△28手 将棋じゃない話を

 東北は今年、例年より早く雪が積もった。東京からやってきた美澄は、ノーカラーコートに吹きつける雪を払う。

 クリスマスを控えたこの季節、わずかばかりのイルミネーションが駅周辺を彩っていた。電線は歪み、いまいちセンスも悪いけれど、人通りの減ったこの場所を少しは華やいだものに見せている。

 横断歩道で立ち止まると、あさひ将棋倶楽部のブラインドの向こうにはまだ明かりが見えた。濡れたような車道は凍っていて、はやる気持ちに反して迂闊に前には進めない。横断歩道を渡り切った先にある雪混じりのみずたまりを、ショートブーツの美澄は迂回して越えた。

 もう二年近く離れていたけれど、目の前の風除室は傷や汚れひとつ変わっていないように見える。この戸がカラカラと大きな音を立てること、そしてその音で中にいる人間がこちらに気づくことを、美澄はよく知っている。かつてはこの戸の前で、何度も久賀を待っていた。

 ゆっくり引いても、やはり戸はカラカラと鳴った。もう後には退けない。美澄がドアを叩いて訪ないを告げると、不信感もあらわにロールカーテンが半分だけ上げられた。


「古関さん! いったいどうしたんですか?」


 急いで鍵を外した久賀が、ドアを開いて言った。


「あの、先生に……」

「とりあえず入ってください」


 久賀はロールカーテンに顔をぶつけながら、美澄を中に招き入れた。


「先生! 大丈夫ですか?」


 雪を払うのも忘れて尋ねると、久賀はずれた眼鏡を直してうなずいた。


「大丈夫です。意外と痛かったけど」


 中は暖かく、懐かしい匂いがした。他のどことも違う、この場所だけの匂い。


「先生、突然すみません。何度か連絡したんですけど繋がらなくて」


 久賀はリュックからスマートフォンを出して着信履歴を確認する。


「すみません。気づきませんでした」

「いいんです。きっとまだ仕事中だと思ってたので」


 美澄がいつも座っていた机にはノートパソコンが広げられている。久賀がコーヒーを淹れに行っている間、その画面を覗いた。


「速度計算ですか?」


 カップをふたつ持って戻った久賀に尋ねる。速度計算とは、お互いに攻め合った場合どちらの玉が先に詰むのかという読みのことで、終盤ではこの精度が勝ち負けに直結する。


「中級者向けに教材を作ってました。速度計算の速さと正確性が上げられれば、逆転負けも減らせるので。 ……何ですか?」


 吹き出した美澄に久賀は目をすがめる。


「熱心だな、と」

「給料分働いてるだけです」


 言い訳がましい久賀の態度に美澄はまた笑って、渡されたカップに砂糖を落とした。ミルクは「普段使う人がいないので賞味期限が切れている」そうだ。黒いままのコーヒーを、美澄はゆっくりひと口飲む。


「おいしい。もしかして、あの?」

「はい」


『彩路』。駅ビルの中にある、地元コーヒー店のオリジナルブレンドのひとつ。結局ここで飲むことはなかった味を、二年越しに味わう。さらりと軽い、そういえばこんな味だったっけ。

 カウンターに腰かけて、久賀も同じコーヒーを飲んでいた。

 何年も着ているものなのか、それとも最近買ったものなのか判然としない黒いチェックのシャツと黒いパーカー。段級位を記したプレート。小さな手持ち金庫。ここは何も変わらない。受付に形ばかり置いているクリスマスツリーも、毎年使い回しているものだった。

 せっかくのコーヒーを普段の三倍のペースで飲み干しても、美澄はしばらくカップをくるくると弄んでいた。久賀もずっとコーヒーを口に運んでいる。


「先生、あの、」

「はい」


 思い切って声をかけたものの、久賀の労るような眼差しにひるんで、結局逃げ出してしまう。


「将棋、指しませんか?」


 久賀は怪訝な顔をしたものの、


「まあ、いいですよ」


 とノートパソコンをカウンターに移動させた。


「十秒でいいですか?」


 駒箱を美澄に押しつけ、久賀はチェスクロックを設定する。駒箱を開けるのは上位者。そのルールの厳格さを知る美澄は、初めて譲られたそれに触れられない。


「先生、開けてください」

「あなたはプロで、僕はアマチュアなのに?」

「先生と生徒です」

「もう違います」


 決然とした声で告げられ、美澄は潤みそうになる目元に力を入れた。


「“卒業”ですか?」

「ええ」


 禁忌に触れるがごとく、美澄はしずかに駒箱に手を伸ばす。盤の上に駒を広げた途端、美澄の伸ばした指をかわすように、久賀はさらりと玉将をさらった。将棋に関して、美澄の考えることなどお見通しだ。取り残された王将は、まだ指に馴染まない。

 昇級祝いに、と先手まで譲った久賀がチェスクロックを押した。久賀のチェスクロックの押し方は、誰かの肩に手を乗せるようだと美澄は思う。叩くのでも押し込むのでもなく、トンッと軽く押して手番を渡される。あの頃は毎日当たり前のように、この音を聞いていた。誰もいない倶楽部で、それは少し反響して聞こえる。

 盤上で飛車を振る位置を牽制し合い、美澄はちらりと久賀を睨む。


(先生、先に決めてよ)


 視線には気づいているくせに素知らぬ顔で、久賀は飛車を四筋に振った。それを見て美澄が七筋に飛車に振ってから数手。久賀はふたたび飛車を掴む。


(え! 嘘! 振り直すの?)

