▲3手 焦土

 クリスマスイブを言祝ことほぐかのように、午後になって雨は雪に変わった。まだ水分の多い雪は、火照った頬に触れるなり溶ける。その水滴を手の甲で拭って、美澄は黒々としたアスファルトの上をひた走った。

 クリスマスの影響で、美澄の働く雑貨店でも十二月に入ってから来客や注文が多い。イブの今日は先週よりやや落ち着いたものの、それでも予定の勤務時間を延長するよう店長に拝まれた。

 降る雪はしかし積もらず、コットンスニーカーは順調に美澄を運ぶ。途中にある美容室の、アメリカの豪邸さながらのイルミネーションさえ、今は見ている余裕がない。


「こんにちは。遅くなりました」


 世間のにぎわいとは無縁のような将棋倶楽部でも、カウンターには一応小さなクリスマスツリーが置いてある。しかしその向こうに立つ久賀は、年中平日という顔で今日もそこにいた。


「お願いします」


 美澄は息を切らしながら、財布から会員証と指導対局チケットを出した。年季の入ったツリーの星に触れると、指先に埃がつく。


「すぐに始まりますので、席についてください」

「はい」


 まもなく開始時間なので、他の生徒はすでに着席していた。残った一席の椅子を引くと、久賀もそのままテーブルの向こう側に回る。


「あれ、今日は平川先生の日ですよね?」


 コートを脱ぎながら倶楽部内を見回しても、平川の姿は見えない。


「平川先生は支部会の会合なので、本日は僕が担当します」


 表情にも声にも温度を乗せず、久賀は手元のクリップボードに視線を落としたまま、事実だけを端的に述べた。


「やめますか?」


 眼鏡の上から一瞬だけ美澄に視線を向けたが、時計を確認して一番右端の盤の前に立った。定刻になったので、美澄の返事を待たずに始めるようだ。


「いえ、お願いします」


 美澄は足元にバッグを落とし、急いで椅子に座った。そうして目の前にやってきた久賀は、クリップボードの指導履歴をペラリとめくった。


「古関美澄さん。初段ということですが、平川先生とは……平手(ハンデなし)ですか?」

「はい」


 美澄がうなずくのを確認して、久賀は、


「では、僕とは角落ちでいいでしょうか?」


 と提案した。美澄はぱちくりとまばたく。角行を減らす「角落ち」は、プロとアマチュアの対局の際に用いられるほど大きなハンデなのだ。


「角落ちですか?」

「飛車を落とした方がいいですか?」


 飛車落ちは、角落ちよりもさらにハンデが大きい。当然平手で対局すると思っていた美澄は言葉に窮した。


「何か?」


 久賀の態度に含むところはなく、それが美澄には余計に不満だった。


「飛車なんて落として、勝負になるんですか?」


 挑戦的な発言を受け、久賀の瞳の色彩が変わった。


「『勝負にならない』って、どっちが?」


 ミシミシと氷結していくような怒りに触れ、美澄はひるんだ。しかし、ひるんだことを悟られたくなくて、より強気な視線をぶつける。


「平手でお願いします」

「それは手加減なしで、ということですか?」

「もちろんです」

「本当にいいんですね?」

「はい」


 すみません、と生徒たちに断って、久賀は一度カウンターの中に入った。リュックからポーチを取り出し、眼鏡からコンタクトレンズに変えて戻ってくる。


「平手ですから、初手はどうぞ」


 先手を譲られて、美澄は角道を開ける。久賀もすかさずスパンと歩を進めた。

 攻撃性を孕む二手目。歩を一枚、たったひとマス進めただけの手は、王手をかけられた時のように美澄を追い詰めた。あらぬ幻影を追い払い、美澄は着実に駒組みを進めていく。


「古関さん、穴熊に囲っておけば安心だと思ってませんか?」


 香車を1八に上げたところで久賀は言った。

「穴熊囲い」は囲う手数はかかるものの、最も堅固な囲いだ。自玉に不安を抱えず攻められるので、囲えるならば囲っておいた方がいい、と美澄は思う。

 きょとんとした美澄の眼前を、飛車が三筋に走って行った。

 穴熊の何が悪いの? 三間飛車さんけんびしゃが何なの?

