△32手 恩返しはいらない

「ここ」


 馨は美澄の玉頭にパチリと歩を打つ。

 エアコンの効いたリビングにも厳しい残暑は押し入って、ノースリーブから伸びた美澄の腕も汗でベタついていた。


「▲同銀で取ってたけど、逃げる手は考えなかった?」

「考えましたけど、飛車が怖かったので」

「でも4八まで逃げられればまだわかんなかったよ」


 美澄の目に輝きが差したのを見て、馨は5六に桂馬を打った。


「逃がさないけどね」


 4八の地点には、美澄のため息とエアコンの冷風だけが落ちる。


「この桂を打たれる前に4八に逃げるルートを確保できれば五分かな」


 一向に美澄の顔は上がらないので、馨は下から覗き込む。


「勝てると思った?」


 久賀相手なら噛みつくところだが、相手は師匠なので、美澄はしずかに答えた。


「……期待はしました」

「それは形勢判断甘すぎる」


 馨が盤面を元に戻すので、美澄も合わせて駒を動かす。


「あ、でもこれ面白かったよね。角桂交換。桂馬の価値の方が高いと思ったんでしょ?」


 美澄はまたため息で返事をする。


「古関さんらしい手だよね。悪い手ではあるんだけど、明るいっていうか。いい勝負手だったよ」


 馨が駒を片付け始め、美澄は、ありがとうございました、と頭を下げる。見計らっていたように、綾音がリビングのドアを開けた。


「終わった?」


 美澄は疲れた顔にほんのりと笑顔を浮かべる。


「はい。終わりました」

「アイスクリーム買ってきたから食べようよ」

「いただきます!」


 美澄はうきうきとキッチンに走り、三人分の冷茶を淹れて戻った。美澄の気持ちを代弁するように、グラスの中で氷がカロロンと歌う。

 美澄ちゃんどうぞ、と綾音に勧められたので、美澄は礼を言ってから箱ごと馨の前に差し出した。


「師匠、お先にどうぞ」


 譲られて、馨はためらいなくチョコチップバニラを取る。師弟関係を知っているから綾音は何も言わないし、また馨も辰夫の好きな抹茶あずきと、真美の好きなオレンジシャーベットと美澄の好きなストロベリー・フロマージュは選ばなかった。


「じゃあ、私もいただきます」


 美澄がストロベリー・フロマージュを取ったのを見て、馨はほんの少し満足そうに表情を緩める。

 プラスチックのスプーンでひと口食べると、さわやかな甘味が脳の傷口にやさしく染みた。


「あー、おいしい」


 少し苦めの冷茶も、今はちょうどいい。綾音もモカ・ナッツの頂上にスプーンを突き立てている。


「頭使ったから糖分欲しいでしょ?」

「自分の情けなさにも沁みます……」


 久賀の将棋も見えている景色が違うと感じたが、馨は体幹の違いを感じる。それは身を置く戦場が厳しいものであることがうかがえた。


「精進しなさーい」


 からりと明るい馨の声に、美澄は重々しくうなずいた。


「はい」


 馨のスプーンから溶けたバニラがこぼれ落ちて、美澄はキッチンで濡らしてきた布巾を手渡す。


「師匠」

「ああ、別にいいのに。このくらい」

「だめです。そのシャツ、とってもかわいいので」


 青いストライプシャツにベージュのパンツは久賀と同じようなスタイルなのに、シルエットもストライプの色合いも違うと洗練されて見える。


「いいでしょ」


 と、馨はバニラをトントンと拭き取った。


「よかったらあげようか?……って言いたいけど、俺のシャツ着てたら夏紀くん怒るよね」

「ください!……って言いたいですけど、多分先生は怒ります」

「夏紀ってちゃんと焼きもち焼くんだ」

「『心配はしてないけど、気分は悪い』んだそうです。でも、師匠からもらったって言わなきゃ大丈夫かな」

「バレた時、俺が何言われるかわかんないよ」


 しゅんとした美澄に綾音は話題を変える。


「美澄ちゃん、まだ夏紀のこと『先生』って呼んでるの?」


 名残惜し気に馨のシャツを見ながら、美澄は即座にうなずいた。


「はい」

「付き合って半年以上になるのに?」

「でもほとんど会ってませんから」

「えー! 『先生』はないよ。『先生』なんて、うちにも三人いるんだよ」


 テーブルの上のゴミをゴミ箱に捨てながら、馨が割って入った。


「いや、古関さんが『先生』って呼ぶの、夏紀くんだけだよ」


 言い切る馨の顔を見て、美澄は首をかしげる。そんな美澄の眼前で指を折りつつ、馨は数多くいる「先生」の呼び名を並べ上げた。師匠、真美先生、辰夫先生、平川先生、秋吉さん、森川さん、奥沼先生。ああ! と綾音が納得の声を上げる。


