△2手 ギンガムチェックの鉄壁

 横断歩道の向こうに、先ほど出てきたばかりの将棋倶楽部が見える。営業時間を十分ほど過ぎているので、窓はすべてブラインドで閉ざされ、入り口も床までロールカーテンが下ろされている。そのため中の様子は見えないが、隙間からはまだ明かりが漏れていた。

 美澄は緊張を自覚しながら風除室の引戸を開けた。このふた月さんざん通い詰めて慣れたはずなのに、カラカラという大きな音に心拍数が上がった。ひとつ深呼吸してドアを引っ張ると、鍵が掛けられていて開かない。それにも関わらず、美澄はガラス扉をドンドンと叩いた。まもなくロールカーテンが引き上げられ、驚いた顔の久賀が顔を出す。


「忘れ物ですか?」


 鍵を開け、ドアを開いて久賀はそう言った。接客を生業としているくせに愛想がなく、常にどこか拒絶感を漂わせている。今も無表情の中に迷惑そうな気配が読み取れた。


「先生にちょっとお話があって」

「平川先生なら帰りましたよ」

「いえ、久賀先生に」

「僕ですか?」

「はい」


 美澄はずっと平川の指導を受けている。久賀とは事務的なこと以外話したことなどなく、一瞬のためらいは、美澄の意図を図りかねての時間であるようだった。しかし久賀は無言でドアを大きく開け、美澄を招き入れる。失礼します、と言って美澄が入ると、ドアには鍵をかけず、ロールカーテンも閉めなかった。


「どういったご用でしょうか」


 倶楽部内は照明が三分の二ほど落とされていて、ほんのりと暗い。椅子はすべて机の上に乗せられ、掃き清められた後だった。久賀はドア横に置いてあったモップをカウンターに立て掛ける。

 思い余って来てみたものの、何の感情も浮かばない顔を目の前にすると、言葉はほどけるように逃げて行った。久賀の着ている黒いギンガムチェックのシャツはくたりとやわらかそうだが、今は軍事施設の壁のようにそびえ立って見える。


「あの、えっと……あ! 先生」

「はい」

「昨日東小の近くにいませんでした? 閉店した文具屋のあたり」


 唐突な質問に久賀は言葉に詰まったようだったが、すぐに否定した。


「いいえ」

「……そうですか」

「話ってそれだけですか?」

「いえ……あの、圭吾けいごくんのことで」


 ああ、とつぶやいて、久賀は行儀悪くカウンターに腰かけた。美澄には少し高いけれど、彼にとってはちょうど座りやすい高さらしい。中に着ているTシャツがパンツにしまわれているのは、寒さ対策なのだろうか。

 美澄は下腹に力を入れ、久賀の方に一歩踏み出した。


「『奨励会は無理だ』って言ったんですか?」

「言いました」


 朝ごはんはパンでした、と同じ程度の口調で、久賀はそれを認めた。



 *



 ほんの十五分ほど前、美澄は駅に向かう小さな背中を見つけた。しょんぼりと肩を落とした少年に小走りで追いついて、お疲れさま、と声をかけた。しかし、彼は目の端で美澄を捉え、小さくこくんと頭を下げただけだった。


「今日はお迎えじゃないんだね」


 圭吾は土日ごとに、隣の市からひとりで電車に乗って倶楽部に通っている。帰りは母親が車で迎えに来ることも多いが、今日は仕事だという。

 あの日壊れていた傘は買い換えられ、きれいに畳まれてその手にある。しかし、弱々しい足取りゆえに傘先がときどきアスファルトを擦っていた。


「電車の時間、大丈夫?」


 圭吾は黙ったまま、またこくんとうなずいた。明らかに気落ちした様子に、美澄は可能な限りやさしく問いかけた。


「何言われたの?」


 圭吾は土曜日の午前中に開かれている子ども教室だけでなく、午後の指導対局も受けている。今日はそこで久賀に何か言われたらしかった。本当なら毎日でも来たい、と笑顔を見せ、いつも電車の時間ギリギリまで倶楽部で過ごす少年が、今日は足早に出ていった。


