△4手 タンポポ色の来訪者
マフラーを口元まで上げると眼鏡が曇った。シャツの上にパーカーを着込み、ダウンコートを着て、首元をマフラーで覆っても、寒さで背中が丸まる。
久賀は寒いのが苦手だった。なぜこんな寒いところに来てしまったのかと、毎朝毎晩後悔している。そうかと言えば、同じくらい暑いのも苦手だった。花粉症なので春も苦手だし、寒暖差にも弱い。この地上には快適に住める場所などない、と中学生のときには悟っていた。この地に移住したのも、そういう諦念があってのことだ。
十二月二十六日。冬晴れの駅前にはまだクリスマスの余韻が見え隠れするものの、あちこちでイルミネーションやオーナメントを取り外す作業が行われていた。早いもので、眼鏡屋の前には門松が置かれている。
ほとんど乾いて名残だけが黒く残るみずたまりの上を歩いて、倶楽部へと向かう。
平日は十二時に開けるが、久賀は一時間前には出勤して、掃除や準備を済ませることになっている。けれどそれは明確な決まりではなく、間に合いさえすれば遅かろうが早かろうが構わない。常連の幾人かは、毎日営業時間前にやってきてドアの前でプレッシャーをかけるので、十分は早く開けることが常だった。
だから倶楽部の前にすでにあった人影を、久賀は最初常田だと思った。腕時計の針は十時八分を指している。いくらなんでも早過ぎるだろ、とため息をついたらまた眼鏡が曇った。そのため、かなり近づくまで人違いであることに気づかなかった。
「おはようございます」
久賀に気づいた美澄は、都合悪そうに視線を足元に落とした。
「……おはようございます」
久賀もマフラーの内側で、もそもそと挨拶を返す。
なぜ常田だと思ったのだろう。こんなに目立つタンポポ色のダウンを恥ずかし気もなく着て来る人間なんて、このひとしかいないのに。
「平日の営業は十二時からですよ」
「開いてないだろうな、とは思ってました」
美澄の声は寒さに震え、顔色は血の気がなく白かった。
「いつからここにいたんですか?」
「三十分くらい前です」
「凍死しますよ?」
「十二月はそこまで寒くないですよ」
強がる態度とは裏腹に声は震えていた。久賀は焦りながら右のポケットに手を入れ、次に左ポケットを探る。リュックを下ろして中を探しても、鍵というものは急いでいる時ほど見つからない性質をしている。
「あの、先生」
美澄が遠慮がちに差した指先をたどると、パンツの後ろポケットから駒のキーホルダーが出ていた。
「あ……すみません」
軽く頭を下げながら、ポケットから鍵を取り出して開けた。
「どうぞ。中も寒いですけど」
エアコンをつけ、ポットにお湯を入れる間、美澄は入口に立っているだけだった。久賀も声をかけず、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
「学校は?」
美澄を置いてトイレ掃除に行くのもためらわれ、久賀の方から話しかけた。
「冬休みです」
「そういえばそうでしたね」
小学校は昨日終業式だったか。今日あたりから来客数が増えるかもしれない。
「でもアルバイトがあるので、その前に先生に会えないかと思って」
「僕ですか?」
「はい」
これはあまりいい話ではないな、と久賀はこっそり身構えた。以前にも似たようなことがあり、美澄にはできるだけ関わらないようにしている。
「それで、ご用件は?」
「あの……」
美澄は視線を落としたまま久賀の前まで進み出ると、そのまま頭を下げた。
「先日はすみませんでした。突然帰ってしまって……。失礼なことをしました」
ああ、と久賀はカウンターの上に並べているチラシをトントンと整える。
「指導対局をしていると、まれにああいうことはあります。怒り出す人もいるくらいです」
「そうなんですか?」
拍子抜けしたように美澄は頭を上げた。
「間違ったことは言ってないつもりなんですけど」
「間違ってないからじゃないでしょうか」
美澄は困ったように笑う。
「正しいことを言われた方が傷つきます。そんなときは、怒るしか反撃する方法ないじゃないですか」
「でも、正しい知識を身につけるしか、強くなる方法はありません」
「その通りですけど、先生の場合、言い方がちょっと……」
久賀が唇を結ぶと、コーヒーメーカーの音しか聞こえなくなった。まもなくその音も止む。
「用事はそれだけですか?」
美澄はモジモジとダウンの袖を引っ張る。
「それから、お願いがありまして」
「はい」
「先生、一昨日の将棋覚えてますか? 将棋が強い人は、手を全部覚えてるって聞くので」
「覚えてます」
事も無げに久賀は言い切った。先月と言われたら難しいが、一昨日ならばまだ思い出せる。
「棋譜を書いてもらうことはできませんか?」
久賀は一度キッチンに行き、マグカップに入れたコーヒーをふたつ持ってきた。手近な机から乗せてある椅子を下ろし、そこにマグカップを置く。
「どうぞ」
美澄にコーヒーをすすめると、自分はカウンターの中に入る。下から古いチラシを一枚引っ張り出し、その裏面にボールペンで符号(指し手を数字などで表したもの)を書き出した。