「古関さん、顔に出てます」

「なんで振り直すんですか」

「あなたがそうやっていやがると思ったからです」


 寒い寒いと思っていたのに、すっかり身体は熱くなっていた。駒の体温も心なしか高いように思える。

 冷静でないことは、最初からわかっていた。冷静でいられるわけがない。そしてそんな状態で久賀に勝てるわけがない。最後は詰将棋の問題に出てきそうなきれいな詰み形になって、美澄はくたりと頭を下げる。


「負けました」

「ありがとうございました」


 美澄は重い腕を持ち上げてチェスクロックを止めた。


「古関さん、馬切るの早すぎましたよ」

「なんか……テンション上がっちゃって。攻め駒足りなかったですね」

「ここで金寄れれば、もう少し粘れました」

「先生、棋力上がってません?」

「僕の棋力より、古関さんが中盤に連続で悪手を指したのが敗因です」

「そうですね」


 美澄は横を向いて唇を尖らせた。


「十秒だと誰でも多かれ少なかれ悪手は出ます。大事なのは悪手のあとに悪手を重ねないことです。気持ちを引きずらずに、その時の最善を尽くすことが……すみません。わかってますよね」

「わかってても、できてないので」


 終わりましょうか、と久賀は駒を中央に寄せる。自身は決して駒袋に触れず、美澄に片付けるよう促す。


「何かあったんですか?」


 唐突な美澄の行動にも、久賀はいぶかしむのではなく心配そうに尋ねる。しかし美澄は駒ばかり見て、視線を合わせようとしなかった。王将と玉将、飛車二枚、角行二枚、金将四枚、銀将四枚……。駒の数を確認しながら、駒袋に入れていく。


「先生」


 一、二、三、四。指先で桂馬を数えながら呼び掛けた。


「私、ここに戻ってきてもいいですか?」


 香車も四枚。駒袋にザララと落とす。


「今後については、日藤先生に相談してください」

「将棋の話じゃありません」


 三、三、三、三、三、三。歩は三枚ずつ六回数えて収める。袋を縛って、紐を結んで、蓋をして、盤の中央にそっと乗せる。


「将棋の話じゃないんです」


 もう一度ゆっくり伝えると、久賀は逃げるようにうつむいた。


「大変ですよ」


 自身の手元に向けて言葉を落とす。


「確かに今はどこに住んでも最新の情報が手に入ります。研究会もVS(一対一の研究会)もオンラインで可能だし、そうしている棋士も多いです。だけど、人間関係はそうもいきません。人との繋がりの中から得るものは情報以上に多い。特に女性は、友人が少ないのはつらいでしょう」


 二十歳を過ぎてから研修会に入会し、地元にもネットワークのない美澄は、そもそも棋界に知人が少ない。近い年齢の人は先輩であり、同期はだいぶ年下で、心許せる仲間が少ないことは久賀も馨も気にかけてきた。


「あなたに余計な負担がかかるのは、僕の本意ではありません」


 風の音が強くなった。細かい雪の粒がサリサリと窓ガラスを打つ。


「先生の言うことはもっともです。でも、将棋の話じゃないって最初に言ったじゃないですか。よりよい環境で高みを目指す。届いていない場所に普及する。そういう義務や理想とは全然別次元の、しょうもない話をしてるんです」


 久賀は呼吸さえ止めたように動かない。

 うなるような鳴き声を上げて風が窓ガラスを叩いた。同時に雪の粒も激しくぶつかる。強弱をつけて、体当たりするように何度も何度も。久賀が沈黙する中で、その音だけが聞こえる。