「途中で気づいたんだけど、古関さんが『先生』って言ったら夏紀くんのことなの。最初からずっと」


 それはまるで、最初からずっと久賀だけが特別だったと言われたようで、美澄は顔を上げていられなくなった。


「でも『先生』って名前じゃないし、そのうち困るんじゃない? せめて『夏紀先生』って呼んだら? ちょっと言ってみてよ」


 綾音が言うように世の中には「先生」がたくさんいる。これから久賀と行動を共にするなら、明確に呼び分ける必要が出てくるかもしれない。けれど、舌先に乗せる前から耳の縁が熱くなり、美澄は口を「な」の形に開いた瞬間ふたたび閉じた。


「あ、やっぱり無理です」

「投了早いな」

「夏紀も苦労してそうだね」


 楽しげに笑う綾音を、美澄はじいっと見る。


「呼び方って言えば、綾音さん」


 アイスクリームを口に入れた綾音は、ん? と鼻で返事をする。


「私、綾音さんが先生を呼び捨てにするのも、先生が綾音さんを名前で呼ぶのも、実はずっといやなんです」


 綾音は口を押さえて、あはははは! と笑った。


「それ最高!」


 同居を始めた当初、綾音にはかなり気後れして、挨拶さえ小声でしかできなかった。そんな風にウジウジしていると、余計にきらわれるのではないかと怯えてもいた。綾音の正直さは時に傷つくこともあったけれど裏を読まなくていい安心感もあって、いつの間にか実の家族より気安い存在になっている。

 今後も対局の前日には日藤家に泊まるので、綾音とは買い物も旅行もたくさんの約束をしている。


「そういえば古関さん、引っ越し先決まったんだって?」


 アイスクリームを食べ終えた馨は、スプーンを容器に放す。視線をさ迷わせたので、美澄はウェットティッシュを手渡した。


「はい。あとは引っ越し屋さんを手配するだけです」

「いつ頃?」

「今月中には、と思ってます」


 新しく住むアパートは、あさひ将棋倶楽部から徒歩で十五分ほどのワンルームだ。部屋探しから手続きまで、久賀が面倒を見てくれた。

 こちらで続けてきた研究会や、先日の対局終わりに水原から申し込まれたVSは、オンラインで続けることになっている。

 二年半住んでも、東京という土地にさして愛着はないけれど、繋がっていたい縁はちゃんと続いていく。結局、「郷土愛」も多くは人と思い出に対する執着なのかもしれない。待つ人がいれば、そこが「帰る場所」になる。


「夏紀と住むの?」


 美澄は真っ赤な顔でスプーンを振り回す。


「いやいやいやいや! まさかまさかまさかまさか!」

「なんで? 経済的にもその方が楽じゃない?」

「でも、親には何も話してないので」


 日藤家に居候していると知ったときの混乱を思い出すと、今でも頭が痛む。東京を離れ、でも地元に帰らないところから何か察していたとしても、余計な藪を突っつきたくはない。


「まあ、一緒に住むかどうかはともかく、」


 馨は指についていたチョコレートをウェットティッシュで拭う。


「ご両親にはちゃんと話した方がいいよ」

「そうだね。こういうことは最初が肝心だから、あとでバレたら印象悪いよ」


 綾音も同じ動きで指先を拭いながら同意した。

 女流棋士になったことは喜んでくれたものの、美澄の両親はそもそも棋界に対する理解が足りない。今時まだ見合い話が持ち上がるような田舎で、美澄が逃げるように東京に来たのはそのせいでもあった。


「個人的な感覚から言うとね、」


 馨は甘さのない真剣な面持ちで言う。


「夏紀くんは人としていろいろ欠点はあるけど、古関さんが女流棋士になれたのには、夏紀くんの功績が大きいよ」


 もちろんです、と美澄も応じる。久賀に出会えていなかったら、女流棋士にはなれていない。それどころか将棋も指していない。きっと何にもなれていない。ただちょっと面白いだけのゲームに、真剣勝負があることを教えてくれたのは久賀なのだ。


「ずっと将棋教えて、何軒も何軒も頭下げて受け入れ先探すなんて、普通のことじゃないんだよ。彼氏になったのはただの結果で、夏紀くんは見返りだって求めてなかった。俺が古関さんの親なら、夏紀くんに足を向けては寝られない」


