とてもまぶしい三日間でしたわ⑤

「それでは当日お願いしますね」


 その日の放課後。

『トロア』クラスの前の廊下で別れを告げて、わたくしは踵を返す。まぁ、できることはこのくらいかしら? あとは野となれ山となれ……さて、レミーエ嬢と待ち合わせの教室へ行かないと。今日で最後だから、ついおやつなんて買ってきてしまったわ。さすがに連日のドーナツでレミーエ嬢がふくよかになったら困りますからね。ドライフルーツがたくさん入ったクッキーを買って参りましたの。喜んでくれると嬉しいのだけど……。


 浮かれて廊下を歩いていると、突然腕を引かれて。「えっ」と声をあげた時には、人気のない階段の下で連れ込まれてしまっていた。薄暗い中、襟足の長い銀の髪が逆光に照らされる。壁に肘までついた腕の中に閉じ込められて、彼の瑠璃色の瞳がとても近かった。


「まだまだだね、ルルーシェ。このくらいとっさでも抜け出さないと」

「……そんなこと言いながら膝まで間に入れないでくださいます? ザフィルド殿下」


 鼻と鼻が触れてしまいそうな距離。相手が殿下だからまだ良いものの……他の殿方相手だったらあり得ないですわ。殿下とて、女生徒に騒がれる程度に美形なのですから。心臓に悪いです。わたくしが視線を逸らすと、耳元に顔を寄せた殿下が小さく笑う。


「良かった。ちゃんと男扱いしてくれるんだね?」

「いつも殿方だと思ってますわよ。頼もしい師匠で心強い限りですわ」

「今日の訓練サボったのに?」

「あら。待っていてくださいましたの? それは申し訳ないことをしましたわ」


 いつも通り――このくらいの平常心を装うことくらい、令嬢の嗜みですわ。ですが、どうしても紙袋を抱える手が震えますわね。だってあからさまに殿下の様子がおかしいですもの。


「ねぇ……今日は兄上とどこに行っていたの?」

「市街地を散策しておりましたわ。日頃の息抜きに付き合ってもらいましたの」

「婚約破棄したのに?」


 ――それは本当にそうなんですけどね。

 我ながら、自分の浅はかさに呆れてしまうわ。筋が通っていないにも程がある。それでも……全部を忘れて、思い出を作っておきたかったんですもの。いくら切り捨てようとしていても、わたくしの数少ない“近しいひと”には変わりないのですから。


 ねぇ、ザフィルド殿下。それはあなたも変わらないのよ?


「本当はザフィルド殿下もお誘いしたかったのですよ?」

「なら誘えばよかったじゃないか。ルルーシェからのお誘いなら、僕も喜んで学校なんてサボったよ」

「でも、あなたはわたくしに大きな嘘をついたでしょう?」


 わたくし怒ってますのよ? ――そう、伝えれば。

 殿下はくつくつと、くつくつと笑い出す。そしてひとしきり笑い終えたかと思えば、わたくしの頭の上の壁をドンッと強く叩いた。思わず肩を竦めて紙袋を落としてしまう。だけど容赦なく彼は叫びだした。


「あぁ、そうだ! そうだよ⁉ 僕は根っからの大嘘つき者さっ! それで愛想が尽きたって⁉」

「……あまり大きな声を出されない方が。放課後とはいえ、人がいないわけではございませんわ」

「僕に近寄られると兄上への外聞が悪いと⁉」

「そんなこと申しておりません。でも……わたくしも正式に婚約破棄が受理されているわけではございませんので」


 わたくしへの悪評は今更ですが、このままではザフィルド殿下の悪評が立ってしまいます。兄の婚約者に攻め寄ろうとしているとか、今後の殿下の婚約に影響出かねませんもの。この距離感は幼馴染と言い訳も付きませんわ。……それがわからないひとではないでしょうに。 


