△8手 波紋

 行政法のレポートが一万字以上と発表されてから、講義の出席者は日に日に減っている。すでに諦めて離脱する人も増えているのだろう。

 二月に入り、締め切りまで一週間と迫っても、美澄のレポートは七千字から進んでいなかった。もう書くことが思いつかず、あの手この手で文字数を稼ぐことも限界だった。ここにきての三千字は、ここまでの七千字よりも遠い。いずれにしても、一万字書かなければ行政法の単位はもらえない。

 もちろん講義は行政法だけではない。他にもレポートはあるし、テストもある。それに伴って読まなければならない資料もある。卒論だって進めなければならない。毎朝続けてもらっている久賀の指導も、しばらくは休むと伝えてあった。

 棋書が読みたい。将棋を指したい。気づけば消しゴムを、駒を扱う手つきでトントン打ちつけている。

 消しゴムをペンケースにしまい、パソコンに向かって「だ。」を「だった。」に直して二文字増やしたところで電話が鳴った。大学もアルバイト先も一緒の友人だったので、美澄は気を抜いたまま「通話」をタップした。


『美澄!』


 美澄が何か言う前に、声をひそめた悲鳴が届く。


真依まい? どうしたの、こんな時間に」


 パソコン画面に表示された時刻は「23:36」だった。


『美澄、お願い! 迎えにきて。彼に監禁されてるの』

「え! 監禁!?」


 衝撃的なワードに頭が追いついていけなかった。美澄にイメージできたのは『美女と野獣』のワンシーンで、その顔が真依にすり替えられる。


『美澄なら彼の家の場所わかるよね? お願い!』

「監禁って、大丈夫なの? どうしたらいいの?」

『迎えに来てくれるだけでいいの。お願い!』


 真依の切羽詰まった様子は、詳しく事情を聞ける雰囲気でもなかった。戸惑ったまま了承の返事をしてしまい、返事をしてから悩む。


「タクシーかな。タクシーしかないよね。警察……は、まだ早いかな」


 野獣と戦える装備は何もない。コートに手袋、帽子をかぶり、メイクを落としていたのでマスクもした。コンタクトを入れ直す時間もなさそうなので、眼鏡のまま外に出る。

 二月深夜の空気は、耳を切り裂くほどに冷たい。雪は降っておらず、冴え冴えとした月光が世界を凍りつかせているようだった。歩くたびに雪もパリパリと音がする。

 大通りに出たらすぐにタクシーが見つかると思ったのに、住宅街ではなかなか出会えず、結局タクシー会社まで十分歩いた。その間に頭をめぐらせても、とにかく行ってみる以外の方法は思い浮かばない。

 真依の彼氏の家は、美澄の住むアパートとは大学を挟んで反対側の、住宅街の一角にある。以前一度、彼女に頼まれてついて行ったことがあった。その時彼氏は不在だったが、アパートではなく一軒家で家族と住んでいるようだった。

 記憶をたどって着いた家は古い二階建てで、赤茶に焼けたトタンの屋根に重く雪が積もっている。門扉があり、そこから3mほど入ったところに板チョコに似た玄関ドアがある。

 タクシーは待たせたまま向かった。物音はせず、二階の電気だけがついている。ここまで来たのだから、と思い切ってチャイムを鳴らしたが、しずまり返ったままだった。もう一度チャイムを鳴らしても反応がないので、真依に電話しようかと思ったところで、階段を下りる音が聞こえてきた。ガチャリと乱暴にドアが開く。


「夜分遅くすみません。こちらに辻村真依はいませんか?」


 予想に反して、出てきたのは野獣ではなく、きれいな男の人だった。さらりと流れた髪が目にかかり、妖しげな色気をかもし出している。しかし、澄んだ月明かりの下で見るその目は、この世ならざるもののようにどんよりと濁って見えた。やや伸びたTシャツの襟ぐりから、タトゥーの一部が覗いている。


「誰?」


 黄泉へと通ずる深淵から声がしたようで、美澄の背中を震えが走った。


「真依の友人で、古関美澄といいます。真依を迎えにきました」


 お腹の底に力を込めていうと、男は無言でドアを閉めた。階段を昇る音がしなくなると、ふたたび静寂が広がる。風が庭木の枝を揺らし、バサバサと音がした。見えてはいけないものが見えてしまいそうで、美澄は人生で初めて、小声で念仏を唱えていた。

