幼馴染
「あれはあれだよな……やっぱりフラれたってことだよな……」
霧島の家から帰る途中、僕はロック史のレクチャーにあれ程やる気満々だった霧島の態度が、急に変わってしまったことに思索を巡らせていた。
きっとそうだ、最後にちょっと下心を出して、また学校で会おうみたいなことを言ったから警戒されたんだ。
それにしても、だいぶ変わった奴だとは思っていたけど、あれは斬新なフリ方だよな。
でも、今日の僕は諦めが悪かった。霧島に拒否られていることを分かった上で、このまま関係を終わらせないように、彼女からCDを数枚借りることに成功したんだ。最後は彼女も呆れていたよ。
すっかり辺りが真っ暗になった中、僕は霧島から借りた聞いたこともない音楽CDを眺めながら、軽くガッツポーズをした。
家に帰ると、玄関に家族のものではない女もののローファーが置いてあった。僕が首を傾げる間もなく、ダイニングから母親の声が飛んで来る。
「吾妻、遅かったじゃないの! 毘奈ちゃんが来たから、あんたの部屋で待ってもらってるわよ!」
「ええ!? 毘奈が? なんで勝手に部屋に入れちゃうんだよ!」
「いいじゃない、別に毘奈ちゃんなんだから!」
「いや、むしろ毘奈だからダメなんだよ!」
僕は何だか胸騒ぎがして階段を駆け登った。
幼馴染ってのもあるが、うちの母親は毘奈のことをだいぶ気に入っていて、生意気盛りの妹も本当の姉のように慕っていた。だから、基本毘奈が来れば家族皆大喜びで、僕の糸クズみたいな人権など簡単に吹き飛ばされてしまうんだ。
「毘奈!! ……ハア……ハア……」
「どうしたの、吾妻? そんなに慌てちゃって」
ドアを壊さんばかりの勢いで部屋に飛び込むと、制服姿の毘奈は予想に反し、部屋の椅子にお行儀よく座っていた。
良かった、僕の早とちりだった。僕は思わず胸を撫で下ろしていた。だって仕方ないんだ。毎度毎度、毘奈を部屋に入れるとロクなことがないんだから。
「おやおやお兄さん、もしかしてお探しなのは、このエチィ本ですかな?」
「って、おまっ! やっぱり!」
そうそう、こんな風にね。毘奈は背中から僕の秘蔵のエチィ本を数冊取り出すと、嬉しそうに僕の前へ掲げて見せた。
「あーずまー、もう少し隠し場所工夫しないと、すぐに誰かに見つかっちゃうよー♪」
「お前以外、誰もそんなもん見つけやしねーよ!」
揶揄ってくる毘奈から、僕はふんだくるようにエチィ本を取り上げた。全く、油断も隙もあったもんじゃない。
でも考えてみれば、こういうやりとりも久しぶりな気がする。高校に入学して毘奈に彼氏ができて以来、彼女が僕の部屋にまで来たことはなかった。
「もう、そんなに怒らなくたっていいじゃん! せっかく久しぶりに可愛くて優しい幼馴染が、部屋に来たって言うのに!」
「本当に可愛くて優しい幼馴染は、男子の部屋でエチィ本を漁ったりしません!」
「ああ、確かに!」
「確かにって、お前な……まさか、それだけの為に僕の部屋に来たんじゃないだろうな?」
僕がそう訝しむと、それまでふざけていた毘奈は急に真剣な眼差しで僕を見つめる。
「吾妻……霧島 摩利香と一緒にいたでしょ?」
「(ギクッ!)いや、……あれはだな、あいつの生徒手帳をたまたま拾ったからさ……親切で届けようと」
「届けるだけだったら、一緒に帰る必要ないよね?」
「そ、それはだな……あいつがどうしてもお礼をしたいって……ハハ」
だいぶ苦しかった。毘奈は僕の言い訳など全く信じてはいないだろう。
そりゃ、ある意味学園一の有名人の霧島と一緒に帰ったりなんかすれば、誰かに目撃されて当然だ。僕は自分の脇の甘さを悔い、打開策を模索する。
だが最早、この執拗な秘密警察の追求から逃げ切るのは、不可能というものだ。
「あんなに念を押したのに! どうせ霧島 摩利香がちょっとばかし美人だったからって、鼻を伸ばして話を合わせてたら、成り行きで一緒に帰ることにでもなったんでしょ?」
「ぐぬぬ……」
大体当たっている。さすが秘密警察……いや、幼馴染は伊達じゃないな。こうなってしまったら、もう毘奈の独壇場だ。
「で……でもさ、あいつの家に行って、ただレコード聴かせてもらっただけだしさ、何もなかったし……」
「はあー!!? ほとんど面識もなかった女の子の、家にまで行ったの!?」
「ほんとにただ行っただけだよ! それに最後はなんか……気まずくなっちゃってさ、えーと……いつか殺す……みたいなこと言われて」
「何それ、コワッ!! それって、完全に目をつけられたんだよ! だから言ったじゃん!」
もう何を喋っても墓穴を掘ってしまい、収拾がつかなかった。毘奈の僕と霧島へ対する疑念は、天井知らずに増すばかりだ。
ここはもう、変に隠し事をしても仕方がない(既に大体喋ってしまったが)。今は皆がここまで恐れる、霧島 摩利香のことを深く知ることの方が重要なんだ。
「わかった、わかったよ! 確かに霧島のことが気になって、こっちから接触したのは事実だよ。でもさ、実際話してみて、ちょっと人とは変わってるけど、とてもそんな悪い奴とは思えないんだ」
「ほーんとに、吾妻は何も知らないんだから! まあいいよ、誰も聞ける人いないだろうから、私が知ってること全部教えてあげる」
周囲から孤立していたこともあり、僕は本当にこういう話には疎かった。果たして、学園最凶と恐れられる謎の美少女、霧島 摩利香とは一体何者なのか? 彼女はどこからきて、何と戦い、何故あんなにも恐れられるのか?
