▲5手 コーラとカフェラテ

 駅まで走ってきた圭吾は、大きくジャンプしてみずたまりを跳び越えた。着地と同時に美澄に向かって手を上げる。


「古関さん!」

「あ、圭吾くん。今倶楽部の帰り?」


 圭吾のニット帽についた雪を払いながら美澄は尋ねる。冬休みに入って、圭吾は毎日あさひ将棋倶楽部に通っているらしいが、美澄はアルバイトが忙しくて通えていなかった。年末年始は帰省する学生も多く、毎年人手不足なのだ。


「ねえねえ、久賀先生にケンカ売ったってホント?」


 クリスマスプレゼントの話をするみたいに、圭吾は目を輝かせて尋ねた。


「なんで知ってるの?」

「みんな知ってるよ」


『みんな』の顔を思い浮かべ、美澄は苦笑する。


「それより、電車の時間大丈夫? またギリギリなんじゃないの?」


 ブルーのダウンからデジタルの腕時計を引っ張り出して、圭吾はしっかりとうなずいた。


「もう間に合わない」

「次の電車は?」


 今度はリュックのポケットからメモを取り出す。


「えーっと、四十八分あと」


 一段と強くなった吹雪を見てから、美澄は圭吾に視線を戻す。


「ココア飲む?」

「コーラがいい」

「了解」


 雪が強くなったせいなのか、駅に隣接するコーヒーショップは混んでいた。買い物帰りの母娘や、友人同士、恋人同士、組み合わせはさまざまだが子どもはいない。


「圭吾くん、家まではどのくらいかかるの?」

「電車で五十分くらい」

「うわぁ、遠いね」


 この寒いのによく飲むな、と思いつつ、コーラと自分の分のホットカフェラテを注文する。


「古関さん、家は違うところなの?」

「実家ってこと? 実家はね、隣の県。大学進学でこっちに来たの。だから地理には詳しくないんだ」


 トレイを受け取って、人の間を縫って席を探した。圭吾は後ろをちょこちょことついてくる。

 どうにか見つけた一席に座り、圭吾はコーラを一気に半分飲む。喉を通る炭酸の刺激に顔を歪ませたが、それが治まるなり、


「それで、久賀先生にケンカ売ったってホント?」


 とふたたび聞いた。話題を変えてくれる気はないらしい。

 二人掛けの席は、元々四人掛けだったものを半分に分けたらしく、席と席との距離が極端に近い。隣の女性二人連れとほとんど相席状態だった。「ケンカを売る」などという不穏な会話はできれば避けたい。


「そんなんじゃないよ。ちょっと厳しく指導されただけ」


 無意味だとわかっていても、声のトーンを落として言った。


「穴熊、姿焼きにされて全駒されたって聞いた」

「全駒はされてない」

「される前に緩めてもらったから?」


 これだから将棋に詳しい小学生は困る、と美澄は返事をしない。スティックシュガーを落としたカフェラテをスプーンでかき混ぜ、泡をぺろりと舐めた。


「久賀先生と平手で勝負とか無謀だよ」

「先生が人でなしなの」

「そうかなぁ?」

「前にも二年生の男の子泣かせて、お母さんに怒られたって聞いた。もっとにこにこ笑って『頑張ってね』くらい言っておけば問題起きないのに」


『応援はできないし、反対されたくらいでやめる程度の覚悟なら、いずれにせよ棋士にはなれません』とまで言った久賀だ。「頑張って!」と拳を上げる彼を思い浮かべようとして失敗する。


「ごめん。やっぱり想像できない」

「うん」


 聞いているのかいないのか、圭吾はクラッシュタイプの氷をストローで掻き出すことに心血を注いでいる。


「圭吾くんは平気なの? 前にかなり厳しいこと言われてたけど、怖くない?」


 圭吾は見事獲得した氷をシャクシャク噛み砕いて「全然怖くないよ」と平然と答えた。


「久賀先生はあんまり笑ったりはしないけど、居飛車も振り飛車も指せるし、何でも知ってて、何でもわかりやすく教えてくれるよ。泣いちゃった子はいつも反則して、みんな困ってた」


 寒っ! と身体を縮こませる圭吾を「そんなの飲むからだよ」とたしなめつつも、子どもって意外とちゃんと見てるんだな、と感心していた。大人になると、服装だとか、コミュニケーションの取り方だとか、本質とは別のところでその人の評価を下してしまうことがある。

 同時に、こんな良き理解者に対してあんな辛辣なことを告げた久賀は、やはり常識の埒外にあるとも感じていた。


「そういえば、圭吾くんって、平川先生じゃなくて、いつも久賀先生の指導受けてるよね」

「うん。前は家の近くの道場に通ってたんだけど、久賀先生のこと知って、土日はこっちに来たの」

「なんで?」


 電車で片道五十分をかけて、わざわざ久賀に会いに来ているのだと言われたら、素直な疑問が口をついた。


「だって、久賀先生は元奨励会三段だもん」

「え! 三段!?」


 奨励会三段ということは、久賀は三段リーグという地獄を味わっていたということだ。

 三段リーグはプロ棋士への最終関門。三段同士が半年で18局戦い、上位二名だけがプロである四段に昇段できる。二十六歳までにこの二名に入れなければ退会。地獄のリーグと呼ばれる所以だ。

 その棋力はプロとほとんど差がなく、退会しても純粋な「素人」とは言えない。


「そうだよ。知らなかったの?」


 聞いたこともあったかもしれないが、久賀の経歴になど興味のない美澄の頭には、彼に関する一切の情報が入っていない。


「三月で退会して、今の倶楽部には六月からいるみたい」

「それならほとんど現役じゃない。どうりで強いはずだよね」


 半年のブランクがあるとしても、久賀はプロに準ずる棋力を持っているということだ。アマチュア四段を奨励会6級と仮定して、その差を指折り数えてみると、美澄とは11段級差。飛車落ちどころか二枚(飛車と角行)落としてもらっても勝てるかどうかわからない。


「奨励会にいた人が近くにいてよかった」


 将棋会館のある東京や大阪、その近郊であればプロや奨励会員の指導を日常的に受けられる。しかし、地方ではまれにあるイベントに参加するか、自分で都会まで赴かないと難しい。都会と地方で、その経験値の差はかなり開く。


「久賀先生が来てから、県外からもこの倶楽部に通ってくる子が増えたよ。そういう子と指すのも楽しい」


 圭吾は最近、内藤陽斗という県境に住む中学一年生の男の子と親しくしている。県をまたいでやってくる彼は、去年小学生名人戦の県代表にもなった棋力の持ち主だ。美澄を含む大人とも屈託なく接する圭吾だが、内藤には友達ともライバルとも憧れとも取れる、親しげな一面を見せている。

 将棋はオンラインでも十分可能だが、強い人と直接盤を挟んで切磋琢磨することは、代えがたい大きな経験なのだ。久賀の性格や指導力はともかく、その存在によって倶楽部全体のレベルが上がっていた。


「じゃあ、先生を倒せたら、私も奨励会入れるのかな?」

「多分無理」


 そんなところまで久賀仕込みなのかというほど、圭吾はきっぱりと断言した。


「なんでよ!」

「年齢制限あるもん」(通常の入会試験は十九歳まで)

「え! そうなの!?」

「古関さんって、何も知らないよね」


 ずぉーーーっと音を立てて、圭吾がコーラを飲み干した。すぐ隣からは、控えめな視線と忍び笑いが、美澄のところに届いていた。



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