 まもなく二階から玄関までひと息に駆け降りる音がして、真依が姿を見せる。


「美澄!」

「真依! 大丈夫?」

「大丈夫。ありがとー!」

「とにかく早く帰ろう」


 見えない触手が迫ってくるように思えて、美澄は真依の背を押して逃げ出した。

 一人になりたくないという真依の希望で、ふたりで美澄のアパートに帰った。途中のままのパソコンを片づけ、母親が来たときに使う客用布団を敷く。ゴロンと寝転んだ真依は、目の前にあった棋書をパラパラとめくって、つまらなそうに放り出す。美澄はすぐにそれを拾い上げて、チェストの上に置いた。


「何があったの?」


 問うと、真依の顔には叢雲がかかる。


「『帰りたい』って言うと怒るから言えなくて」

「それで迎えに来て、って?」

「私の意志じゃなければ、家を出られるから」


 美澄は大きくため息をついた。暴力をふるわれていない安堵が八割、呆れた気持ちが二割。

 そんな男やめなよ、と言ったところで意味がない。そんなことは真依もよくわかっているからだ。

 初めて会った彼に対する評価は口にせず、美澄はベッドに入って眼鏡をチェストの上に置く。


「これからどうするの?」

「もう行かない」

「その方がいいね」


 電気を消すと、寒さがより強く感じられた。窓ガラスがガタガタと鳴っている。さっきまであんなに晴れていたのに、今は吹雪になったらしい。カーテン越しにも冷気がどんどん入ってくる。


「ねえ、真依」

「んー?」

「あの人のどこが好きなの?」


 とてもきれいな、絵になるような男性だった。しかし、きれいだとか格好いいと思うことと、好きになることとは必ずしも同じではない。美澄は人生を何度やり直しても、あの人を好きにはなれない。


「SEXが上手い」


 息を飲んで飛び上がると、真依はきゃははと笑う。


「そんな動揺しないでよ。冗談だよ」


 これから寝ようというときに、余計な心拍数を上げられて、美澄は心臓のあたりを撫で回した。


「なんだろう? 将棋馬鹿の美澄には言ってもわからないかもしれないけど」

「失礼だな」


 ごめーん、と真依は笑って、それからガラリと声の色彩を変えた。


「愚かだよね」


 狭いワンルームのベッドの上と下。その距離以上に美澄と真依は遠かった。真依の中にも、あの人と似た深淵があるのかもしれない。人は、心の中にある湖の水が近い人に惹かれるのかもしれない。


「美澄は好きな人いないの?」

「いない」

「将棋仲間は?」

「還暦過ぎてるか小学生」


 ケラケラと真依は笑う。実際のところ倶楽部には若い男性も女性も出入りしているが、美澄は今、恋愛どころではない。


「そう言えば、元彼も将棋絡みで逃げられたんだっけ?」

「その話はもういいの!」


 ろくに恋愛をしてこなかった美澄には、真依の話より久賀の語る手筋の方がよっぽど馴染みがいい。


「なんか将棋指したくなってきちゃった。明日の朝早く家出る」

「わかった。おやすみ」


 静かになると、深淵からひんやりとした指が伸びてくる気がして、美澄は布団の中で身震いした。同じ恐怖なら、うつくしい手で一枚一枚守り駒を剥がされていく恐怖の方がずっといい。冷静な目と青いシャツ。早くあの場所に帰りたい。

 真依と九時に家を出て、美澄は倶楽部へと向かった。昨夜吹きつけられた雪で、あちこちの壁は白く塗り替えられている。

 休むと伝えてあるのだから、久賀は通常の出勤時間まで来ないだろう。それでも風除室前で待っていれば、少しは早く倶楽部に入れる。

 ところが、着いてみると風除室の引戸は雪が払われ、カラカラと小気味良く開いた。


「おはようございます」


 伺うように顔を覗かせると、久賀はまだコートを着たまま、机をひとつひとつ拭き上げているところだった。


「おはようございます」

「先生、早いですね。まだ九時半ですよ」

「あなたはいつ来るかわかりませんから」

「だけど、私しばらくお休みしますって伝えましたよね」

「でも、来たじゃないですか」


 いつかの美澄のように久賀はそう言って、ピッとトイレを指差す。美澄は、はい、と脱いだダウンを椅子の背にかけた。

 トイレ掃除を済ませてから、久賀と盤を挟んだ。二週間休んでいたことの方が不自然に感じるほど、駒は指肌にしっくりと馴染む。チェスクロックを叩くたび、血のめぐりが整えられていくようだった。

