△24手 虹
さっきまで青空があった場所は、ぶ厚い雲に覆われていた。秋の天気は変わりやすい。ふらふらと移ろいながら、雨のたびに世界の温度を下げていく。
頬に冷たさを感じて古くなったビニール傘を広げると、少し剥げた花模様に雨粒が重なった。
美澄
『先生、私は女流棋士になれますか』
同じ文面を打っては消し、消しては打ってをくり返していた。
自分のメンタルひとつ保てない。弱い。私は弱い。
すがりつくような文面は送信できずに結局消した。
美澄
『今日は雨ですね。』
15:35
ビニール傘越しの空を撮って、メッセージの後に送った。しかし、「送信」をタップした次の瞬間『何でもないです』と打つ。送るべきか消すべきか、またしても悩んでいるうちに、手の中で端末が震えた。
「もしもし」
『お疲れ様です。久賀です』
美澄は道路の端に寄り、受話口を耳に押しつけた。
「お疲れ様です。先生、どうかしましたか?」
『奥沼一門が主催する大会について、日藤先生から何か聞いてませんか?』
美澄はぐるっと脳内を探ったが、そのような記憶は見つからなかった。
「いえ、何も。大会があるという話も聞いていません」
『そうですか』
「はい」
用事が済めばすぐに切り上げそうなものなのに、久賀はなかなか切らない。沈黙の中に逡巡を読み取って、美澄の方から声をかけた。
「……先生、他に何か?」
電話の向こう側はしんとしていて、美澄は通話が切れたのかと一度画面を確認した。
「……もしもし? 先生? もしもし?」
『すみません。大会のことは嘘です。いろいろ考えたのですが、他に言い訳が思いつかなくて』
もっともらしい話をしたあとで、すぐに嘘だと馬鹿正直に言ってしまう。ああこれが先生だなぁ、と美澄は微苦笑を浮かべる。
「先生、もしかして、心配してくれました?」
何も聞こえないのは電波障害ではなく、どうやら久賀が言葉に詰まっているらしいとわかると、無音にもやさしい色が灯る。
「ありがとうございます。でも今話したら、私、泣き言しか出てこないので。だからすみません。切りますね」
「通話終了」をタップしようとすると、ちょっと待って! と声が聞こえた。
「はい?」
『あなたらしくない』
不貞腐れたように久賀は言った。
「はい?」
『いい子ぶってるのは、あなたらしくありません』
「え……私、いい子ぶってます?」
電話の向こうでは久賀が場所を移動しているのか、ドアが開け閉めされる音が聞こえた。
『あなたは何かあったら、いえ、何もなくても『わからない』とか『もうやだ』とか、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ生産性のないことばかり言うくせに、』
「ぐちゃぐちゃ……生産性……」
『それでこちらが何か建設的な提案を考えているうちに、勝手に復活して、もう話が変わってる』
「私って、そんなですか?」
『そうです。感情的でめちゃくちゃで子どもっぽいひとです。まるごとひとりで抱え込んで平気なふりができるような、まともなひとじゃないでしょう』
あまりの言われ様に反論しようと口を開いても、力が抜けるように言葉が出ない。
みずたまりを立て続けに車が走り抜け、美澄のロングカーディガンにも滴が飛び散った。電話の声が聞き取りづらく、スマートフォンを強く押し当てる。
『何があったんですか?』
耳を澄ませていたので、その言葉の一音一音にこもった体温まで感じられた。行き場を示された泣き言は、堰を切ってあふれ出す。
「何もありません。ただ、不安です」
何かあったら涙にして流してしまえるのに、何もないから身体の中で渦巻く“何か”は排出されることなく、ずっと内側を食い荒らす。
うん、と耳のすぐそばで声がする。
「毎日詰将棋を解いても、棋譜を並べても、何か変化してる実感はないし、前例調べて検討するだけでも膨大で、その全部なんて覚えられないし、このままだと符号に溺れて窒息するような気がします。時間はいくらあっても足りないのに上手く使えてなくて、そんなことしてる間に毎日新しい手が生まれては定跡が増えていく。どんなに足を動かしても、前に、進めていない気がします」
うん、という声がやさしくて、美澄は隠しておきたい内側をすべてさらしてしまった。
「今の努力は正しいのか、努力の方向性は正しいのか、ちゃんと前に進んでいるのか、ずっと不安です。その答えはないんだってこともわかってるんです。『努力』って、不安との戦いだってこともわかってるんです」
『そうですね』
「棋士は『どうしたら強くなれるか』を模索して示していかなきゃいけない、って先生も言ってましたよね」
『はい』
「でもわかんない! どんな努力をどれだけしたら女流棋士になれるのか教えてください! 無駄にならない努力の仕方を教えてください!」
竜の首にある珠を寄越せというような、無理難題だった。その答えを知っていたら、久賀だって棋士になれただろう。正解はない。だからみんな苦しい。全部わかっていても止められず、泣き言は最後の一滴まで流れ出た。
「不安で不安で仕方ないんです」
雨はふたたびやんでいた。ビニール傘を通して差し込む陽光が鬱陶しくて目をそらす。降ったり晴れたり、しましま模様の天気は、気持ちまでふらふらと安定させない。
『わかります』
実感のこもった声で久賀は言った。
『よくわかります』
他の人が言ったならば絶対に反発したであろう言葉なのに、からっぽの美澄の中に雨の匂いと一緒に入り込んだ。これは、久賀も通った道であると知っているから。同じ道をたどる美澄をずっと見てきたひとだから。
『不安でいいんです。不安は原動力ですから。でも、今のあなたにそれを言ってもだめですよね』
何台車が通っても、すぐそばを通った人の傘がぶつかっても、美澄は久賀の声だけを聞いていた。
『だから、今だけ僕が保障します。あなたの努力は正しい。ちゃんと前に進んでいます』
声が出せず、伝わらないとわかっていても何度もうなずいた。それが嘘でも、その嘘を大事に抱えるように、傘を持つ手を胸に引き寄せた。
『ただ、これは僕個人の意見ですから、鵜呑みにせず努力を続けてください』
吹き出したら、止まっていたはずの涙が落ちた。その涙は雨と混ざってアスファルトに消える。
「そちらも雨ですか?」
傘を閉じながら美澄は尋ねた。
『そうですね。結構降ってます』
「そうですか」
空は、雨など忘れたみたいにあっけらかんと晴れている。陽光が濡れた路面で乱反射して、美澄は目を細めた。
「先生」
『はい』
「ありがとうございました」
道々嫌な予感がして、日藤家に着くなりトイレに駆け込んだ。着替えたり下着を洗ったり慌ただしくしていたので、久賀からのメッセージに気づいたのは就寝前。情けなく落ち込んだ原因がPMSだと話すわけにもいかず、顔をほんのり赤らめながらメッセージを開く。
久賀夏紀
『吉祥は呼べないかもしれませんが。』
16:20
添えられていたのは写真一枚。駐車場の一角を映したものだった。車止めの内側に小さなみずたまりができていて、漏れ出たオイルが流れ込んでいる。
暗いアスファルトに、きらきらと七色の虹が広がっていた。
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