みずたまりの歩き方
木下瞳子
第一局 みずたまりの見つけ方
▲初手 結びの雨
南西から北上してきた雨雲が、東北全域に大雨を降らせている。大雨洪水警報が発令され、河川の氾濫に注意するよう呼び掛けられているだけあって、花柄のビニール傘を打つ雨は、憎しみのこもった
アルバイトを終え、駅裏にあるバスターミナルを目指していた
バス停は、駅の裏からアーケードのように伸びた庇に沿って1番から15番まで設置されている。ぐおんとアクセルが踏み込まれて、今もバスが二台続けてロータリーを回って行った。
その庇の際に、少年がひとり立っている。スポーツメーカーのマークがついたキャップのつばを軽く持ち上げ、空の様子を伺っている。青いリュックについている左馬のストラップをチラリと見ながら、美澄は彼の後ろを通り過ぎた。お迎えでも待っているのだろう。
しかし、五分を過ぎ、バスが二台出発したあとも、誰も少年を迎えにくる様子はない。スマートフォンの時刻表示を見ると、美澄の乗るバスの出発時刻まであと五分だった。
「どうかした?」
戻って話し掛けると、少年は驚いてふり返り身体をこわばらせた。気温はまだ高いとはいえ、十月には季節感のない半袖とハーフパンツ姿だ。
帽子の下から探るように、少年は美澄を見上げる。
「お迎え待ってるの? バスターミナルは向こうだけど」
少年は小さく首を横に振る。むき出しの腕で雨粒がキラリと光った。
「傘が、」
「傘?」
「壊れて……」
少年は左手で握っていた紺色の傘を出した。手を離すと、骨がバラッと広がる。
「あらら」
骨は二本ほど折れていて、とても使えそうにない。また、雨がやむ気配もない。
「これは、買った方がいいかもね。一緒に買いに行こうか」
そう提案して、すぐに広がろうとする傘を絞るように押さえつけ、無理矢理留め具をする。しかし少年ははっきりと拒否した。
「大丈夫です」
「お迎えが来るの?」
「来ません」
今度は力なく首を横に振って、美澄の手から壊れた傘を受け取った。
「歩いて帰れるなら、送って行ってもいいけど」
先刻少年がしていたように、美澄も庇から空を見上げた。地球の水分バランスが崩れるのではないかと心配になるくらい、雨の勢いは衰えない。古いアスファルトはあちこちがみずたまりで、落ちた雨粒が波紋を広げる隙間もないほど水面は波立っていた。
美澄の視線が空に向いた隙に、隣でバシャンと音がした。少年が雨の中に駆け出して行く。
「いや、待って、待って!」
美澄も傘を広げて雨音の中へ走り出す。すでに濡れていたパンツはさらに重みを増し、コットンスニーカーにも冷たさが染みてきた。信号で立ち止まった少年の頭上に傘を差し掛けると、諦めたように身体の力を抜いた。
「ごめん。しつこくして。でも、こっちも乗り掛かった船っていうか……あ、『乗り掛かった船』ってわかる?」
「わかりません」
「中途半端なまま放り出しちゃうと、私の居心地が悪いの。お金出すから傘買うか、家まで送らせるか選んで。悪いけど」
少年は左腕に巻いたデジタルの腕時計を覗き込んだ。
「これから将棋倶楽部で」
「将棋倶楽部? どこ?」
ためらいがちに指差したのは、ひっそりとした通りだった。保険会社のビルとスポーツクラブと月極駐車場とマンション。その保険会社の手前の通りを、美澄が乗るはずだったバスが曲がって行った。
少年のスニーカーに合わせて、ひとつの傘の下を歩く。
「将棋やるんだ」
「うん」
「私も好きだよ、将棋。将棋スペース81で初段」
有名な対局サイトの名前を出すと、少年はキラリと光る目を美澄に向けた。
「おれは2級」
「小学生で2級ってすごくない!?」
「おれレベルなんていっぱいいるよ。もう五年だし、全然上がれないし」
不満を口にする少年に、美澄も強く同意する。
