▲7手 花が揺れるような
吹雪が収まるのを待って家を出た久賀は、五分後には吹雪の中にいた。さっきまで頭上に広がっていた青空は東の彼方へ沈み、座布団の中綿のようにみっしりとした雪雲があたりを覆っている。フードを被っても、吹きつける雪で眼鏡は水滴だらけになった。しかし風除室の前のタンポポ色は、水滴越しにもはっきりと見えた。
「何してるんですか?」
傘を握りしめてうずくまっていた美澄は、寒さで赤くなった顔を上げた。
「よかった。先生、おはようございます」
時刻は十時を過ぎている。まさか「おはようございます」の時間帯からここにいたのだろうか。
「いつから……とにかく入りましょう」
水没したような視界では、なかなか鍵が鍵穴に入らない。眼鏡をはずし、裸眼で鍵穴を覗き込んでようやくドアが開く。
室内も冷えきってはいたが、雪と風を防げるだけでも体感温度はかなり違う。入口で雪を払った美澄も、ほっと息をついた。
「学校は? もう始まってますよね」
エアコンの風がよく当たる席に美澄を座らせたが、美澄はきゅっと身体を縮こまらせた。吹き出してくる風がまだ冷たいことを思い出して、久賀は失敗を悟ったものの何もできない。
「今日は午後からなので」
「終わってから来たらいいじゃないですか」
「先生『いつでも聞きに来てください』って言いましたよね」
確かに言ったが、それはあくまで営業時間内での話だ。「いつでも」を文字通り受け取る人間がいるなら、次からは「営業時間内で、且つ他に急ぎの仕事もない時に」と前置きしなければならなくなる。
「僕が早く来なかったらどうするつもりだったんですか?」
「身の危険を感じたら帰るつもりでした」
「危険でしたよ」
「でも、来たじゃないですか」
ほわりと笑った顔は、やはり寒さで少しこわばっていた。
「それで?」
促されて美澄はバッグから棋譜を取り出す。
「この前教えていただいたところ、急戦を選んだ場合も分岐が多くて━━」
「急戦を選ぶなら、そもそも駒組の順番が変わってきます」
久賀は棚から棋書を二冊抜き出す。
「この二冊がよくまとまってると思います」
「お借りしていいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます。さっそく講義中に読みます」
「講義はちゃんと受けてください」
美澄は返事をせず、鼻歌混じりに借りたばかりの棋書を開く。次第に集中していく様子を見て、久賀は営業に向けて準備を始めた。
「先生、盤と駒をお借りしていいですか?」
キッチンでポットに湯を入れていたら、美澄が入口から顔を覗かせて言った。
「まだ営業時間前なんですが」
「だめですか?」
美澄は棋書に指を挟んで持ち、そわそわと久賀を見上げている。今読んだばかりの手順を試してみたくて仕方ないようだ。
「しまってある場所はわかりますよね。勝手に出して使ってください」
「ありがとうございます!」
久賀が雪掻きをして、引戸にくっついた氷片を割り取って戻ると、美澄は棋書を見ながら一心に駒を動かしていた。美澄が使っている机を残し、すべての机を拭き上げても、一向に終わる気配がない。
「そこ、拭きたいのですが」
そう声をかけると、美澄は無言で盤を持ち上げる。サッと拭いた久賀は隣の机に布巾を放り、美澄の目の前に座った。
「さっきから全然進んでいませんね」
駒を初形に戻していく久賀を見て、美澄は目を輝かせた。
「教えてくれるんですか?」
「ただ働きはしません」
「……おいくらですか?」
久賀は倶楽部の一角を指差す。
「トイレ掃除、でどうですか?」
「よろしくお願いします!」
まだあんまり頭回ってないんですけどね、と首を回していると、美澄の視線が久賀の顔に向けられた。
「先生って普段は眼鏡ですよね。コンタクトにするのはどういう時なんですか?」
「対局の時です。フレームが盤にかかると集中できないので」
なるほど、と美澄はうなずく。
「でも、棋士って眼鏡の人多いですよね」
「こういうことは個人差がありますから。一分将棋になった時、コンタクトがずれるのをきらう人もいますし、それぞれです」
ぼんやり話す久賀に、美澄はにっこりと笑う。
「それなら今チャンスですね」
そんなことを言われて久賀が黙っているはずがなく、美澄は久賀の猛烈な攻めの前にあっさりと吹き飛ばされた。
「どこからやりますか?」
頭を抱える美澄に対し、一局終わって脳が回転し出した久賀の表情はすっきりとしていた。
「▲同歩△同飛車で
平川から感想戦(対局後の反省)が義務づけられ、美澄も少しは覚えられるようになってきたけれど、まだ曖昧なところも多い。
