立場が代わりましたわね③
――あと14日。
「さあルルーシェ! 勉強しよう‼︎」
サザンジール殿下との勉強は、朝と放課後に行われることになった。お昼は……剣術の訓練がありますからね。そこだけは絶対に引けません。やり始めたことは最後まで。
放課後はレミーエ嬢も一緒に勉強してます。常にレミーエ嬢の頭に本を八冊乗せていたら、殿下はとても驚いてました。殿下にも勧めたら「俺も泣くかも……」と仰っていたので、やめておきましたが。殿方の涙は見たらいけないような気がしますからね。実際見たことございませんし。
教材も特別殿下が作ってくれたらしく、要点がとてもわかりやすく纏められてます。それを使った殿下の解説もまた素晴らしく、試験のみに留まらない雑学や豆知識もあわせて、思いの外充実した時間を過ごさせていただいております。
ただ……。
――あと13日。
早朝は空気も冷たく、吐き出す息がうっすら白い靄となる。そんな開門直後の時間から。サザンジール殿下は今日もまた空き教室を手配してくださり、わたくしたちは二人で一つの机を囲んでいた。
わたくしは黙々と走らせていたペンを止める。
「殿下……夜にちゃんと寝ていらっしゃいますか?」
「ふぁっ⁉︎」
わたくしが練習問題を解き終わり、声をかけると。同じ机の隅を使ってオリジナル問題を作っていた殿下が、素っ頓狂な声をあげる。船を漕いでましたからね。奇声は大目に見てあげましょう。
「目の下が青黒くなっております。きちんと睡眠をとってます?」
「あ、当たり前だろう。毎日二十四時間きっちり寝ているぞ!」
「一日が二十四時間しかない中、それは素晴らしい睡眠時間ですわね?」
「あぁ、そうだろうそうだろう!」
……はい。わたくしの嫌味に気が付かないくらいですから、ダメですね。
わたくしは閉じたノートをとんとん整え、席を立つ。そこでようやくサザンジール殿下は覚醒したようだ。腰を上げ、わたくしの腕を掴む。
「ま、待つんだルルーシェ! 絶対にきみの役立ってみせるから‼」
「……では殿下。お願いがあります」
「なんだ! 何だって俺が叶えてやるぞ!」
……こんなことで、そんな必死にならないでください。わたくしはあなた様に婚約破棄を申し出た不届き者ですわよ? それなのに……馬鹿なおひと。
「座ったまま、三十秒目を閉じていただけますか?」
「…………は?」
突如としたわたくしの申し出に、殿下は目を見開いた。だけど「お願いします」と押せば、不本意そうにしながらも、殿下はその瑠璃色の瞳を閉ざしてくれて。
一、ニ……わたくしは心の中で、ゆっくりと数を数える。だけど……やはり三十秒もいらなかったわね。サザンジール殿下はスースーと寝息を立て始めた。
そりゃあ、まともに寝れているわけがないでしょう。殿下はいつも授業が終わり次第、すぐに城に戻って公務に励んでいたじゃ無いですか。それなのに、放課後にわたくしの勉強に付き合うなんて……その公務はいつしていらっしゃいますの? そもそも一学年の追試対策ノートなど、いつ作成したのですか?
そうしたノートの山をパラパラ捲っていれば、ある帳簿が混じっていることに気がついた。ダメですわよ、公務の資料を学校に持ってきては……うっかりなんでしょうけど。
さらにその帳簿の中にはメモ書きのようなものが挟まっていて。『貸衣装』『市民のはれの日にドレスを』『無駄の削減』『陛下の承認』などの単語が目に飛び込んできた。企画書のアイデア出しでしょうか? 本当……わたくしの相手などするよりも前に、やるべきことがたくさんあるじゃないですか。
「まったく……世話のかかる人ね」
わたくしは嘆息する。わたくしの役に立ちたいのなら、わたくしの世話にならないのが前提ではなくて?
