▲25手 僕はあなたに生まれたい

 呼び鈴が鳴ったので美澄が玄関ドアを開けると、隣家に植えられている桂の葉が舞い込んだ。日藤家との境にあり、毎年大量に落ち葉が飛んでくると、今朝も真美がこぼしていたものだ。今、その丸くて黄色い葉とともに立っていたのは久賀だった。


「先生!」


 今日も青いチェック柄のシャツに黒いパンツ姿の久賀は、美澄を見るなり口元を押さえて笑い出す。


「先生?」

「すみません」


 謝罪はしても、久賀は笑いを収められずにいる。さすがに美澄も口を尖らせた。


「会うなり失礼ですね」

「すみません。……もしかしてオムライス?」


 黄色いカットソーに赤い千鳥格子のパンツを合わせていた美澄は、自身を見下ろしてうなずいた。


「正解です。けど、先生笑い過ぎです」

「本当にすみません。でも、なんか安心しました。……これで安心するとか、僕もどうかしてるな」


 先日電話で情けない内面を吐露したため、心配したようだ。その節は、とモジモジ切り出す美澄に、久賀はやさしい笑顔を見せる。


「元気そうでよかった」

「お久しぶりです。今日、倶楽部は……お休みの日でしたね」

「今日は出版社に用事があって、そのついでに」


 久賀が作った初心者向けの教材が出版されることになり、それに向けて準備していることは美澄も聞いていた。棋書はプロ棋士だけでなく、奨励会員やアマチュアが執筆することも珍しくない。


「何度も東京に呼ばれるなんて大変ですね」

「いえ」


 たいしたことではない、と久賀は小さくかぶりを振る。


「今日はみなさん出払ってますけど、よかったらどうぞ」


 美澄はドアを大きく開けて招き入れようとするが、久賀は一歩下がってそれを拒んだ。


「いえ、もう帰ります」

「……そうなんですか?」


 帰ります、と言ったのに、久賀は何かためらって動かない。美澄も先日以来の照れがあって、どう声をかけたものかわからずにいた。すると、意を決したように久賀が顔を上げる。


「新幹線の時間まで間があるので、もしよかったら、少し駅前で時間を潰すのに付き合ってもらえたら、と」


 語尾は空気に溶けるように小さく消えた。かつてない久賀からの誘いに驚きつつも、美澄は急いで返事をする。


「新幹線ホームまでお見送りしますよ」

「いえ、そこまでは。あなたの時間は貴重ですから」

「じゃあ、準備します! ちょっと……ちょっとだけ待っててくださいね!」


 美澄はくるりと踵を返して、二階へ続く階段をまろぶように駆けていく。開けたままのドアから赤と黄色の背中を見送って、久賀はもう一度笑った。


「お待たせしました!」


 戻ってきた美澄がシックな紺色のワンピースに着替えていたので、久賀は目を見張った。


「どうしたんですか?」

「さすがにもう学生じゃないので、TPOを身につけました」


 久賀は、へぇ、と気の抜けた声を出す。


「これ綾音さんのお下がりです」

「綾音は服装だけはまともでしたね」


 とてもいい方です、とたしなめて、美澄はバッグを担ぎ直した。


「それで、どこ行きましょうか。近いところだと商店街ですか?」


 都心から離れたこの辺りは駅も小さく簡素で、ドラッグストアくらいしか入っていない。そこで久賀と美澄は線路沿いに並ぶ商店街へ向かった。団子屋の脇ではピラカンサが、枝をしならせるほどみっしりと赤い実をつけている。