「桂馬は8九です」
そんな彼女に代わって、久賀はさっと指定した局面まで盤面を戻した。
「合駒が良くなかったですか?」
「そうですね。ここは桂馬を取っておく方がよかったです。うまくいけば桂得なので」
「飛車切ってくるのは読んでませんでした」
「中盤戦がなくて一気に終盤戦になる変化もありますから、切る順も読んでください。本譜みたいに飛車を取れても一方的に攻め込まれたら意味がありません」
「はい。じゃあ、桂馬を取っていたら……」
久賀はさらりと金を打つ。
「あれ、先生、八筋が受かりません」
「わかりますか?」
「はい」
春風が吹けば蓮花が揺れるような、無理のない返事だった。
「おっしゃる通り、これは受からないのですが、だからと言って諦めてしまうと差は開く一方です。どこかで少しでも取り返せるよう、絶対に粘ってください」
「粘る……粘る……ああ! わかんない!」
「『わかんない』じゃなくて考えてください」
「うーーーーーー、飛車取り……かな」
美澄が打った歩を見て、久賀はかすかに微笑みながら飛車を引く。
「一回逃げて」
「取って」
「飛成り。これだと突破はされましたが、形は悪くないですよね」
「はい」
言葉を重ねても、美澄は難なく飲み干していく。美澄の「はい」は、言葉が届いた充足感を久賀に与えた。
「先生?」
じっと美澄を見つめる久賀に、彼女は盤から顔を上げた。
「古関さん、ぎゃあぎゃあ騒ぐ割に理解早いですね」
「『ぎゃあぎゃあ』って何ですか。これだけゆっくりやってくれれば、誰だってわかります」
文句を言いつつ、美澄はうれしそうに頬を緩める。『誰だって』と美澄は言うが、今の変化をあっさり読み切れる人は決して多くない。
「でももう一回考えてみます」
美澄は指摘された変化をメモする。久賀は向かいの席からその姿を眺めた。ふと、美澄が顔を上げる。
「先生」
「はい」
「先生はどこで服買うんですか?」
想定していたどの質問とも違っていて、久賀はとっさに言葉が出なかった。
「……………………え?」
「着ている洋服、どこで買ってるんですか?」
紺色のチェックシャツを指差され、同じ質問をくり返されて、聞き間違いではないと理解した。
「……適当にその辺で。駅ビルとか」
「へえ」
含みのある声と視線を向けられ、久賀は自身の服装をざっと見る。今日は厚手のシャツに黒いパーカー、ベージュのパンツを穿いている。特に変わったところはないように思うけれど、他人の視線は居心地が悪い。
「何ですか?」
「いつも同じような服装だなって。だいたい青とか黒のシャツですよね。それで中にTシャツを着るか、上にパーカーを羽織るか」
夏は薄手の半袖、冬は厚手の長袖。久賀が気をつけるのはそのくらいのことだ。黒かベージュのパンツを合わせていれば、変な目で見られることはない。
「何か問題が?」
「買う理由がないじゃないですか。無難過ぎて」
「……買う、理由?」
将棋なら美澄の指し手はある程度予想できるのに、会話になると同じ言語を話しているとは思えないほど噛み合わない。
「心を掴まれるポイントです」
「ポイント……」
幼子のように美澄の言葉をただくり返す。もうじき二十七になるというのに、生まれて初めての難問に直面していた。
「……サイズと値段です」
久賀なりに精一杯答えたのに、美澄は、ふぅん、と頬杖をつく。一応納得したようにうなずくが、その実まったく気持ちが入っていない。それなら、と久賀も反撃に転じた。
「では逆に伺いますが、」
「はい」
「どういうメンタルになったら、そんな服を着ようという気になるんですか?」
美澄は今日、白いシャツの上に山吹色のカーディガンを重ねていた。ただしカーディガンの袖は右腕が長袖、左腕は半袖になっている。
「だってかわいいじゃないですか」
「かわいい……?」
久賀は我が目を疑うように、ずれてもいない眼鏡の位置を直す。
「はい。かわいいです」
美澄の返答は、久賀のどんな理屈も粉砕した。
「よく行く古着屋さん、安くてかわいい服がいっぱいあるんです! これもカレーライスみたいで一目惚れしました。七百円」
「カレーライス……ですか」
「これが福神漬」
美澄は襟元につけた赤い花のブローチにちょん、と触れた。
詰んだ。これ以上踏み込んでも勝ち目はない。
「……まだ時間あるし、もう一回やりましょうか」
「はい!」
美澄との間には、見えないけれど大きな断絶があるらしかった。
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