 しかし、気持ちとは裏腹に内容は散々で、序盤の早い段階で形勢を損ねる。そのまま、まったく対処できずに投了となった。


「敗着はわかりますか?」


 対局を終え、感想戦に入ったとき、久賀は手早く盤面を戻しながら言った。表情も声もいつもと変わらないが、その苛立ちは骨を軋ませるほどに伝わってくる。


「序盤の……銀上がった……」

「その通りです」


 目を見られずに答えた美澄に、久賀はピシリと言う。


「なぜその手を?」

「攻めの形を作りたかったので、とにかく銀を前に出そうと思って」

「角の利きを止めてまで?」


 角の進路に居座る銀を、久賀はコンコンと指先で叩いた。美澄にはこれ以上言えることは何もない。


「以前お渡しした金森先生の研究書は読みましたか?」


 知らず知らずバッグに手を添えていた。栞を挟んだままのその棋書が、今もそこに入っている。


「いえ、まだ全部は」

「そうでしょうね。読んでいればこんな手を指すはずありませんから」

「すみません」

「あの著書は、この変化の多くを扱っています。もちろん最新の研究はもう少し進んでいますが、基礎知識として最低限知っておくべき内容です」

「すみません」

「終わりにしましょう。話になりません」


 ザラッと久賀は駒を崩した。数えながらさっさと駒袋に収めていく。

 怠惰をして読まなかったわけではない。むしろ寝る時間も惜しんで、毎日少しずつでも読み進めていた。課題も多かった。真依のトラブルもあった。美澄はまだ学生で、棋士や講師と違って将棋だけしていられる立場ではない。でも、

 ━━甘えていた。

 言い訳は許されない。目の前にいるひとは、家族でも友人でもなく、将棋の講師なのだ。美澄がどんな状況にあるのか、その中でどれほど努力したのか、慮る必要はない。今目の前に提示された将棋だけがすべて。この世界において、それは絶対的な価値観だ。

 久賀は美澄の存在を無視して、すべての机に盤駒とチェスクロックを置いていく。美澄も声をかけず、そっとドアから外に出た。

 まぶしいほどの青空が広がっていた。


 飽きずによく降るな、と久賀は空を見上げた。わたあめのように濃密な雪が、靴の下でギュッギュッと音を立てている。

 暑さ寒さも彼岸まで、と言われるように、雪も二月半ばを過ぎるとさほど降らなくなるらしいが、まだその気配はない。夏の暑さで溶けそうだったことが前世の記憶のように遠く思える。

 美澄が姿を見せなくなって一週間が経っていた。元々試験期間なのだから、忙しくしているのかもしれないし、もし将棋をやめたなら、それはそれで仕方がない。むしろその方がいい。美澄の理解の早さも感覚も惜しいとは思うけれど。

 昨日帰り際にも雪かきしたのに、今朝も10cmは積もっていた。風除室の前には、除雪車からこぼれた雪の塊が壁のように残されている。


「いつからいたんですか?」


 雪壁の向こうで、タンポポ色の人影が傘を握りしめてうずくまっていた。


「おはようございます」

「挨拶はいいから、とにかく入って」


 室内に押し込むと、エアコンの風が直接当たらない席に座らせ、設定温度を三度上げた。コーヒーが落ち切る前に、美澄の分だけカップに注いで目の前に置く。しかし美澄はそれに手を伸ばさず、立ち上がって深々と頭を下げた。


「先日は申し訳ありませんでした!」


 長時間寒い中にいたせいか、少し口が回っていない。


「先生はずっと好意で教えてくださっていたのに、あんなみっともない将棋に付き合わせて。あれから、ちゃんと本を読んで、考えて、勉強してきました。だから、もう一度教えてください」


 机に取り残されたマグカップを、久賀はもう一度美澄の前に持ってきた。


「いいから座って飲んでください」


 美澄が口をつけるのを確認してから、久賀も自分の分のコーヒーを運んでくる。エアコンの風は、まだ冷えきった空気だけを吐き出している。


「ひとつ約束してほしいのですが、」


 カウンターに腰を下ろして話しかけると、力強い瞳で見つめ返された。


「勉強はちゃんとやります」

「それは約束以前の当たり前の話」


 美澄はカップを置いて姿勢を正す。


「僕は九時にここに来ますから、それより前には来ないでください。あなたが早く来ると、僕はさらに早く来なければならなくなります」

「はい。約束します。ありがとうございます」


 美澄はほっとした表情でマグカップを包み、手を温めた。


「先生、もしかして毎日九時に来てました?」

「あなたはいつも突然来るので」

「もう辞めようかと思いました」

「僕もそう思ってました」


 ほんの少し美澄が微笑むと、久賀も唇を引き結ぶように口角を上げる。


「まずは掃除しましょうか」

「はい!」


 カップを置いてカウンターから降りると、美澄もタンポポ色のダウンを脱いで、トイレへと走って行った。

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