△30手 人でなしたちの言い分

 美澄の顔を見るなり、馨は眉間にこれ以上ないほど深い皺を寄せた。


「なんで古関さんがくるの」


 言葉の前半はかすれ、後半は咳で掻き消される。


「真美先生も綾音さんもいなかったので」


 馨から日藤家に掛かってきた電話を取ったのも美澄だった。よほど弱っているのか声はかすれていて、薬を買ってきて欲しい、とかろうじて聞き取れた。真美か綾音への伝言として受けたのだが、家族にはメモを残して美澄がやってきた。


「師匠、大丈夫ですか?」


 ベッドに横たわる馨の額に手を当てると、弱々しくも振り払われた。それでも手に残る熱は高い。


「インフルエンザでしょうか?」

「もう四月も終わりだよ」

「私の地元では、毎年四月までインフルエンザ流行るんです」

「とにかく帰って。うつったら対局に支し障る」


 背を向けてまた何度か咳をするので、その背中をさすった。汗でしっとり濡れている。


「対局ついてないので大丈夫です」

「記録係は?」

「明後日あります。帰ったらちゃんと風邪薬飲んで予防しますから」

「だめ。帰って」

「倒れてる師匠を放置するなんて、人でなしみたいなことできません」

「棋士は人でなしでいいんだよ。勝つためならモラルなんていらない」


 弱っている今でさえ美澄の対局を心配する人でなしは、口ばかりの悪態をつく。


「師匠がおっしゃっても説得力ないですよ」


 美澄はレジ袋から薬を取り出し、コップに水を汲む。


「私だって、師匠のためにできることは何でもしたいと思ってるんです」

「そういうことは夏紀くんに言いなよ」

「……先生には言えません」

「意外とそういうものかもね」


 笑い声はまた咳に変わった。諦めたようで、馨は美澄の手を借りて身体を起こし薬を飲む。その時バイブ音がして、美澄は馨をベッドに寝かせてからメッセージを開いた。


「真美先生が向かってるそうです。私はすぐ帰りますから、師匠は寝ていてください」


 安心したのか馨は目を閉じた。それを確認して、美澄はようやく辺りを見回す。ブラウンやグレーなど落ち着いた色合いで統一された、馨らしい、きちんと片づいた部屋だった。しかしシンクには牛乳を飲んだあとのグラスや、卵のこびりついた茶碗が洗われずに残っている。

 買ってきたゼリー飲料や栄養ドリンクをしまおうと冷蔵庫を開けると、そこには手作りのピクルスや常備菜がタッパーに整理されて並んでいた。それが馨の手によるものだと、すんなりと理解できる。酒や醤油などの基本的な調味料はもちろん、コチュジャンや甜麺醤、ターメリック、クミンなどの瓶も並んでいる。卵の横に八角の袋を見つけて、美澄は目を見張った。