「東京に住んで一年半ですか。もうずいぶん慣れたでしょう」

「それが……思ってたよりずっと閑静なので、全然東京に住んでる実感がないです」


 ふふっと久賀は笑った。

 初めて新宿に行ったときは「毎日が祭りなの!?」と思ったものだが、それも東京のごく一部の姿であるらしい。日々の営みは、どこにいても変わらない姿でそこにある。


「先生はやっぱり東京が『故郷』って感じですか?」

「いえ、僕の父は転勤が多くて、中学生までに五回引っ越しました。そのせいか、「地元」とか「故郷」という感覚がありません」


 へえ、と美澄は久賀を見上げる。その横顔は「故郷」という言葉にさえ頓着していないようだった。


「でも、将棋を覚えたのはあさひ将棋倶楽部なので、あそこが原点という感じはします」


 美澄にとって大切な場所が、久賀にとっても特別な場所。その事実に、美澄は頬をゆるめてほくほくと歩いた。

 商店街のファストフード店は客席が二階にあり、ふたりは窓辺のカウンター席に並んで座った。立ち並ぶ商店や住宅の隙間から線路が見える。


「師匠にも声掛けますか?」


 馨に対局の予定がないことを確認して、美澄は久賀に尋ねた。


「わざわざ呼び出す必要はありません」

「『必要』じゃなくて、会いたいかどうかですよ」

「馨に会いたいと思ったことはありません」

「師匠もまったく同じこと言いそうです」


 くすくすと笑う美澄に、久賀は無言と無表情を返す。深い繋がりと信頼があっても、久賀が奨励会を退会した際に一度は切れた縁だった。それが今は美澄の存在によって繋げられている。


「でも、師匠と指してるんですよね?  オンラインで」


 馨だけでなく、久賀は最近、奨励会員やアマチュア強豪と対局を重ねているらしかった。


「……あまり勝てていませんが」

「師匠は無意味なことはしませんよ」


 ガラス越しに小さく電車の音が聞こえてきた。駅に向かってスピードを落としながら、電車が通過していく。


「先生と師匠は、こうしてお茶を飲んだりしなかったんですか?」

「記録係で遅くなった時は、よくコーヒーショップで一晩過ごしました」


 プロの対局の棋譜を取る記録係は、奨励会員や女流棋士が担当する。対局によっては日付が変わることもあるので、そういう時のことだろう。


「一晩! 何してるんですか? まさか将棋?」

「いえ、ずっとトランプしてました。お店にとっては迷惑この上ない話ですけど」


 棋士はトランプでもボードゲームでも、基本的にゲーム好きが多い。そしてギャンブル好きも多い。馨と久賀ならそれほど乱れたことにはなっていないと思うが、美澄は男子の青春に呆れた眼差しを向ける。


「先生も師匠も、ちゃんとばかな男の子だったんですね」


 楽しそうにココアのホイップクリームをすくう美澄を、久賀は痛みを含んだ目で見つめた。


「僕はばかな人間ですよ」


 パタンと扉が閉まる音が聞こえた気がして、美澄は久賀の顔を見た。いつもと同じ眼鏡が、今はまるで心を読ませまいとするシャッターのようだ。


「そんなことありません。絶対にありません」


 その堅牢なガラス扉を、美澄は叩き割ろうとする。


「あなたは何も知らないから」

「じゃあ教えてください」


 間髪入れずに詰め寄ると、久賀はわずかに怯んだようだった。


「すみません。僕のことなんてどうでもいいんです」

「先生!」


 幕引きしようとする久賀を、美澄は許さない。中途半端な時間ゆえに静かな客席。睫毛一本動かしがたい緊張が降りる中で、引いてはならない、と美澄も瞳に力を込める。眼鏡の奥で目を閉じた久賀は、ゆっくりと呼吸をした。


「最後の三段リーグのとき、倒れたって話しましたよね」

「はい」


 美澄も経験のあるあの極限状態は、後から冷静に考えると愚かなことだと自覚できる。しかし渦中にいる時は、ほんの少し息をつくことさえ罪のような気がして、寝ている間でさえ焦燥感に襲われるほどだった。


「最後の最後になるまで、僕は本気になれませんでした。将棋の勉強は毎日していましたけど、友達と遊んだり、ゲームをしたり、大学も普通に四年で卒業しました」

「それの何が悪いんですか?」

「悪いことではないのかもしれません。でも、僕はいつも言い訳してました。『勉強する時間がなかったから』『本気を出せば勝てるんだ』って。本気を出すのが怖かった。僕は本気で負けることさえできていなかったんです」


 全身全霊をかけて指した将棋で負けると、自分の存在価値が揺らぐ。そのダメージは少しずつ少しずつ核のようなものを削って、いつしかあの世とこの世のあわいに追い詰められる。何の気なしに、そのラインを越えてしまいそうな。心を守るために目をそらすことは、人間としては自然な防御だとも言える。


