△26手 いちばん長い日
「私が見ているだけで、三杯目だと思うのですが」
久賀がパソコン画面から顔を上げると、平川は久賀の手元を指差していた。マグカップの中のコーヒーは、すでに半分ほどに減っている。
「そうでしたっけ」
「何かしてないと落ち着かないのはわかります。でも、さすがに胃に良くないと思いますよ」
すでにもたれている久賀の胃は、大量のコーヒーのせいで波打っていた。
「そうですよね」
言われてマグカップを置いたが、とたんに手が行き場を失くして焦燥感に駆られる。久賀のため息に、平川も苦笑を重ねる。
「本当に胃に良くないのは、コーヒーではありませんけどね」
今日は一日が長いですね、と平川は首や腕のストレッチをしながら去っていく。久賀も首を回してから時計を見たが、さっき見てから五分も経っていない。止まっているのかとパソコン画面でも確認したけれど、同じ時刻だった。
マグカップを持ち上げて、口をつける直前で気づき、手の届かない位置に遠ざけた。ため息とも深呼吸ともつかない息をひとつついて、パソコン画面と向き合うものの、五度も同じ文章を読んでいるのにまったく頭に入らない。
美澄と何百局も指した机では、一級の六十代男性と、二級の男子中学生が指している。駒音とチェスクロックの音があちこちから聞こえていた。
『先生、もう一回』
近頃はめっきり寒くなり、踏切に行く時もマフラーが欠かせない。倶楽部でもゆるく暖房を入れている。しかし大きな窓から見える空は雲ひとつない快晴だ。
その空に向かい、頑張れ、頑張れ、と心の中でくり返す。もっと言えばよかった。見守るばかりの人間に、他にできることはないのだから。
待ち焦がれた電話が鳴ったとき、久賀は大人の初心者向けに指導対局をしている最中だった。常田や仁木と雑談していた平川が、サンダルをパタパタいわせて電話を取る。
「はいはいはいはい。……もしもし、あさひ将棋倶楽部です」
平川が電話を取ったことを確認し、久賀はまた盤面に視線を戻したものの、意識は電話に向けられたままだった。ずれていない眼鏡を何度も直す。
「━━ああ、はい。それはおめでとうございます。━━古関さん、ちょっと落ち着いて」
平川の呼んだ名前に、久賀ははっきりと思考を止められた。
「久賀先生は今指導対局中で━━ええ。━━ええ。━━わかりましたから。またあとで、久賀先生から連絡するように言っておきます」
平川は苦笑いでなだめているが、電話の向こうの美澄は落ち着かないようだった。やがて平川から、久賀先生、と声がかかる。
「古関さんがうるさいので、電話に出てもらってもいいですか?」
「いや、でも、」
「指導は五分休みましょう。だから五分で落ち着けてくださいね」
生徒たちの了承を得て、久賀は受話器をとった。
「……もしもし?」
先生ー! という絶叫に近い声がした。驚いて少し耳を離す。
『先生ー! お仕事中だってわかってるんですけど、どーーーしても我慢できなくて。だからこっちに掛けました』
「五分だけ時間をもらいましたので、手短にお願いします」
『パソコンに棋譜送ったので見てください! 早く! 今すぐ!』
こちらの話などまったく聞く様子がないので、久賀はパソコンでメールを開いて棋譜を確認した。
『先生? 見ました? 先生?』
並んだ数字を追うごとに、久賀の口角は上がっていく。会心譜を握りしめる美澄の姿が、目に浮かぶようだった。
『もしもし? 先生?』
美澄の声が不安そうに小さくなった。しかし久賀は、常田や仁木が驚いて顔を見合わせるほど満面の笑みを浮かべていた。
「及第点です」
『やぁったぁー!!』
「それで?」
もはや結果など聞かなくてもわかるのだが、久賀は笑顔のまま美澄の言葉を待った。
『B2に上がることができました。これで女流二級になれます』
ゆっくりと噛み締めるように美澄は言った。
「おめでとうございます」
『先生のおかげです。先生がいなかったら、私絶対に絶対にここまで来られませんでした』
鼻をすする音が何度も聞こえる。
「いいえ。あなたが頑張ったんです。僕はそのことを知ってる」
あれほど騒がしかった向こう側が、しん、と静まりかえった。これまでにも電話越しに涙の気配を感じたことはあるが、かつてない心地よさで耳を澄ませていた。
『先生』
「はい」
『先生は不本意だったかもしれませんけど、私は先生があさひ将棋倶楽部に来てくださって、本当によかったと思ってます』
「生活のためですよ」
『それでも、です』
五分を過ぎた。美澄が落ち着いたとは言えないけれど、もう戻らなければならない。
「日藤先生には連絡しましたか?」
『あ、まだ、これからです』
「何してるんですか。師匠が先でしょう。義理を欠いてます」
『すみません。師匠には一番最初に連絡したことにするので、この電話は内緒にしてください』
くり返し、ありがとうございました、と言って電話は切れた。
「古関さん、よかったですね」
平川も安堵のため息をついて、メール画面を覗き込んだ。
「はい」
「ここ一番で会心譜とは。さすがの強心臓ですね」
「あのひとは、だいたいいつもそうですから」
「おや、意外と冷静ですね」
「所詮は他人事です」
待たせたことを謝罪して、久賀は指導に戻った。ずっと緊張していたせいでぼうっとする。頭を振って気持ちを切り替え、目の前の盤に一手、歩を打った。
「あの、久賀先生」
次の盤に移動したところで生徒から声がかかった。戻ってみると、今打ったばかりの歩を指差す。
「
その指は、ふたつの歩を交互に行き来した。
「え? あ、ああ! すみません!!」
久賀は慌てて、指したばかりの歩を取ったが、そのまま動きを止める。
「どうしましょう? 下手(生徒)勝ちでも構いませんが、やり直しますか?」
「このままだと練習にならないので、やり直してもらっていいですか?」
「本当にすみません! ありがとうございます」
久賀は天井を仰ぎ見て、ゆっくり頭を左右に振る。脳が働いていないことは、疑いようがなかった。
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