「私も。初段から二段の昇段ってさ、連勝規定厳しいよ」
「三連勝くらいまではできるんだけど、その後になるとAIにぶつかる確率上がるからね」
「そうそう!」
目指す将棋倶楽部は二ブロックほど先で、小さな横断歩道を渡った先にあった。
『あさひ将棋倶楽部』
この春駅前の雑居ビルから移転してきたばかりで、その前は学習塾があった場所だ。さらにその前はコンビニで、建物は今もその名残がありありと見える。大きなガラス窓の向こうでは、年齢層も幅広い人たちが、椅子に座って将棋を指していた。
「ありがとうございました」
少年は礼儀正しく頭を下げる。傘立てに突っ込む折れた傘を見ながら、美澄は尋ねた。
「帰りは大丈夫?」
「六時になったら、お母さんが迎えにくるから」
「そっか。頑張ってね」
見送るつもりが、少年の頭から雫が落ちるのが見えて、入口のガラス扉を抜けた。中はやはりコンビニの名残があり、入ってすぐ右手にカウンター、左手奥にトイレがある。広いフロアにはたくさんの机と椅子が並べられ、そのすべてに将棋盤と駒、チェスクロック(持ち時間を計るための時計)が置かれてあった。正面奥には長テーブルがコの字に組まれたスペースがあり、その中央には大盤(解説用の大きな将棋盤)が設置されたホワイトボートがある。
コンビニだったときには、おそらくコーヒーマシーンが置かれていたであろう場所が受付だった。少年はそこにいる二十代半ばくらいの男性に挨拶して、マジックテープの財布から会員証を出す。美澄はそんな彼の頭を、タオルハンカチでゴシゴシと拭いた。
「ありがとうございます」
少年の視線をたどって、受付の男性が美澄を見た。
「ご利用ですか?」
返事に窮していると、少年が楽しそうに答える。
「スペース81で初段だって」
男性は一度眼鏡の位置を直してから、新しい用紙とボールペンをカウンターに乗せた。
「太枠の中にご記入お願いします」
「あの、ここは将棋の教室ですか?」
「対局だけすることも可能です」
カウンターの端に並んだ書類から男性が抜き出したのは、倶楽部の案内だった。
火・水・金 12:00~20:00
土・日・祝 10:00~18:00
月・木 休館
席料 一日七百円
月間フリー会員 五千円
指導対局は土・日・水(チケット制)
「じゃあ、一日利用でお願いします」
時計を確認し、バスの時刻表を頭に浮かべながら美澄は答えた。必要事項を記入した紙と一緒に、千二百円をカウンターに置く。小型の手持ち金庫を開けた男性は、そこから五百円玉を取り出した。それを人差し指と中指で挟んでピシリと置いてから、すっと前に滑らせる。優雅とも攻撃的とも思えるその手つきは無意識のものらしい。美澄は首をかしげながら財布に五百円玉を落とした。
「では、まず棋力を認定しますので、あちらへどうぞ」
男性はカウンターの並びにあるソファー席を手で示した。
「初段です」
美澄は告げたが、男性は一瞥もくれず、手持ち金庫の鍵をかけながら言った。
「サイトや他道場での棋力も参考にしますが、それとは別に当倶楽部でも認定します」
ソファーは古い革張りで、ローテーブルを囲む形で三人掛けがふたつと一人掛けがひとつ、コの字に並んでいる。角の部分が破れたらしく、黒いガムテープで補修してあった。背もたれに背中をつけるとソファーの中まで沈みそうだったので、浅く前のめりに腰かけた。
エアコンから吹いてくる冷風が、耳の下で切り揃えられた美澄の髪を乱す。剥き出しのうなじから震えが背中を走った。
「あの、冷房でなくて暖房にできませんか?」
美澄は立ち去ろうとしていた男性を呼び止めて頼んだ。ところが、
「今日の予報では、最高気温が二十五度まで上がるそうなので」
と、取り合ってくれなかった。まさか反論されるとは思わず、美澄もムッとして言い返す。
