△6手 スクラップブック
美澄が倶楽部に入ると、仁木と磯島が行く手を阻んだ。
「古関さん!」
「あ、仁木さん、磯島さん、明けましておめでとうございます」
おめでとうございます、と仁木は使い込んだベレー帽を取り、磯島は安堵のため息をつく。
「古関さん、もう来てくれないかと思ったよ」
「え? なんでですか?」
「だって……」
磯島がふり返ると、カウンターの内側から久賀が三人を見ていた。美澄は、
「全っっ然大丈夫ですよ」
と笑って、ふたりの間をすり抜ける。そしてカウンターに五千円札と指導対局チケットを滑らせた。
「先生、明けましておめでとうございます」
「おめでとうございます」
「会員証、更新お願いします」
「はい」
久賀は金庫から新しいカードを取り出し、油性マジックで美澄の名前と会員番号を書き入れる。
「先生、昨日やっぱり文具屋のところにいましたよね?」
新しい会員証を寄越す久賀は、美澄の声など聞こえない風を装っている。
「あ! もしかして……」
美澄は仁木と磯島に聞こえないよう、声をひそめた。
「すみません、待ち合わせでしたか。秘密の彼女とか━━」
「違います」
きっぱり否定したために、聞こえていることも、昨日そこにいたことも肯定する結果となった。
「じゃあ、なんであんなところに━━」
「ところで、今日の指導担当は僕ですよ?」
「わかってます。私、先生に平手で勝ちたいんです」
背の高い久賀を下から見上げると、その視線を受けて久賀もうなずいた。
「そういうご要望であれば……」
「緩めろって意味じゃないです。本気です」
久賀は小さく吹き出したが、飲み込むように真顔を作り直した。
「うそ……そこで笑いますか?」
「すみません。つい」
美澄は仏頂面のまま指導対局のテーブルに向かう。
「ねえ仁木さん、笑うとかひどいと思いませんか?」
仁木は難しい顔でベレー帽の位置を直す。
「いやぁ、平手では厳しいよ」
「でも、いくら強い人だって隙ってあると思うんですよね」
「古関さんはめげないねぇ」
磯島も広い額をつるりと撫でて苦笑する。
「その辺のアマチュア相手じゃないんだよ? 久賀先生なら百戦
「私の味方はなしですか」
唇をとがらせたまま駒を並べた美澄に、
「古関さーん、頑張ってねー!」
と、離れた机から圭吾が手を振る。
「ありがとう! 頑張る!」
元気よく手を振り返した美澄は、四十分後、見事に沈没していた。
「気持ちいいほどの完敗だったね」
磯島が美澄の肩を叩いて帰っていく。いつの間にか背後で見ていた圭吾は、
「負けても大丈夫! 次頑張ろう!」
と励ましてくれた。
「ありがとう。今度またコーラご馳走するね」
美澄は片手を上げて応じ、無惨な投了図に視線を戻す。
なぜそこに歩を打てたのか。なぜそこで飛車を回ったのか。久賀の指す一手一手は美澄の思考の常に先を行く。歴史的偉人の棋譜も、タイトル戦で指される将棋も知っているけれど、美澄にとっては目の前でくり広げられる久賀の将棋こそが、まばゆい奇跡の連なりだった。久賀自身はそれをどれほどわかっているのだろうか。
しゅん、としおれる美澄の目の前で、久賀は勝負所まで盤面を戻していく。
「中盤、手が見えてませんでしたね」
「どうしたらいいかわからなくて」
「まず、左銀を前に出すイメージを持って欲しかったです」
久賀は美澄の銀をパチリとひとつ進める。
「ちょっと考えたんですけど、怖くて」
「それ以外でも、この局面は打ち放題だったんです。角を打ち込める場所が、一、二、三ヶ所」
とんとんとん、と動く指を、美澄はひとつひとつ目で追う。
「歩を打てる場所がここ。あと桂馬……はどこだと思いますか?」
美澄はかじりつくように盤面を睨んだあと、魂ごと吐き出した。
「…………3五」
「正解」
「ああああ! もう! 全然ひとつも見えてないです。なんでだろう? もうやだ」
「攻めのパターンをどれだけ知ってるかという知識量と経験値ですね。どちらも量の問題なので、いくらでも補強できます」
久賀はその長い指で、盤の横にある紙を拾い上げる。
「棋譜書いたんですね、自分で」
「はい。私は頭に入れられないので」
「大事なことです」
ほんの少し久賀の口角が上がったのを、美澄は目ざとく見つけた。
「……褒められた」
「褒めてません」
棋譜を机に戻すと、その指が盤に伸びる。
「そもそも駒組段階で、まだ急戦の含みが残ってるんだから、銀上がるの早過ぎます」
