も、将棋に対する愛情も足りなかった。それだけのことです」
虚しく届かないとわかっていても、そんなことないです、と言わずにはいられなかった。そしてそれは、雲の割れ目を絆創膏で閉じようとするほどに無力だった。
「いずれにしても、古関さんのレベルで『才能』を語るのはただの逃避です」
「先生、言い方……」
文句は言ったけれど、自分を否定された方がよっぽど痛みがない。
拭き終えたブラインドを上げると、やわらかな陽光が差し込んだ。春の気配を帯びたそれに、無数の埃が舞って見える。その向こうで久賀が言った。
「もっともっと努力してください。限界を感じたなら、それを越えてください。全力を出す、とは並大抵のことではありません」
「……はい」
久賀が努力をしてこなかったとは思えない。「努力が足りなかった」と言い切るのは、単に結果がついてこなかったことを言っているだけなのか、それとも消えない悔いがあるのか、美澄にわかるはずもなかった。
ブラインド掃除を終えた久賀は、カウンターに放り投げていた青いチェック柄のシャツを羽織る。
「先生」
「はい」
「ずっと気になってるんですけど、先生はなんでTシャツの裾をパンツに入れちゃうんですか?」
久賀の黒いTシャツの裾は、今日もベージュのパンツにしっかりと収納されていた。その姿を美澄はまともに見つめる。久賀は難しい変化を読むとき以上に厳しい表情をした。
「……特に、考えたことがありません」
「高度なおしゃれですか?」
「……ではないです」
「ですよね」
久賀は持っていたバケツを床に置いて、カウンターに寄りかかった。
「奨励会では、襟のついた服でないとだめだったんです。それからデニムは禁止でした」
久賀の青いシャツとベージュのパンツの理由は、そこにあるらしい。
「それから、シャツの裾はパンツの中に入れるよう指導されていました」
「中に!? シャツも!?」
「はい」
還暦はとうに過ぎているという常田や磯島と、それはまったく同じスタイルだった。きちんとした格好で、という意図であることはわかるけれど、二十六歳以下の若い男子が、あのふたりのファッションを強いられるのはどうなのだろう。
「そういう古関さんは、カマキリのコスプレですか?」
美澄のニットは目立つエメラルドグリーンをしている。両肩にふたつずつ大きなリボンがついていて、動くたびにそれが跳ねた。
「違います。このニット、私は『枝豆』って呼んでます」
「カマキリでしょ。カマみたいなヒモがついてるし」
「これはリボンです。枝豆の葉っぱみたいでかわいいじゃないですか」
「気が散りませんか?」
「いいえ。かわいいです」
へえ、と久賀は気のない返事をして、バケツを持ち上げた。
「今日が定休日でよかったです」
「どうしてですか?」
「外から見て倶楽部にカマキリのコスプレしてる人がいたら、びっくりしてお客さんが帰ってしまいますから」
えー、と不満をぶつけても、久賀はそのままスロップシンクへ向かう。ジョークというわけでもないらしい。
この件に関して、ふたりの溝はかなり深いようだった。
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