「予報はあくまで予報ですよね。濡れると寒いから、子どもなんて風邪ひいてしまいますよ。せめて冷房は止めてほしいです」
エアコンを見上げ、続いて少年を見た彼は、そうでしたか、と言って去って行った。まもなく吹きつけていた冷たい風がやわらいだので、美澄は濡れたカーディガンを脱いだ。
「お待たせしました。席主の
先ほどの男性に代わって、六十代と思われる男性が現れた。髪の毛はふさふさしているけれど、その色は画用紙に鉛筆をやさしく走らせたようなパサッとした灰色だ。
「えーっと、
「はい」
「学生さん?」
「大学三年です」
「スペース81で初段だそうですね」
「はい」
「棋歴は長いんですか?」
「小学生のとき二年くらい。それからずっとやってなかったんですけど、去年たまたま興味を持って再開したばかりです」
大学の同級生と付き合ったら、その彼が将棋部だった。恋の方はあっけなく終わったけれど、将棋は恋愛以上に熱中して続いている。
「ほう、それはそれは」
平川は茶色い縁のメガネの奥で目を細め、盤の上にザラッと駒を広げる。それは宝石商がこっそりと革袋から取り出した希少鉱物のようにも、こっくりと甘いべっこう飴のようにも思えた。美澄はその艶やかな一片に手を伸ばす。
「おや、ちょっと待ってくださいね。失礼ですが、駒の並べ方はご存じですか?」
「並べ方……って決まりがあるんですか?」
平川は一瞬考えて、おだやかに尋ねた。
「もしかして、対面で指されるのは初めて?」
「いえ、小学生のとき何回か。あとは去年一度だけ」
そういえばその元彼に、並べ方も知らないのか、とバカにされたような記憶がある。不快感とともにその記憶ごとしまい込んでいた。
「ああ、なるほど」
平川は王将を取って自分の前に並べる。ピアノを弾くときのような、ふわりとした不思議な手つきだった。やはり駒を人差し指と薬指で持ち上げ、人差し指と中指に挟むように持ち替えてからピシリと置く。受付の男性の五百円玉の扱い方は、将棋を指す人の手つきだったらしい。
「上位者である
揃えた指先が玉将に伸びる。
「下位の
美澄は言われるままに玉将を取った。一度取り落とし、ごく普通に親指と人差し指で摘まんで並べる。あの男性や平川の手つきを見たあとだと、自分の手がひどく不恰好なものに思えた。
「次に金将を左から。次に右。銀将も左から。次に右」
平川の指示に従って、美澄は駒を並べていった。カチリ、カチリ、と木のぶつかる心地よい音がする。サイトで指す時のスパンという音も気持ちいいけれど、生身の駒は平川には平川の音、美澄には美澄の音がそれぞれある。
ズラリと並んだ駒は壮観で、よく磨かれた駒に蛍光灯の明かりが反射していた。
「駒落ちの経験は?」
駒落ちとは、棋力に差がある場合にバランスを取るためのハンデのことだ。上位者が自陣の駒の数を減らして戦う。美澄も耳にしたことはあるけれと、基本的に同程度の棋力の人としか指してこなかったため、経験はしていない。
「ありません」
平川は飛車、角行、左の香車、右の香車、と駒を袋に戻す。
「四枚落ちでやってみましょうか」
「はい」
「では、よろしくお願いします」
平川が頭を下げて待っているので、遅れて美澄も頭を下げた。
「よろしくお願いします」
駒落ちは上手が先に指す。美澄はわからないながら、香車のいない九筋から攻めの形を作っていった。
「古関さんは
「はい。
「ああ、なるほどね」
振り飛車とは、飛車を初形より左側に移動して戦う戦法のことで、美澄はその中でも特に飛車を中央に置いて戦う中飛車を得意としていた。また
四枚落ちには居飛車の形で攻めていく定跡があるが、美澄はそれを知らないし、知っていても慣れない戦法は指しにくかっただろう。無駄や悪手も多いなりに、なんとか寄せ(相手玉を追い詰める)切った。