毘奈は人差し指を立てると、まるで怪談話でもするようにおどろおどろしい口調で、通称『霧島事件』と呼ばれる一連の出来事を語り始めた。
「……あの人って、元々この辺の子じゃなかったの。だからさ、入学した当時は、いきなりミステリアスな謎の美少女が入学してきたってことで、結構話題になってたんだ」
「へー、全く知らんかった」
「それでね、A組の男子からも一躍アイドル的存在になっちゃってね、何回か男子に告白されたみたいなんだけど、皆んなバッサリ断ってたらしいんだ。多分それが原因だと思うんだけど、A組を仕切ってた女子グループの強い反感を買ったみたいなの……」
「女子って怖いね」
「その女子グループがね、数人で霧島 摩利香を囲んだって話みたいなんだけど、全く動じないどころか、逆に凄んでその子たちを泣かせちゃったらしいの……」
緊張感をもって語る毘奈を尻目に、僕はそのエピソードに妙に納得してしまった。分かるわー、確かにあいつの鋭利な刃物みたいな眼光で凄まれたら、男の僕でもちびりそうになるもんな。
この程度であれば、僕でなくてもそこまで霧島を危険視するような問題ではない。毘奈は前のめりになって更に話を続けた。
「それで終わればまだ良かったんだけどさ、その女子の一人がね、ヤンキー校で有名な五竜高ってあるでしょ? そこの男子と繋がってて、学校近くの鉄橋の下でね、十人くらいで霧島 摩利香を囲んだんだって……」
「そこまでするかね……相手は一応女の子だぜ?」
「吾妻、覚えておいた方がいいよ、女の嫉妬や恨みはね、怖いんだよ。で、問題はここからなの……」
普通であれば、そんなこと話す前から分かっていた。女の子一人を囲んで、数人の男女で集団暴行という語るに悍ましい凄惨な事件となるはずだったんだ。そう、相手が霧島 摩利香でなければね。
「その後のことは、何が起こったか誰も話したがらないらしいよ。ただ分かっているのは、他の生徒が発見した時には、皆んなボロボロになって倒れてて、霧島 摩利香だけが無傷で、まるで抜け殻になったみたいにその場に立ち尽くしてたんだって……」
「でもそれってさ、霧島が一人でやったていう証拠もないんじゃない? いくらなんでも荒唐無稽すぎるよ」
「そうなの、最初は誰もあの人が一人でやったなんて信じなかった。事件のことを知った先生たちも、事件に関わった生徒は怖がって何も言わないし、問題をあまり大きくしたくなかったのもあって、厳重注意くらいでうやむやにするつもりだったらしいの。でもね、霧島 摩利香本人だけが自分がやったと言い続けるものだから、学校側も仕方なく停学処分にしたって話みたい……」
とにかく不可解な話であった。暴力事件も停学処分も、確かに事実であると本人からも聞いている。それでも尚腑に落ちない。僕らは重要な何かに気付いていないのではないかと思うんだ。
毘奈の言いたいことは分からんでもない。だが、これだけの情報だけで、僕は霧島 摩利香という一人の少女を判断したくはなかった。
「ね、だからあの子はヤバいの! 吾妻も気を付けないと、いつか怖い目に合うんだよ!」
「でもさ、やっぱり霧島が根っからの悪い奴なんて思えない。まあ、あいつ次第だけど、こっちから避けるようなことはしたくないな」
「もう、なんで分かってくれないの? 吾妻のことを思って言ってるんだよ!!」
また始まちゃったよ。こうなると毘奈はもう一歩も譲らないんだ。だけど僕も言われっ放しじゃない。霧島のことを悪く言われると何か腹が立つし、今日は僕も引き下がれなかった。
「大体さ、俺が誰と付き合おうと、お前には関係ないだろ? 何でお前に一々指図されないといけないんだよ?」
「そんなの当たり前でしょ? だって吾妻は、幼馴染なんだから……」