 久賀の言う意味がわからないまま、美澄は久賀に噛みつく気持ちで駒を進めていった。

 ところが、噛みついても噛みついても一向に手応えがない。それどころか、噛みついたその牙が脆くも砕けていく。

 何を考えているのかわからない。

 どんなに美澄が考えても、必ず違う手が飛んでくる。そしてそれは想定よりもずっと厳しい手ばかりだった。

 美澄の頬は熱を持ち、額にじっとりとかいた汗をハンカチで拭う。けれど久賀は、初手を指したときと変わらない表情で、美澄の首を容赦なく締め上げる。

 美澄と久賀の間の異様な空気を感じ取り、指し進めるにつれて背後にはギャラリーが増えた。しかし、その声は美澄に届いていない。自分の駒音も手触りもわからない。何の感情も乗せない久賀の駒音だけが、カチリ、カチリ、と耳の奥で鳴った。淡々と、いちばん痛い場所にあやまたず、その指先は届く。

 もいだ実を喰らうように、美澄の攻め駒は久賀に呑まれていった。背後で上がるささやき声は、もはや悲鳴に近い。

 取った駒は伏せた駒箱の上に乗せているのだが、そこからポロリと歩が落ちた。久賀はそれを戻さず、テーブルの上に並べておく。もう台には乗らないほど、美澄の駒は久賀に取られていた。


「見事な姿焼きだねぇ」


 ギャラリーの誰かが呟く。穴熊は玉の周りを隙間なく囲うため非常に堅い囲いである反面、逃げ場がないという欠点がある。美澄の王様は堅牢な城に囲まれているものの、それはただ引きこもっているだけで、場を制圧しているのは久賀だった。

 美澄はようやく久賀の言葉の意味を理解していた。屈辱的な負け方であると言われる「穴熊の姿焼き」。久賀は最初から、美澄の玉を引きずり出すことなく、すべてを焼き払うつもりでいたのだ。


「古関さん、投了しな」


 背後からそっと常田ときたがささやいた。常田はこの倶楽部の常連で、老後の趣味としてほぼ毎日通っている。指導対局に口出しするのは重大なマナー違反であり、常田とてそのことは承知しているが、見るに見かねてそう言った。

 しかし美澄の頭の中は真っ白で、今や「投了」の概念さえも吹き飛んでいた。ただ指まかせに駒を動かしているに過ぎない。


「古関さん、このままだと全駒されちゃうよ」


 常田の声は震えていた。

 全駒とは、玉将以外のすべての駒を取ることである。棋力に大差がなければ為し得ず、また倫理に反するとさえ言われるので、そもそも全駒を狙われることはほとんどない。美澄の背中には、いくつもの哀れむ視線が向けられていた。


「おいおい、久賀先生……」


 と金に手を伸ばした久賀に、常田がたしなめるように声をかけた。そのと金は、美澄の最後の砦なのだ。哀願する視線を受けて、久賀はひっそりとため息をついた。と金から手を引き、桂馬を跳ねて王手をかける。


「続けますか?」


 久賀に問われ、美澄は、ああ投了すればいいのか、と思い至った。それでようやくこの地獄が終わる。

 雪の重みで枝が折れるように、美澄は呆然としたまま頭を下げる。唇が震えただけで、投了の声は音になっていなかった。

 身体を起こすと同時に、美澄はバッグを持って倶楽部を出た。バスには乗らず、五十分歩き続けて自宅に着いても、真っ白になった頭が戻ることはなかった。

 この年、クリスマスソングもイルミネーションも、美澄の記憶には残っていない。あるのは、どこまでも広がる一面の焼け野原。美澄はひとり、そこに立っていた。






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