「おれ、奨励会は無理だって」


 圭吾の気持ちを表したような曇天を美澄は仰いだ。アノヤロー、と口の中だけでつぶやく。

 奨励会とは正式名称を「新進棋士奨励会」といい、プロ棋士を養成する機関である。二十六歳までにプロである四段にならなければ強制的に退会となるため、多くは小学校高学年から中学生のときに入会する。四段と言っても、アマチュアの段位とはまるで違い、アマチュア五~四段で初めて奨励会の6級(最下級)に合格できるかどうか、という高いレベルだ。アマチュア2級の圭吾では合格が厳しいことは美澄にもわかる。


「でもそれは、『今はまだ無理』ってことでしょ? これからもっと頑張ったらいいじゃない」


 圭吾は強く首を振って、青に変わった信号を渡る。


「久賀先生は『多分無理』って。このままだと年齢制限に間に合うかどうかわからないって」


 将棋を愛する圭吾の気持ちを踏みにじる発言だと思えた。芽生えた怒りは一気に頭の先まで抜ける。


「そんなのまだまだ全っっ然わかんないじゃないのよ!」


 美澄の声はよく響き、ターミナルでバスを待つ人たちが幾人もふり返った。


「気にしない、気にしない! 私なんか二十一にもなって、女流棋士目指し始めたんだから!」

「そうなの?」


 圭吾のまるい目が見開かれた。つやりときれいな瞳が、かすかな陽光を反射する。


「そうだよ。お互い頑張ろう! 先生の言うことなんて適当に聞き流そう!」

「先生の言うことはちゃんと聞いた方がいいと思う」


 そこはきっぱりと言い切って、圭吾は駅の時計を見た。


「もう行かなきゃ」

「気をつけてね」

「うん。また明日! バイバイ!」


 走り去る青いリュックの上で左馬のストラップが跳ねたのを見たら、胃の奥から怒りが吹き出してきた。そうして美澄は倶楽部まで引き返してきたのだった。



 *



「どうしてそんなに厳しいことを言ったんですか?」

「やめた方がいいと思うからです」


 喧嘩腰の美澄に対して、久賀は平坦な声音でさらりと言った。


「どうしてですか?『頑張れ』って、応援してあげればいいじゃないですか」


 投げ出すように膝に置かれていた手を、久賀は静かに握る。


「『頑張れ』なんて、簡単には言えないでしょう」


 その声にはわずかに苛立ちが含まれていたが、久賀と親しくない美澄にはわからなかった。


「そうですか?」

「『頑張れ』って言葉は、負担に感じることもあります。少なくとも僕はそう思っていました」


 されて嫌なことは他人にもしない。それは人間関係の基本ではあるが、今はそうですね、と引き下がることはできない。


「一理はありますけど、基本的には挨拶と同じじゃないですか。『おはよう』とか『またね』とか、あとは『応援してるよ』って。いちいちそれに引っ掛かるのは、言う側の問題じゃなくて、受け取る側のメンタルバランスが悪すぎると思いますけど」


 久賀は不機嫌そうに眉を寄せ、美澄をじろりと睨んだ。


「僕はそんな風に割り切れません」


 久賀はカウンターを降りて回り込み、話を断ち切るようにパソコンに日報を打ち始める。美澄はカウンターの前まで詰め寄った。


「圭吾くんはまだ小学生です。今すぐは無理でも、これからどうなるかなんてまだわからないじゃないですか」


 必死に食い下がる美澄にも、久賀はキーボードを打つ手を休めることさえしなかった。


「棋士のほとんどは小学生でその道を決めます。圭吾くんが今後奨励会に受かる確率は、良くて五分だと僕は思っています。後押しできません」

「でも……」

「将棋で成功できるのは、ほんのひと握りの人間の、さらに小指の先程度の選ばれた人です。そういう人は、奨励会に入る前からわかります。圭吾くんは違う」


 将棋はどういうわけか、極端に早熟を好む。逆に、まったくの素人が晩年になって努力でその地位を獲得したケースはない。それは単なる偶然と片付けるには、あまりに顕著だった。

 また、奨励会は誰でも受験できるわけではなく、アマチュア大会で好成績を残すか、少なくとも小学生名人戦の県代表になるくらいでないと、推薦さえしてもらえない。圭吾は当然その予選には出ているが、まったく歯が立っていないらしい。

 美澄が反論の芽を生み出す前に、久賀は丁寧に摘み取っていく。


「もし受験して、うっかり合格してしまったら、それこそ最悪です。底なしの連敗を記録して心がズタズタになった人もいるし、将棋が嫌いになって、自分が嫌いになって、離れて行く人も多いんです。だから応援はできないし、反対されたくらいでやめる程度の覚悟なら、いずれにせよ棋士にはなれません」