そんな嫌味も口にする気にならない。だって……わたくしのせいですもの。こんなに必死になるとは思わなかったの。わたくしから婚約破棄を申し出たら……レミーエ嬢と恋仲でなかったにしろ、少し落ち込むくらいかと思ったわ。こんなに動じて、こんなに必死に気を引こうとしてくれるとは思いませんでした。
……わたくし、愛されていましたのね。
今になって、それに気付くなんて。でも、もう遅いわ。あと十四日で死ぬ女に何ができるというの?
だったら、わたくしにできるのは離れてあげることだけ。これ以上あなたが寂しくないように。これから歩む道が少しでも明るいものとなるよう、お手伝いすることだけ。
殿下の目に入りそうな前髪をそっと除けてさしあげる。可愛らしいお顔ですこと。こんな気の抜けたお顔を、初めて見た気がします。ずっと婚約者だったのに……あなたについて知らないことがありすぎましたわ。それにもっと早く気がついたら……今とは違う決断ができたのでしょうか?
「ごめんなさい、サザンジール様」
初めて『殿下』と付けず名前でお呼びする。これが、最初で最後だろう。
わたくしは起こさないようにそっと席を立ち、教室を出る。もうすぐ他の生徒たちが登校してくる時間。あの教室は授業でも使うことないですし、ゆっくりと――あら。でも第一王子殿下を空き教室に一人にしておくのは不味いわよね? ザフィルド殿下は違うと言ったけど……他の方の関与で暗殺者の件が絶対に解決したとは言い難いわ。
なら、ここぞ今まで鍛えた剣術の出番なのでは――⁉
ちょっとだけ胸を高鳴らせつつ、踵を返そうとした時だった。
「ルルーシェ」
聞き馴染みある声に振り返れば、『銀王子』ことザフィルド殿下。珍しいですわ。彼もわたくしと一緒で、いつも登校はぎりぎりですのに。さらに紙袋を抱えております。美味しそうな匂いがしますわ。
思わずわたくしが見てしまうと、ザフィルド殿下が小さく笑った。
「あぁ、これね。二人に差し入れしようかと思って。兄上もそうなんだけど……ルルーシェもまともに朝食取ってないんだろう?」
その通り――昨日のお昼休み、いつも通りクッキーなど軽食で済ましても全然足りなくて。訓練中にお腹を鳴らして大笑いされてしまったことは記憶に新しい。思い出すだけで恥ずかしいですわ。
何故そんな失態を犯したか……単純な話、朝が早くて朝食を食べる時間が取れなかったの。
差し出されて中を覗けば、美味しそうなパンがやまほど入ってますわ。あ、生クリームですの? コッペパンに生クリームが詰まったものを取り、その場で一口。んんっ、甘くて幸せですわ! 疲れた頭に染み渡りますわね! さて、もう一口――と口を開いた時、節ばった手が伸びてきた。口角を拭われ、何故かザフィルド殿下がそれを舐める。
「意外。ルルーシェが立ち食いするなんて」
「……ご内密にお願いしますね」
「言わないよ。こんな可愛いルルーシェを独り占めできるなんて最高だね」
「なら、一つおねだりしても宜しいでしょうか?」
わたくしの上目遣いに、殿下は「飲み物もほしい?」と小首を傾げる。ガサガサと服を探っている殿下に、わたくしは言った。
「サザンジール殿下が教室で寝ていらっしゃいますので、養護室に運んでおいていただけますか?」
「は……はあ⁉」
殿下はあんぐりを口を開けます。美形も台無しですわね。
わたくしはにこにこと告げました。
「今、あの空き教室で殿下おひとり寝ていらっしゃいますの。ほら……絶好の暗殺タイミングでしょう?」
「くっっそっ! だからその冗談面白くないってば‼」
「あら、そうですか?」
わたくしはもうひとつパンをいただき、「差し入れありがとうございました」とその場を去る。
後ろからとっても大きなため息が聞こえますが……兄弟仲良しということなので、任せておけば大丈夫でしょう。
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