「負けました」
平川が投了すると、美澄もぼそぼそ、ありがとうございました、と応じる。
「定跡は知らなくても、十分指せるようですね」
「ありがとうございます」
将棋で褒められたことのない美澄は、かつてない満足感で頬が緩んだ。素直ににこにこ笑う美澄に、平川も笑顔になって駒を中央に集めた。
「お時間が大丈夫なら、次は二枚落ちでやってみましょうか」
「お願いします」
袋から香車を二枚追加する。ふたりが駒を並べる後ろでは、先ほどの少年が対局していた。少年を含む五人がコの字型に置かれたテーブルにそれぞれ盤を並べ、その中心に受付の男性がいる。男性は一手指しては隣の盤へと移動しながら、同時に五人を相手に指していた。
「あの、あれは何してるんですか?」
「指導対局です。土曜日と日曜日、そらから水曜日の午後に、希望者を対象に行っています」
指導対局は、対局をしながら具体的な指導をしていくものだ。プロの指導対局では五面指し、十面指しは当たり前で、指導者は当然すべての盤の状況を把握できるだけの棋力が必要となる。
「大人もですか?」
「年齢は関係ありません。将棋とはそういうものでしょう」
涼しい顔で指導する男性は、ほとんど時間を使わずに指している。時々盤面を指差して何か言っているけれど、美澄のところまでは聞こえなかった。
美澄はというと、二局目はなかなか思うように指せず、気づいたら敗勢になっていた。
「……負けました」
クリックするのではなく、頭を下げ、自分の口で負けを認めることは、想像していた以上に悔しかった。美澄はうめきながら首を折る。
「なんで……」
平川は駒を序盤の局面まで戻しながら、やさしげな笑い声を立てた。
「飛車と角がないから攻めたくなる気持ちはわかりますが、王様はちゃんと囲った方がいいですね」
「はい」
「二枚落ちには、
「銀多伝? 初めて聞きました」
平川はカウンターの後ろに並んだ棋書の中から、一冊抜き出して美澄に渡す。
「定跡さえ覚えれば、こんなのなんてことない」
美澄は棋書をパラパラめくって顔をしかめる。
「わー、難しそう。お借りしてもいいんですか?」
「どうぞ。古関さんは、とりあえず1級ですね」
「1級ですか? 初段じゃなくて?」
棋書から顔を上げて、美澄は声を荒げた。
「二枚落ちで私に勝てたら初段と認定しましょう。なに、すぐですよ」
美澄はソファーにもたれて天井を仰ぐ。立て続けに二局指して初段ももらえず、頭の芯が痺れるような疲労を感じていた。
「1級かぁ」
「大丈夫、大丈夫。古関さんはセンスあるから、すぐ女流棋士にもなれますよ」
平川の言葉に、美澄は飛び起きた。
「女流棋士、ですか?」
自分が指すばかりで棋士には興味を持ったことがない。そのイメージは、「そういえば男性棋士が着物で対局しているのを、テレビで見たことある気がする」という程度。それは吐息ひとつで吹き飛びそうなほど曖昧なものだった。
自分にもあんな風に、将棋を指して生きていく道があるのだろうか。
「平川先生、だめですよ」
指導対局中のはずの若い講師が、通り過ぎ様に釘を刺す。季節感のないサックスブルーの半袖シャツが、美澄の視界を横切った。
「安易にそんなこと言って、この人が真に受けたらどうするんですか」
彼はカウンターの中に入ると、チラシを一枚取って戻って行った。美澄には一瞥もくれず、使い終わったティッシュをゴミ箱に放り投げるような、ぞんざいな言い方だった。平川は気にした風でもなく、
「真に受けたらいい。真に受けて、どんどん精進してくださいね」
「はい!」
ほかりとぬくもる胸に、美澄は古い棋書を抱き締めた。
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