最終局 みずたまりに映るもの

▲27手 帰りたい場所

 ぐつぐつと煮立つ鍋には、どんよりとした灰汁あくが浮かんでいる。美澄はただ黙って、その灰汁が増えていく様子を見ていた。


「いい匂ーい。鶏ガラ?」


 二階から降りてきた綾音の声に、美澄は顔を上げた。


「はい。昨日実家から里芋送られてきて」

「今日は里芋汁か」

「師匠がお好きなので」


 今日、馨は指導対局のために教室を訪れていた。日曜日なので真美も辰夫も教室で、家には美澄と綾音しかいない。


「灰汁、すくわないの?」

「あ、そうでした」


 綾音に指摘され、美澄はレードルで雨雲のようなそれをすくい取った。


「悩み事?」


 言いながら綾音は部屋着の袖をまくって、シンクに転がしてあった里芋の皮を剥き始める。


「……いえ」

「そう」


 綾音はあっさりと引き取った。さりさりという包丁の音がふたつ響いている。


「これ、手が疲れるね」

「ですね。うー、滑る」

「ご両親が作った里芋?」

「祖父母です。新鮮なので、全部皮剥いて残りは冷凍しちゃおうと思って」

「でも結構量あるから、皮剥くの大変だよね。馨にやらせよう。あいつ器用だから。あ、帰ってきた」


 ドアの音がすると、綾音はさっと手を洗ってキッチンを出ていった。まもなくして馨が顔を出す。今日は黒縁の眼鏡をかけているが度は入っていない。


「師匠、お疲れさまです」

「お疲れさま。里芋汁?」

「はい」

「これ、皮剥けばいいの?」

「大丈夫です。師匠は休んでてください」

「気にしなくていいよ。姉ちゃん命令だから」


 馨は笑って、黒いニットの袖をまくった。皮を剥く手は器用で、里芋の白く艶やかな肌に包丁の線がうつくしい。


「お上手ですね」

「一応自炊してるからね」


 里芋は馨にまかせて、美澄はゴボウをささがきにしていく。


「師匠、二十四日対局ついてますけど、そのあとこちらにいらっしゃいます?」

「どうしようかな」

「綾音さんはデートだし、三人だとケーキ余るんです」


 注文したケーキの大きさを手で示して眉を下げると馨は、わかった、とうなずいた。


「じゃあ寄る。でも泊まらないで帰るよ」


 馨の自宅アパートは、日藤家から駅だと三つ離れている。直接往き来するともっと近く、馨は自転車かタクシーを使うことが多い。


「師匠、もっと将棋会館に近い方がいいんじゃないですか?」


 棋士は、千駄ヶ谷駅に乗り換えなしで行ける中央線か総武線の沿線に住むことが多いらしい。しかし馨は、実家と奥沼七段の将棋教室に行くことも考えて今のアパートを選んだ。


「将棋会館の近くは家賃高くて」

「そうでしたね」

「それでも毎日通うなら近い方がいいけど、せいぜい月に四、五回程度だからね」


 以前なら、直接将棋会館に行かないと棋譜の確認ができず、情報に遅れていた。しかし、それがインターネットで確認できるようになり、研究もパソコンを使うようになった今、どこに住んでも入手できる情報に差はない。そのため、対局に通えるならどこに住んでもいいのが現状だ。


「古関さんはどこに住みたいの?」


 促すわけでも、引き留めるわけでもない、やさしく事実確認するだけの問いだった。


「まだ決めてませんけど、そろそろ考えないと」


 女流棋士になると、一定期間は記録係などの仕事が課される。その間は日藤家のお世話になるけれど、以後はどこかで一人暮らしをするつもりだった。


「まだここにいても、うちの家族は構わないと思うよ?」

「はい。それはありがたいと思ってます」


 日藤家の人たちはみな、帰ることも残ることも答えを保留することも、どんな選択も可能にしてくれる。だからこそ、そこに甘え過ぎてはいけないと美澄は身を引きしめる。


「帰るの?」

「どうでしょう。実家はあまり帰りたくないし、将棋関係の知り合いもいないし」

「あ、そっか。夏紀くんのいるところは『地元』じゃないんだっけ」

「はい」


 ゴボウを入れたボウルの水はほんのり茶色く色づいている。


「じゃあ聞き方変える。夏紀くんのところに帰りたい?」


 話しながらであっても、馨の皮を剥く速度は速い。土にまみれた皮がリズミカルにシンクに落ちる。


「帰ればいいじゃない。夏紀くんのところ」

「……理由がないです」


 地元でもない。ただ一時お世話になっただけの場所。そこははたして「帰っていい」場所なのだろうか。

 どこに住んでもいいはずなのに、あの場所だけは美澄の一存では決められない。


「それって、理由がつけられれば帰りたいってことでしょ」


 返事はせず、レードルに持ち替えて灰汁をボウルに取る。モヤモヤモヤモヤ。すくってもすくってもどこから湧くのかなくならない。

 里芋は全部つるりと剥かれ、馨は手を洗ってシンクに寄りかかる。


「自覚はあるよね?」


 鶏ガラを濾そうとしたら、俺やるよ、と馨が代わってくれた。立ち上る湯気に馨の眼鏡が白く曇る。


千日手せんにちて(同じ局面が何度も現れて進まない状態。引き分け)だねぇ」


 眼鏡を外し、ポケットからハンカチを出してごしごしと拭く。


「古関さんは『帰る理由がない』って言うし、夏紀くんは古関さんの決断には絶対関わらないだろうし、どっちも手待ちで動かない」


 どこだっけ? 保存しておいたんだけど、と馨はスマートフォンをスクロールし続ける。美澄は里芋の半分を沸騰した湯に入れ、残りはフリーザーバッグに入れて冷凍庫にしまう。