 ザフィルド殿下はわたくしの言葉を鼻で笑い飛ばす。


「でも結局、兄上がいいんだろう? 明後日のエスコートも結局兄上に頼むんだろう?」

「……いえ。それは先程、再度断りを入れてきましたわ」

「は? どういうことだよ。結局『ほかの好きな人』っていうのもデマカセのくせに」

「デマカセではございませんわ」

「じゃあ、誰?」


 わたくしはザフィルド殿下を見上げる。その気迫と焦りを見せたご様子に……正直に申すしかございませんわね。


「……ナナシ様ですわ」

「ナナシ?」

「えぇ……『ナナシの落日』。ご存知ありますでしょう?」

「ふざけるなっ‼」


 でも、やっぱり怒鳴られてしまいます。ふざけてなんかいないのですが……あぁ、どうしましょう。さすがに手詰まりですわ。どうしたら殿下を納得させられるの?


 杞憂していると、ポタッと頬が濡れる。校内だ。雨なんか降るはずがない。最後顔を上げれば――瑠璃色の瞳から、ぽろぽろと雫が溢れていた。


「ふざけないでくれ……ルルーシェ。僕は、本当に君のことが……」


 涙を流すザフィルド殿下に、わたくしは思わず零す。


「わたくし……明後日で死ぬ運命ですの」

「……は?」

「なので、誰からの気持ちも受け取るつもりありません。わたくしの身は神に捧げます」


 ザフィルド殿下は虚を突かれたように、まばたきを繰り返していて。

 ……そうですわよね。こんなこと言われても、普通信じてもらえませんよね。それは当たり前のことなのに、どうしてかしら? わたくしも泣きたくなってしまうわ。でも、それは明らかに自分勝手だから。わたくしは緩んだ腕の隙間から抜け出し、紙袋を拾う。


「では、レミーエさんが待っておりますので」


 その場から立ち去ろうとすると、最後から「そんなに……あんな兄上のことが……?」と呟く声。違います。違いますのに……。でも、わたくしの声はあなたに届かないから。


 わたくしは足早にいつもの空き教室へと向かう。後ろ手で慌てて扉を閉めると、教科書を開いていたレミーエ嬢が「ルルーシェ様?」と心配げに腰を上げた。そんな彼女に、わたくしは息を整えてからにっこりと微笑む。


「遅れてしまい申し訳ございません――お菓子を買ってきましたの。良ければ一緒にいかが?」




 その日、帰宅する前に剣術部の倉庫に行った。

 いつものことなの。さすがに授業中とか鞄に剣を入れておくなど物騒でしょう? だから使わない時は一緒に管理してもらえるよう、きちんと申請していたのです。

 なのでそれを持ち帰るべく、今日もその倉庫に寄ったのですが――。


「ありません、わね……」


 わたくしがわたくしのために選んだ、決して剣術部の方が使わない小さな剣。どこを探しても、それが見つかることはなかった。




『今日のあの言葉はなんだったの?』

『あら、わたくしおかしなこと言いましたか?』


 その日の夜。当然クッキーは神様にも買ってありましたわ。ただ神様にお出しした分は割れたものが多くて……それでも、彼は何も言わずにそんなクッキーを食べながら恥ずかしそうに視線を逸らしていた。


『その……わたくしの身は神に捧げるとかなんとか……』

『ふふっ。よくある問答じゃないですか』

『そ、そうだよね! 聖職者がよく言うことだよね。ははははっ!』

『まぁ、本心からそう思っておりますけどね』

『ふぁっ⁉』


 ふふっ、真っ赤になって。脳天気でお可愛らしい。でも……今はそんないつも通りの態度が嬉しいですわ。


『そんなことより、今日も楽しかったんですのよ? わたくし実は射的の才能があったらしく――』


 街で遊んだこと。食べたもの。感動したこと。そんなことを無邪気に口走るわたくしの話を、神様は適当な相槌を打って聞いてくれる。それが、何よりも有り難かった。


 だって、わたくしは最期まで笑っていたいんですから。

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