「理由になってないし、それにお前も幼馴染だからって、彼氏がいる身で他の男の部屋にほいほい行っちゃうとか、そういうの良くないと思うぞ」
「そんなこと先輩は気にしないもん! 行くのは、那木家だけだし……吾妻、感じ悪いよ!」
「相手が気にしなければいいとか、不誠実すぎるだろ! 付き合ってるんだったら、少しは相手の気持ちとか考えた方がいいんじゃないのか? 本当に相手のこと好きなの、お前?」
「だって……先輩は頼れるお兄ちゃんみたいな感じだったし、私のこと好きだって言ってくれて、周りも勧めるし……私も別に嫌いじゃなかったから、何となくいいかな……って」
毘奈は珍しく、目を逸らして言葉を詰まらせていた。良くも悪くも、幼馴染だけにお互い言うことに遠慮がない。僕もついつい、こいつには言い過ぎてしまうんだ。今回は最たるものであった。
「お前、自分がそんなんで、人のこととやかく言う資格があるわけ?」
「もう、私のことはどうでもいいでしょ? 吾妻は黙って私の言うこと聞いてればいいの!! だって吾妻は……私の幼馴染なんだから!!!」
「何それ? 一体どこの独裁者だよ? 幼馴染なんて家族でも、親友でも、ましてや彼氏彼女でもないのに、単なる他人が余計な口出しすんなよ!!」
この言葉が決定的だった。毘奈はいよいよ顔を真っ赤にさせ、目を血走らせながら僕を睨むと、物凄い勢いで跳びかかって来たんだ。
「もう頭きた! 吾妻の大馬鹿! わからず屋! むっつりスケベ!!!」
「ちょっ! おまッ!! 危な……!?」
勢いに任せて毘奈が僕を突き飛ばしたもんだから、二人は仲良く凄い音を立てて床へと引っくり返ってしまう。気が付けば、僕の上には毘奈が抱き合うかのような形で倒れ込んでいた。
「痛たた、何すんだ……よ!?」
毘奈がゆっくり顔を上げると、僕らはまるでキスでもしちゃうんじゃないかってくらいの至近距離で、不意に目が合ってしまった。
毘奈は確かに美人だと思う。だが、これまでの関係が深すぎて、単なる鬱陶しい女兄妹くらいにしか思ってなかったんだ。ただこの時は、小さな頃にはなかった発育中の胸の感触、少しはだけたブラウスから覗かせる運動部女子にありがちな白と小麦色の肌のコントラストが、いつも見ていた幼馴染をやたら妖艶に見せていた。
そうして、僕らはほんのひと時、時間を忘れてしまっていたんだと思う。それは、僕にとってとても鮮烈な出来事であり、そして致命的なほど愚かな行為だった……。
「吾妻! どうしたの凄い音立てて! 毘奈ちゃんと言い争ってたみたいだけど、何かあった……の!?」
「え? 毘奈姉来てるの!? 私も会いたい! って……え!?」
まるでプロレスでもしてるかのような凄い物音に驚き、母親が僕の部屋の扉を開いた。運の悪いことに、調度塾から帰って来たばかりの妹の伊吹も連れてね。
扉を開ければ、まるで深く愛しあうかのように床の上で絡み合う年頃の息子と美人の幼馴染、そしてその周囲には、無残にまき散らされた僕のエチィ本の数々が、これ見よがしにおっぴろげとなっていた。
「あらあら、本当に仲がいいのね。毘奈ちゃん、吾妻で良ければいつでもお嫁に来てくれていいのよ! ……吾妻、後で大事なお話があるから、お母さんのとこいらっしゃい」
「うっわー、毘奈姉大胆! で、お兄ちゃんはサイッテー! キモ……」
目の前に広がるこの地獄絵図を目の当りにし、二人は呆れた様子で下に降りて行った。
もういい、殺してくれ。呆然としながら起き上がった僕たちは、さっきの胸のときめきなどすっかり吹っ飛んでしまい、毘奈は照れ笑いし、僕は絶望に打ちひしがれていた。
「あははは……なんか勘違いされちゃったね、吾妻……ドンマイ!」
「で、出て行けーーーー!!!!」
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