「いただきます」
美澄は恐る恐るマグカップに口をつけて、きゅっと唇を閉じる。本当はブラックコーヒーは飲めないのかもしれないが、ここに砂糖やミルクは置いていない。久賀は自分が飲むついでに出しただけで、美澄が飲むか飲まないかはどうでもよかった。美澄はひと口ひと口、作業のようにコーヒーを減らしていき、久賀はひたすらボールペンを走らせる。
「本当に覚えてるんですね。あ、すみません。話しかけて」
カウンター越しに覗き込んだ美澄は、顔を上げた久賀と目が合って身体を引いた。そのまま逃げるように元の席に座る。
「手には流れがありますから、その流れを考えると自然と頭に入ります」
久賀は一度コーヒーを口に含み、ふたたびボールペンをとる。コーヒーはすでにぬるかった。室内も寒いせいで、冷めるのも早い。
「できました」
カウンターから出てきた久賀は、美澄が座っている机の上を滑らせるようにして紙を渡した。日付、時間、対局者、手合割。そして符号が大雑把な文字ながら整然と並んでいる。
「ありがとうございます。おいくらですか?」
「いりません。料金設定してませんので。ただ、他の人には言わないでください。収拾つかなくなるので」
「わかりました。……ひどい将棋でしたよね」
久賀は直接返事はせず、カウンターに腰掛けてすっかり冷めたコーヒーを飲んだ。
「あの後、常田さんと仁木さんと磯島さんと……全部で五、六人の常連さんに囲まれて怒られました」
「どうしてですか?」
「『あれはイジメだ』と」
不満が滲む顔にマグカップを押しつける。
『貴重な女の子が減ったらどうする』
『お客さんを怖がらせるなんて、この倶楽部つぶれるよ、先生』
『本気に見せかけてうまーく緩める(手加減する)のが、プロの指導対局でしょ。本当に潰しちゃだめだよ~』
安い緑茶のお茶請け代わりに、久賀は彼らに付き合わされた。
「物事を普及する上で、女性がいかに有益であるか、延々と説かれました」
美澄の視線が一心に久賀に向けられていることはわかっていたが、どことなく気まずさが勝って、そちらは見られなかった。目を合わせないまま、久賀は頭を下げた。
「先日は僕も、少しだけ感情的になりました。すみません」
謝罪は予想外だったらしく、美澄は驚いていた。
「先生も結構大人げないんですね」
「古関さんは一度、思い切り負けた方がいいと思ったんです」
「なんですか、それ」
美澄はツン、と唇を尖らせた。
「古関さんは自分のやりたい手しか考えません。それが成功すると、同じ手を指し続ける。どんな人だって、同じことをくり返されれば慣れます。それなのに古関さん自身は同じ手に引っ掛かっては同じ間違いをくり返す」
まだ生々しい傷をボールペンで抉る行為だとわかっていても、他に話題もなく、結局思うことを全部言ってしまった。
「将棋は、進化し続ける者しか勝てない競技です」
浴びせられた言葉で、美澄はしおしおと小さくなった。
「先生は将棋も言葉も厳し過ぎます」
「そうですか」
「本当はまだ、先生の顔も見たくないんです」
「はい」
「でも、知りたくて」
美澄の声に熱を感じて、久賀は吸い寄せられるようにそちらを見た。悔しそうな瞳が、今渡したばかりの棋譜に向けられている。
「なんであんなことになったのか、どうしたらよかったのか、知りたいんです」
身を焼かれるような敗戦だったはずだ。一手一手、その細い指をへし折るような気持ちで指したのだから。しかし美澄は、しおれてはいても生命力を失ってはいない。
「あんな負け方したばかりの私がこんなこと言うのは変かもしれませんけど、将棋って、思ってたよりずっと面白いですね」
それは久賀も何度もたどった道だった。思い出すのも恥ずかしい敗戦の後、二度と指さないと決意した翌日、結局はそこに行き着く。
「それがいちばん大事じゃないですか」
ようやくあたたまったエアコンが、大きな音を立てながら温風を吐き出し始めた。美澄のキャラメル色の髪がサラサラとなびく。
「女流棋士を目指すとか、段位を上げる以前に、負けても悔しくても将棋が面白いっていう気持ち。それがあれば前に進める」
久賀は知らずに笑みを浮かべ、それに驚いて美澄は棋譜を落としそうになった。丁寧に折りたたんで手帳の間に挟む。
「でも、そんな指導だと子ども相手は無理じゃないですか?」
どんな反論より胸に刺さり、久賀はあからさまに肩を落とした。くしゃくしゃと頭を掻く。
「面倒くさいなって思います、正直。予想がつかない。子どもって歩のくせに、クイーンやナイトの動き方をするので」
「クイーン?」
「チェスの駒です。飛車と角を合わせた動きができます」
「最強ですね」
「ええ」
美澄は笑って久賀の頭を指差した。
「先生、髪立ってます」
ふわふわとまとまりのない髪の毛をなでつけると、一ヶ所ピンと跳ねていた。手櫛で強引に跳ねを押さえつけながら美澄を見ると、
「直ってませんよ」
と、まだくすくす笑っていた。
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