「あ、あった」


 はい、と手渡されたスマートフォンの画面には、久賀から馨へのメールが表示されていた。


「読んでもいいんですか?」

「いいんじゃない? 『読ませるな』って言われてないから。でも内緒ね」


 里芋の茹で具合を確認する馨の隣で、美澄はその文面を追う。


『From: 久賀夏紀

To: 日藤馨

件名 (なし)


先日お話した弟子入りを希望されている生徒さんです。

名前は古関美澄(こせき・みすみ)さん。

年齢は二十一歳か二十二歳だと思います。すみません。正確に聞いたことがありません。

古関さんは本格的に将棋を始めたのが二年前で、圧倒的に経験が不足しています。ネット将棋がほとんどだったので、特に対面で指すと思考にブレが生じ易いという欠点があります。できれば研究会など紹介していただき、直接人間と指す機会を多く取らせてあげてください。

棋風に関しては添付した棋譜を見ていただければわかると思いますが、振り飛車党です。

好きな戦型ばかり勉強するので、居飛車に関する理解が足りません。

中飛車を好んで指されてきましたが、この一年半、三間飛車と四間飛車も勉強してきました。

やや攻め将棋ですが、とにかく切り替えが下手で、バランスを取ることが苦手です。一度攻めたら引くべきタイミングでも無理に攻め、守りに転じたら攻めのチャンスが来ても思い切れなくなります。

形勢がいい時はあまり変わりませんが、悪くなるとわかりやすく暗い顔をします。

感情がとにかく顔に出ます。

注意するとむくれ、褒めると浮かれます。

難しい局面で考えがまとまらないと、「わからない」と暴れます。

本人は気づいていませんが、対局中に思考を口に出す時があるので、見つけたら注意してください。

対局中は一人言が多いです。

普段もたくさんしゃべります。

内容はどうでもいいことがほとんどです。

他人の話をすぐ鵜呑みにして流されます。

自分が他人とずれていることに気づいていません。

ものすごくおかしな格好をしているので、あなたとは気が合うかもしれません。

存外真面目で、言われたことはすべてこなそうとするので、時々パンクします。

その時は力づくでも休ませてください。

棋歴は浅いけれど、将棋に対する熱意は確かなようです。

いつも楽しそうに将棋の話をします。

芯の強いひとです。

彼女が女流棋士になれるよう、お力を貸してください。

よろしくお願いします。


久賀夏紀』


「悪口ばっかり」

「愛情でしょ。かなり重めの」


 スマートフォンを馨に返し、美澄は糸こんにゃくを切る。


「夏紀くんがあんなに頻繁にこっち来てたの、本当に仕事だと思ってた?」

「違うんですか?」

「ほとんどはメールや電話で済む話でしょ」


 馨が里芋に竹串を刺すと、すっ、と刺さって持ち上がった。


「どの道、女流棋士になったんだから『先生』からは卒業」

「卒業……ですか?」

「だって、君はプロなんだよ? 俺だって棋譜の添削はもうしないよ」


 それでも馨との縁は切れない。同じ世界に身を置く師匠だからだ。仕事で一緒になることもあるだろうし、そうでなくても日藤家を訪ねることはあるだろう。でも久賀は「先生」であっても「師匠」ではない。その差がここになって大きくなっている。

 湯通しした里芋をザルにあけると、またしても馨の眼鏡が曇った。外して、今度はパンツのポケットに突っ込む。眼鏡を通さず、馨は真剣な眼差しを美澄に向けた。


「もうあと何年かここにいてもいいし、都内のどこかで一人暮らししてもいいと思う。部屋探しも手伝う。保証人が必要なら俺がなる。地元に帰るとか、まったく知らない土地に行くなら、そこで仕事ができるようにツテを探してみる。君の望みに添うように、俺にできることは何でもする」


 充満する蒸気とは別の理由で、美澄の頬が赤らむ。


「……ありがとうございます。そんな風に言われたの初めてで、なんだかドキドキします」


 美澄の反応を見て自分の言葉を咀嚼した馨も、恥ずかしそうに破顔した。


「なんかちょっとプロポーズっぽかったね。俺もこんなこと言ったの初めて」


 茹で上がった里芋を、馨は鶏ガラスープの中に投入した。


「俺にできる応援は何でもするけど、でも俺から夏紀くんには何も言わないよ。だってそれは、将棋とは別の話でしょ」


 馨は、こんにゃく入れるの? とザルを持ってうろうろする。


「待ってください。鶏肉忘れてました」


 馨がザルを持ったまま待っているので、急いで鶏肉をブツブツと切る。


「帰りたい? 夏紀くんのところ」


 さっきと同じ問いに美澄は手を止めた。すぐそばにある馨の瞳には、窓からの冬の光が差している。

 美澄が自分で選んだ師匠ではなかった。知り合ってからたった一年半。たった四つ上。けれど、友人とも親とも恋人とも違う感覚で、ひょろりと細い青年に信頼を寄せる。


「帰りたいです」


 馨はザルを置いて、美澄の手から包丁を取り上げた。


「今から行ってきたら? 新幹線、まだ間に合うでしょ?」


 美澄よりサクサクと切り終えて鍋に入れる。


「たまに将棋じゃない話しておいで。夏紀くんと」


 美澄は壁にかけられた時計を見て、そのまま冷蔵庫に視線を移す。マグネットで止められた月間予定表は角が少しめくれて、長い影を作っている。冬の夕暮れは、スピードを上げて進んでいた。



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