「帰ります。ありがとうございました」


 つっけんどんに言い放って、乱れた椅子を直すこともなく、美澄は足早にドアへ向かう。


「古関さん!」


 制止する久賀の声も、美澄を駆り立てるだけだった。


「この雪の中出ていくのは危険です」

「私は先生と違って雪国育ちですから平気です」

「どこに行くつもりですか? 新幹線ももうないのに」

「私ひとり泊まるところくらい、どうとでもなります」


 ドアを開けると、戸を閉め忘れた風除室を抜けて、雪と風が吹き込んできた。ロールカーテンが大きくあおられる。驚いてドアを閉めたら、今度は重力に従って落下してきた。


「痛っ」


 美澄をかばって覆い被さった久賀に、カーテンがぶつかった。一瞬回された腕はすぐにほどかれ、久賀は自身の頭をさする。


「先生! 大丈夫ですか?」

「大丈夫です。さっきより痛かったけど」


 カーテンがぶつかった部分へと、美澄はおろおろと手を伸ばす。しかし触れられずに空中をさ迷った挙げ句、結局下ろした。

 痛みに歪んだ顔のまま、久賀は口調を荒げた。


「納得していないくせに話を切り上げるのはやめてください。『追いかけてくれ』と言っているような態度は好きではありません」

「私だって、わかってるくせにまともに取り合おうとしない態度は好きじゃないです」


 久賀は苛立たしげに、さっき撫でたあたりの髪の毛をくしゃりと握った。


「あなたに馨を紹介したとき、僕は手を離したんです」

「知ってます」

「連絡するつもりもありませんでした」

「知ってます」

「あなたが何にも縛られず、存分に将棋を指せるようになることが、僕の願いです」

「全部知ってますよ」


 黒いパーカーの袖を、美澄はぎゅっと掴んだ。


「私が、だめな生徒なんです」


 振り払われても離さないように、美澄は手に力を込める。


「先生……」


 目の前の通りを、大きな車が通り過ぎる。ガタンと揺れる音と、みずたまりを踏み越える音が同時に聞こえた。

 強く握られている袖を、久賀はそっと引く。


「……だめなのは僕です」


 そう言って、今度こそ美澄を腕の中に包んだ。


「僕はいつも、いちばん大事な選択を誤る」


 そんなことないです、と反発して身動いだが、頭ごと抱えられて動きは封じられた。顔に襟のボタンが当たって少し痛い。


「僕には将棋しか取り柄がなくて、その将棋ですら、もうあなたを導くことはできないのに」

「だから将棋の話じゃないんです」


 美澄の頭に久賀が頬を寄せる。眼鏡の感触とため息の温度まで直接届いた。


「あー、本当にいいのかなぁ……」


 迷いを口にしながらも腕の力は緩まなかった。そのことに安堵して、また“先生”ではない触れ方に頬を染め、美澄はチェックのシャツに顔を埋めた。


「もう遅いですよ。拒絶するならもっとうまくやってください」

「そうですよね。すみません」


 久賀は美澄を解放し、誓うようにその右手を取った。薬指、中指、人差し指。駒の名残を追って久賀の指がすべる。


「あなたの邪魔にならないように、僕もせいぜい努力します」


 よく知っているのに触れたことのなかった右手は、美澄が思っていたより大きく骨張っていて、あたたかかった。美澄も久賀の三本の指をきゅっと握る。


「いいえ。先生はもっと自分を認めてあげてください。先生が、自分は頑張っているんだって思えるようになるのを、私が見てますから」

「そんなくだらないことに時間を使うなら、いい詰将棋を紹介しますよ」

「……私に解けるレベルのやつにしてください」


 今さら恥ずかしくなって顔を伏せた美澄の頭上で、ところで、と久賀は話を切り替える。


「本当にこれからどうするんですか?」

「うーん。そうですねぇ」


 久賀がロールカーテンをめくって外を覗くと、吹雪はやや収まっていた。


「先生のお家、近いですよね?」


 パサッと音を立てて、ロールカーテンが元に戻された。久賀の視線は吹雪から離れ、鋭く美澄へと向けられる。


「僕は構いませんけど、あなたはいいんですか?」

「すみません! 失言でした!」


 動揺して後ずさった美澄に、久賀は角砂糖が崩れるように笑ってスマートフォンを開く。


「日曜の夜だから空いてましたよ。駅前のビジネスホテル」


 久賀はささっと予約して、コートを羽織る。


「送ります。途中で軽く食べて行きましょうか」

「ありがとうございます。あ、先生」


 盤駒を片付けようとして、美澄が久賀を呼び止める。


「負けた方がご飯奢るってことでどうですか?」

「いいですね」


 久賀は羽織ったばかりのコートを脱いでカウンターに放った。


「ちょっと待ってください。コンタクトにします」

「え! そんなに本気?」

「当然です」


 王将、玉将、……。おだやかな駒音がつづいていく。


「ところで、ここに戻って私の仕事はあるんでしょうか?」


 そもそも高収入とは言えない女流棋士。しかも駆け出しの美澄にとって、需要は死活問題だ。


「実は、この地域の普及に尽力された先生方が高齢になって、僕への依頼も増えているんです。現役の女流棋士が常駐してくれるのは、正直なところ助かります」

「よかった……」


 金将、金将、銀将、銀将……。


「私たち、将棋の話ばっかりですね」

「それは仕方ないですよ」

「将棋以外の話をしてきなさいって師匠命令なんです」

「例えば?」


 桂馬、桂馬、香車、香車、……。


「先生の小さい頃の話とか?」

「僕の小さい頃から将棋を取ったら、鉄道の話になりますよ」

「そうだった。このひと、そういうひとだった」


 角行、飛車、……。


「あなたの話は?」

「私ですか?」

「キュウリがきらいなこと以外、ほとんど何も知りませんので」


 歩、歩、歩、歩、……。


「実は……」

「ん?」

「長ネギもきらいです。煮たり、火を通せば食べられるんですけど、生はちょっと……」

「この調子だと、あまり情報増えませんね」


 吹雪の夜は更けていく。ふたりの時間に封をするように、吹き溜まった雪がドアの前に積もっていった。



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