「飛車振り直したらまだ難しいと思って」
「そうですけど、それをあなたの棋力で指しこなすのは難しいでしょう。もっと実践的な順を選んだ方がいいと思いますよ。具体的には━━」
「待って! 待ってください、メモしたいので」
久賀は赤ペンで美澄の棋譜に符号を書き足していった。美澄はそれを頭痛を堪えるような表情で見つめる。
「何かわからないところがありますか?」
「いえ、符号を盤に変換するのに時間がかかるだけです」
久賀は、そうですか、とまったく共感できない様子でうなずいた。そして、
「わからなくなったらいつでも聞きにきてください」
と、おざなりに話を締めくくった。
美澄がソファーでひとり対局をふり返っていると、
「はぁ~負けた、負けた。三連敗」
と、仁木がドスッと向かいに座る。やや疲労はあるものの悲壮感はない。
「お疲れさまです。お茶飲みます?」
「おお、ありがとう」
安い緑茶一択ではあるが、それは自由に飲んでいいので、美澄は急須にティーバッグと湯を注いで、仁木と自分のお茶を淹れる。
「負けるとドッと疲れますよね」
「古関さんの年齢だとそうかもね」
「年齢関係あるんですか?」
「俺ぐらいになると年中具合悪いから、負けた疲労なのかただの疲労なのか区別つかないよ」
そういうものですか、と美澄は一応納得したそぶりをする。
「悔しがるのもエネルギーだからね。子どもなんて激しいでしょ?」
「そうですね」
小学生が泣いているのは、ここでは日常茶飯事である。圭吾だって、声を張り上げることこそないけれど、目を潤ませる姿は何度も見た。
「久賀先生も小さいときはよく泣いてたよ」
「え! 仁木さん、先生の小さい頃知ってるんですか?」
カウンターの中にいる久賀は、生まれた時から今の姿でした、という顔をしている。
「久賀先生はここで平川先生から将棋を教わったんだよ」
「へえ~。先生って東京の出身だと思ってました」
久賀は父親の転勤で、小学校一年生と二年生の二年間、この倶楽部に通っていたらしい。その後も転校をくり返しながら奨励会に通い、高校生の時に親元を離れた。両親は今、海外に赴任しているとのことだった。
仁木は棋書が並んだ棚からスクラップブックを取り出してパラパラとめくる。古いファイルで、美澄はそこにそんなものがあることさえ知らなかった。
「大人しいのにとにかく負けん気が強くてね、中飛車で吹っ飛ばしたら声殺して泣き続けてたよ。泣いたまま次の駒並べるから、やりにくくって。……ほら、あった」
仁木が示したのは古い写真だった。大人に混ざって、恐竜のTシャツを着た少年が将棋を指している。写真は小さく印刷も良くないが、言われてみれば久賀の面影がある。
そのすぐそばに、新聞記事が張ってあった。
「……『久賀
「そうだよ。名前知らなかった?」
「先生の名前について考えたことないですもん。……って、ええー! 先生って小学生名人戦優勝してるんですか!?」
美澄は大きな声をあげた。
『優勝は東京都代表 久賀夏紀君(六年)』
写真には小学生の男の子が四人写っていて、中央にいる少年が久賀のようだった。この頃になるとすでにチェック柄のシャツを着ている。
「六年生で、アマ四段……!?」
恐ろしいものを見た、というように美澄は自身の腕を抱えた。
「その年に奨励会に入ったみたいだね」
「典型的な将棋エリートじゃないですか……」
「ここにいた時もすぐに勝てなくなったよ。上達スピードが桁違いで、こういう子がプロになるのかもしれないなって思ったんだけどね」
小学生名人戦は、棋士の多くが参加経験のある棋士への登竜門。実際、記事に載っている四人のうちひとりは、最近タイトルを獲得したという若手棋士だ。そこで優勝しているなら、将来を嘱望されただろう。
仁木がそっとカウンターの久賀を見つめる。
「だから、もしかしたら久賀先生は、出来の悪い人間の気持ちはわからないかもしれないな」
美澄は棋譜に視線を落とす。赤字で書かれた大雑把な文字は、姿焼きの棋譜と同じもの。久賀の態度や言葉は、時折痛みを与えることがあるけれど毒はない。
「でも、悪い人じゃないみたいですよね」
久賀はカウンターでひたすら駒を磨いている。その表情はいつもと変わらず、何の感情も見えない。
先生でも泣くことがあるのか。
新聞記事の写真をもう一度見て、美澄はそれを棚に戻した。
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