「本気を出すって難しいでしょ。『自分は本気で臨んだ』と自信を持って言えるには、並々ならぬ努力が必要です。そうそうできることじゃない」


 美澄の胸も生々しく痛む。本当に本気で取り組めているのか、これが全力なのか、誰も教えてくれない。


「三段の頃、僕にはお付き合いしている女性がいました」


 え! と飛び上がった美澄を、久賀は横目で睨む。


「何ですか」

「すみません。予想外過ぎる話だったので」

「誰だって多少の恋愛経験くらいあるでしょう」

「……まあ、そうですね」


 経験と呼べるほどの経験がない美澄は、少し見栄を張った。本当のところ、久賀が誰かを好きになるなど考えたくなかった。とろりとぬるくなったココアは、ココアパウダーの粉っぽさしか感じない。


「今はわかりませんが、あの頃彼女のいる奨励会員は少数派で、侮られる要因のひとつになっていました。いえ、勝っていれば何をしようが文句を言われない世界です。でも僕は勝てなかったので、浮わついているのだと思われていました」


 周りの評価が正しいとは限らないが、そういう中に身を置いていると、その影響は避けられない。


「彼女は大学の同級生で、将棋のことはまったくわからなかった。それでも知ろうと努力して、精一杯応援してくれていたのだと、今ならわかります。なかなか会えなくても、急な仕事や研究会で約束をキャンセルしても、笑顔で許してくれました。決して邪魔なんてしなかったのに、僕は『勝てないのは彼女のせいだ』と思うようになったんです」


 やわらかな西日が差して、うつむく久賀の前髪にかかる。秋の枯野のように明るいその髪の奥で、久賀の表情は沈痛だった。


「彼女とは別れました。それでも勝てなかった。当たり前ですよね。努力が足りないんだから」


 久賀が公式戦で残した棋譜は全部で十八局。奨励会員にも参加資格のある、新人限定の棋戦のみだが、それでも勝ち上がるのは難しい。ほとんどが敗戦譜だった。美澄はそのすべてを覚えている。久賀のような将棋が指せるようになりたくて。


「ずっと逃げてました。本当にギリギリ、あと数ヶ月で棋士への夢が絶たれるときまで。ようやく本気になったのはその時です。けれど本気の出し方を間違えて体調を崩して、最後の奨励会はボロボロでした。たくさんのひとに支えてもらって、ひとを傷つけてまで求めた僕の夢は、それで終わりです」


 つまらない話をした、というように久賀はひと口コーヒーを含む。カップをソーサーに戻す音は落ち着いていた。


「いつか、あなたに言われましたよね。『『頑張れ』って言葉にいちいち引っ掛かるのは、受け取る側のメンタルバランスが悪すぎる』って。その通りです。ちゃんと頑張れていないことを見透かされるようでいやだった」

「いえ、あの、そういうつもりじゃ……」


 声は届かない。ほんの、将棋盤ひとつ分の距離にいるのに。

 憧れて憧れて、それでも決して為り得ないと悟った相手は、棋士ですらない。それどころか、美澄の目の前で自分を否定しつづけていた。

 久賀は頬杖をついて窓の外を眺めている。その瞳は空虚で、光も通さぬ深淵が広がるばかり。久賀の内側では、消え得ぬ悔恨が今も時折寝返りを打つようだった。


「先生……」


 久賀は目の端に美澄を認めると、身体を起こして惰性のようにカップを口に運んだ。


「僕はあなたに『先生』なんて呼んで貰える資格はないんです。あなたはいつも全力で、傷も全力で受けて、ちゃんと夢と向き合っている」


 美澄に向けられた笑顔は日差しに縁取られ、泣きたいほどにやさしかった。


「僕の方こそ、あなたに生まれたかった」


 嘘もお世辞も言わない久賀の言葉は、ほんの数滴でココアの味を重くする。何もできないなら、せめて永遠に冷めないコーヒーになって、その身体を温めたいと美澄は思う。けれど、それを願うための流れ星さえ呼べないほど無力だった。

 喉を落ちない苦いココアは、罰のように内側を焼いた。


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