 洗濯機を回し、うどんの出汁を作り終えた頃に真美がやってきた。


「美澄ちゃん、ごめんね。ありがとう。馨は?」

「眠ってます。ちょっと熱が高いみたいで」


 丸くなって眠る馨の額に、真美が手を当てる。精一杯美澄を教え導いてきた“師匠”も、真美の前ではただの子どもだった。


「明日になって熱が下がらなかったら病院かな」


 キッチンに立つ美澄の隣で、真美はバッグから取り出したエプロンをつけた。


「そうですね」

「うどん?」


 鍋を覗き込んで真美が尋ねる。


「この冷蔵庫見ちゃうと、簡単過ぎて申し訳ないんですけど」


 病人がいるにも関わらず、真美は豪快に笑い飛ばす。


「これに文句つける息子なら、しばらく退院できない身体にしてやるわ。あとは?」

「洗濯物干してもらっていいですか? 洗濯機に入ってた分は洗ったんですけど、さすがに干したら怒られそうなので」

「了解。馨よりも夏くんに悪いもんね。ありがとう」

「じゃあ、私は失礼します」


 時刻は午後七時半を過ぎていた。だいぶ日は長くなったが、それでもとっぷりと暮れ、電線にかかるようにまるい月が見える。

 コート代わりにしているシルバーラメのカーディガンからスマートフォンを取り出し、月に掛けるような気持ちで通話ボタンをタップする。


『はい』


 久賀の声で、笑うように月が明るさを増した。


「あれ? 出た」

『出たらだめなんですか?』

「まだ営業中のはずだから、出ないだろうと思ってたんです。お仕事終わったんですか?」

『今日はお客さまがいなくて、早めに閉めました』

「お疲れさまです」

『そっちは? 外?』


 車や風の音が届いたようで、久賀はそう尋ねた。


「師匠が熱を出して、お薬を届けに行ってました」

『え?』

「あ、大丈夫みたいです。悪態つくくらいにはお元気でした。今は真美先生と交代して帰ってる途中です」


 そう、という声とブラインドを降ろす音が聞こえる。


「先生、生活と将棋の両立って難しいのでしょうか」


 美澄が唐突な質問をすることにも慣れた久賀は、少し考えてから答えた。


『どの時代においても、棋士は将棋に付随する煩雑な業務との両立を強いられてきたはずです。例えば江戸時代の将棋家は、毎月のように開かれる幕府の冠婚葬祭に出席する義務を負っていたそうですし、幕府解体後は兼業が一般的でした。今だって、将棋だけしていられる人は少ないでしょう』


 トップ棋士になればなるほど、その知名度と影響力は大きい。そのため取材や多方面への人脈作りなど、将棋界全体を担う仕事が増える。学生時代には学校があり、出産すれば育児がある。将棋だけに集中できる人の方が少ない。


『程度の差こそあれ、みんなそれぞれ事情は抱えているものです。でも盤を挟んだら関係ない。そうでしょ?』


 ケガや病気をしてもハンデが与えられるわけでなく、欠席したら不戦敗。盤上がすべてという明快でシビアな世界だ。


「そうですね。だからいいんですよね」


 かつて「名人」は世襲性で、どんなに実力があっても成り代われるものではなかった。今は明確なルールに則って戦い、勝った者が「名人」を名乗る。品格や出自を含め、盤外の余計なものが精査されることはない。だから文句なく敬意が払われる。


『何かありましたか?』

「師匠の看病に行ったら、『風邪がうつったら対局に差し障るから帰れ』って言われたんです。でも、例え対局に影響が出ても、私はそこで帰れませんでした」


 耳に直接、うん、という声が届く。そのぬくもりを追い掛けるように受話口に顔を寄せる。


「いつでも将棋を優先しないと、師匠や先生を失望させてしまいますか?」


 いいえ、という返事は即答だった。


『勝てばいいんです』


 突きつけられた答えはシンプルで、最も難しい。

 子育てしたり、病気になったり、事情を抱えているのは誰でも一緒。美澄は美澄の事情の中で勝てばいい。勝たなければならない。


『でも、回避できるリスクは回避すべきです。あえて不利な状況に身を置くことは、本来ならおすすめしません』

「はい。知ってます」


 もし永遠を生きられるなら、千年後に別の生き方を選んでもいい。けれど美澄の人生はせいぜいあと六十年。少しずつ融通して使うしかない。


「でも、先生がいない穴の全部を、将棋が埋めてくれるわけじゃないです」


 青々とした桜の葉に月が光の珠をむすぶ。久賀の住む街では、まだ花が残っているだろうか。


『会いたい時に『会いたい』と言っていい関係になったのに、会えないのはつらいですね』


 舞い降りた言葉に美澄は驚いて、ぱちりとまばたきをした。


「先生でもそんな風に思うんですか?」

『あなたは僕を何だと思ってるんですか』

「『リスク』なんて言うから、一緒にいたいのは私だけかと思ったんです」

『理屈と感情は別物です』


 沈黙している踏切を渡ると、線路がずっと続いていた。誰かの意志で街と街をつなぐ鉄道。この先に久賀もいる。


『もしもし? 美澄?』


 少しぼんやりしていたらしい。久賀に呼ばれて顔を赤くしながら、美澄は踏切を渡り終えた。


「先生、名前、慣れないのでやめてもらえませんか?」

『予防的措置です。名前で呼ぶくらいしないと、あなたは僕と付き合ってることも忘れてるでしょう』


 先生は私を何だと思ってるんですか、と同じ言葉を返した。


「さすがにそれはないですよ」

『いいえ。一人暮らしの男の部屋に行くなんて、自覚がありません』

「一人暮らしの男……って、だって師匠ですよ?」

『馨なんて、熱出たまま沈めておけばいい。対局どうこうの問題じゃない』

「ええーっ! 人でなし!」

『今さら』


 春の宵の向こうで、人でなしが笑った。



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