 日藤家に頭を下げたのと同じくらい、久賀にもそうするべきだと美澄も思う。現状お付き合いをしているせいで、そこに照れが生まれてしまったから厄介なだけだ。


「もし親御さんが夏紀くんに難色を示すようなら連絡して。俺が絶対認めさせる」


 言外に、認めない方が悪い、と含ませる。久賀への対応に関しては、現状ですでに不満なのだ。


「ダメ押しで暴露すると、研修会の会費、立て替えたの俺じゃなくて夏紀くんだから」


 美澄は声も出せずに驚いていた。借りていた分は、親の協力が得られたときに返還したが、それは馨を通して久賀に渡っていたらしい。


「俺はやり過ぎだって止めたんだよ」

「夏紀ってさ、意外と女で身を持ち崩すタイプなのかな」


 綾音は、アイス食べたら寒くなった、とポットから急須に湯を注いで緑茶を淹れる。


「……両親には話します」

「その方がいいね」


 馨は渡されたお茶を飲もうとして、熱そうに口を離す。


「なんか、対局より胃が痛い……」


 溶けかけたアイスクリームを口に運ぶ美澄を、綾音はニヤニヤと見つめた。


「美澄ちゃんにとっては、夏紀が初彼みたいなものだもんね」


 馨が興味津々という様子で身を乗り出した。


「そうなの?」

「師匠なのに元彼とのこと知らないの?」

「今時そんなの聞いたらセクハラで訴えられるでしょ」


 で? と馨もニヤニヤ笑う。


「いや……別に大層な話ではないんですけど……」


 隠すことでもないので、大学時代初めて付き合った彼が将棋部であったことを話した。アマチュア初段だというその彼に三戦三勝。美澄は将棋の楽しさを知ったが、その日から連絡が取れなくなった。付き合ってほんの一週間程度の、恋なのかどうかもわからないような儚い思い出。


「元彼かわいそ~」


 言葉とは裏腹に、馨はケラケラと笑う。


「その人、美澄ちゃんが女流棋士になって、今頃びっくりしてるだろうね」

「もう、あの人のことはいいんですよ……」


 美澄の丸まった背中を、綾音がポンポンと叩く。


「大丈夫、大丈夫。夏紀なら三戦全敗なんてしないって」

「いや、夏紀くんに全勝できるくらいになって欲しいな、俺は」


 相反する意見にはどっちつかずに、はあ頑張ります、と答えた。

 そんな美澄を見て馨は相好を崩す。


「俺もこうして指導することも少なくなるからね」

「師匠にはまだまだ教えていただきたいことがたくさんあります」

「何言ってるの。古関さんはもうプロなんだからさ、自立しなきゃ」


 ピシリと言い渡され、美澄は何も言えなくなる。プロであるからには、自分で模索し、その成果を示さなければならない。師匠であっても本来は戦う相手なのだ。


「これでも結構悩んだんだよ。夏紀くんの掌中の珠を預かることになって」


 あちこちに久賀の指導の跡が感じられる美澄に、どのくらい関わって、どう導いて行くべきか。下手に口出しして惑わせてしまわないか、放置して不安にさせないか。馨は馨で、初めての弟子なのだ。


「結局は夏紀くんがしていたみたいに、ひたすら練習に付き合ったんだけど、そのせいで伸ばし切れなかった個性もあるだろうし、よかったかどうかわからないよね」

「いえ、本当にありがとうございました」

「なんか娘を嫁に出すみたいだなぁ」


 しんみりと言う馨に向かって、美澄は姿勢を正し頭を下げた。


「本当にお世話になりました。これから少しでもご恩を返せるように頑張ります」

「恩返しなんていらないよ」


 馨はきっぱりと言った。


「親や師から受けた愛情や恩は、直接返す必要ないんだよ。それは次に他の誰かに返して。当たり前のように愛情を受け取って、当たり前のように次の世代に渡していく。そうやって、愛情が回っていく世の中であって欲しいよ、俺は」


 どれほど望んだとて普通ならば得られないものを、馨はいつも容易く美澄に渡す。美澄は鼻をすん、と鳴らした。


「でも、私の中にある師匠への感謝は、どうやってぶつけたらいいんですか?」


 にこやかだった馨の目がすうっと細められた。


「もし本気で恩返しがしたいって言うなら、公式戦でやろうよ」


 馨と公式戦で戦うということは、男性棋士と同じ棋戦に出るということだ。棋戦によっては女流棋士枠があるが、それはごく限られている。すなわち女流棋戦で優勝することと同等の成果を出さねば、同じラインにも立てない。


「将棋界で『恩返し』って、どういう意味か聞いたことあるよね?」


 将棋界の『恩返し』。それは公式戦で師匠と対局して勝つこと。または、師匠をやり込めた相手に勝つこと。もしくは、師匠の地位を越えること。どれも美澄には途方もない。「公式戦で対局する」はかなりハードルを下げての提案だった。

 しかし、倉敷藤花戦も三回戦で敗退し、その難しさを日々感じている美澄は声のトーンを落とした。


「……頑張ります」


 約束を避ける不甲斐ない返事に、馨は耳掻き一杯分の苦笑を混ぜたやさしい笑顔をくれた。



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