 サッカー選手になりたい、アイドルになりたい、世界征服。小学生の夢の多くは叶わないし、ほとんどの場合夢も変わっていく。しかし幼いうちは未来を夢見ることこそが重要で、どんな荒唐無稽な夢でもそこに向かう気持ちを応援するものだ。

 けれど棋士になるには、圭吾の年齢である程度の「成果」を求められる。しかもそれは、気合いや熱意といった曖昧なものとは違う。


「古関さんは、女流棋士になりたいんですか?」


 急に話が自分に向いて、美澄はわずかに動揺した。


「なれたらなりたいと思ってます」

「なれませんよ」


 そんな厳しい言葉をあまりにも普通の声で言うので、美澄は傷つく以前に、聞き流してしまいそうになった。

“女流棋士”とは、奨励会を抜けた“棋士”とは別で、将棋の普及啓発を目的に女性だけで構成された棋界である。

 女流棋士になる方法は大きく三つあって、ひとつはアマチュア参加枠のある女流棋戦に参戦し好成績を残すこと。もうひとつは奨励会に入会すること。そして一番主流なのは、奨励会の下部組織である「研修会」に入会して昇級していく方法だ。

 研修会は上からS、A1、A2、B1、B2、C1、C2、D1、D2、E1、E2、F1、F2とクラス分けがされていて、一番下のF2クラスはだいたいアマチュア二段程度の棋力だとされている。そこでB2クラスに昇級できれば、女流2級の申請ができるシステムになっている。

 女流棋士は“棋士”よりも、入口の棋力は低く設定されているが、それでも美澄の現状では、F2クラスにも合格できるかどうか、というところだった。


「でも、平川先生は『女流棋士になれる』って言ってくれました」


 小学生かと思うほど幼い声が出た。久賀もまた、幼子に与えるような眼差しを美澄に向ける。


「そうですね。平川先生は簡単に言う人だから」


 初めて見せた久賀の微笑みは泣き顔でしかなく、否定されている美澄よりも悲しげだった。


「僕も言われました。『棋士になれるよ』と。でもなれませんでした」


 久賀は棋士を目指して、夢破れたひとだったのか。わずかに見せた感情はすぐに消された。パソコンの方がまだしも熱を持っているくらい、久賀の表情には何もない。


「古関さんはまだ大学生でしょう? 何にでもなれる、とまでは言いませんが、選択肢は無数に存在します。将棋界じゃない方がいいと思います」


 久賀はパソコンの電源を落とした。手持ち金庫と入会申込書を大型の金庫にしまって鍵をかける。


「先生は、将棋がきらいなんですか?」


 ギンガムチェックの背中に向かって問いかけても、久賀は振り向きもしなかった。


「そんな話はしていません」

「さっきからそう言ってるように聞こえるんです」


 久賀はモップを片付け、キッチンの電気も消した。紺色のダウンコートを着てリュックを背負うと、カウンターを出て来て美澄と向き合う。


「分の悪い賭けにわざわざ出る必要があるのかな、って思うだけです。今ならたくさんある選択肢も、年々減っていくのが実情なのに、可能性の低い賭けに時間を費やす必要があると、僕には思えません」


 救急車のサイレンが近づいてきて、久賀は言葉を止めた。それは徐々に大きくなり、すぐそばを通ってまた遠ざかっていく。ブラインドの隙間から赤いランプがチラチラ見えた。


「棋士になるのはゴールではありません。その後何年も何十年も将棋に人生を捧げるということです。棋士は幼い頃から、その覚悟を問われてきました。挫折して棋界を去る人の方がずっと多いんです。昨日今日将棋に興味を持ったばかりのあなたの情熱が、一過性のものでない、と言えるだけの根拠はありません」


 提示された未来はあまりに暗く、けれど勢いだけで跳ね返すことはできなかった。奥歯がギリッと擦れる。


「僕は『将棋は苦しい』って、思ってもらいたくないんです」


 またわずかに見えた感情に、美澄はすがる想いで手を伸ばす。


「でも先生。私はそれでも『頑張れ』って、言ってもらいたいです」


 久賀は返事どころか、まばたくこともしなかった。



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