彼女の家

 そうなんだ。僕はどこで何を間違えたか分からないが、あろうことか霧島 摩利香の家にお呼ばれされてしまっていた。

 僕は全くこの状況が理解できてなかったわけだけど、仕方ないじゃないか。だいぶ変わった奴だけど、仮にも可愛い女の子から家に来いと誘われて、断れるわけなんてない。男の子だもの。



 霧島はエントランスで暗証番号を入力し、オートロックを解除する。まあ、素人目から見ても結構な高級マンションだ。お金持ちなのかな、こいつの家?



 「霧島の家は何階にあるの?」

 「二十三階よ……」



 エレベーターの中で霧島はそう答えた。彼女はオンとオフの差が激しい。喋るときはもう止まらないが、喋らないときは本当に無口だ。まあ、喋るときは基本一方通行なんだけど。

 そしてここに来て、僕はある重大な事実に気付く。勿論僕らは彼氏彼女でも何でもなかったが、出会って間もない女の子の両親に会うとか、僕にしてみれば相当ハードルが高かった。



 「ちょっと、何を立ち止まっているの?」

 「い、いや、だって、親いるんだろ? ちょっとばかし心の準備が……」

 「いないわ……そんなの」

 「そ……そうか、なら良かった」



 いや、全然良くはなかった。親がいないってことは、一つ屋根の下にこんな美少女と二人っきりになってしまうのか? それはそれでかなり嬉……まずいはずだ。

 妄想しながら右往左往している僕を尻目に、霧島は鍵を開けて玄関扉を開く。中は薄暗く、人の気配はなかった。



 「さあ、入って、大したおもてなしはできないけど」

 「ああ……うん、お構いなく」



 霧島の後を追いかけて、僕は恐る恐る家に上がった。廊下を抜けてリビングに入ると、上半身裸で髭面のおっさんとか、ロン毛でパツパツのタイツみたいなスーツを着た外人、そういう類のポスターが沢山貼ってあった。

 間取りは4DKくらいあるのだろうか? 一見生活感があるように見えるが、部屋は寂しいくらい小ざっぱりしていて、家具なんかもホテルみたいに最低限しかおいてなかった。



 「霧島、親はいつも遅いの?」

 「だからいないと言ったでしょ。ここには私しか住んでないの」

 「ええ! もしかして一人暮らし!?」

 「もしかしなくてもそう、何か問題でもある?」



 まあ、色々と問題ばかりなわけなんだけど、今は僕の男の子としての事情は一旦置いておこう。一番は、ただの女子高生が、こんな凄いマンションに一人暮らしをしているってことだ。



 「霧島んちって、もしかしてお金持ち? こんな広い部屋に一人暮らしとか、何だか海外セレブみたいだな」

 「そうね、否定はしないわ。でもね、どんなに広くて高価な部屋でも、ここは犬小屋みたいなものに過ぎないのよ……」

 


 なるほど、こんな凄い部屋が犬小屋とか、霧島の家はよっぽどのお金持ちなんだな。霧島が儚げに呟いた言葉の真意になど、僕は全く考えが及ばず、ただアホみたいに感心していた。

 それでだ、僕が霧島の家にお呼ばれしたのは、何も僕とおうちデートするとかでも何でもなく、学校では消化不良であった二〇世紀におけるロックンロールの歩みを、実際の楽曲鑑賞を交えてより深くレクチャーする為だった。

 念の為言っておくが、僕はこの時点で彼女の説明してくれた内容の1パーセント程も理解している自信はなかったし、もうそれを白状できる雰囲気でもなかった。僕は本気にしてないが、仮にも霧島は学園最凶の問題児だ。壮大な糠の釘打ちをさせられているなんて気付いた日には、流石に烈火の如く怒り狂うだろう。



 「持ってきたわ、まずは基本の六〇年代、ブリティッシュ・インベージョンを代表するビートルズ、ストーンズ、ザ・フーあたりから始めるわ」



 奥の部屋から抱えきれないほどのレコードを持って来た霧島は、ジョン・レノンみたいな丸メガネをかけていた。

 彼女は小さな手で、慎重にジャケットからレコードを取り出すと、最低でも数十万円はするだろう高級そうなオーディオシステムにセットする。



 「えーと、霧島って目悪かったの?」

 「わ……悪くはないけど、この方が先生っぽいでしょ? へ……変かしら?」

 「……エロい」

 「え? 何か言った?」

 「いやいやいや……その……そうそう、とてもエ……え、偉くて知性的な先生に見えるって言いたかったんだ!」



 霧島はキョドる僕を見て、首を傾げた。ふう、危なかったぜ。もしかしたら、些細な事で逆鱗に触れてしまうこともあるかもしれないからな。



 「ところで、何でレコードなの? 普通にCDで、いや……今はストリーミングとか便利なものが色々あるんじゃ?」

 「その頃の媒体で聴いた方が、当時の雰囲気が伝わってくるでしょ? それに、レコードの音ってどこか優しくて、懐かしい感じがして好きなの」



 そう言いながら、霧島はレコードに針を落とした。確かにCDやMP3と違って、その古めかしいインテリア調の大きなスピーカーから流れてくる音は、どこか柔らかくて温かな人間味を感じるものだった。

 霧島は僕がいることも忘れ、懐かし気で耳馴染の良いそのメロディーに聴き入っていた。チラッと彼女の顔を覗き見ると、大きな窓から差し込む夕暮れに照らされながら、いつになく穏やかに微笑している。

 ふーん、霧島ってこんな顔もするのか。これがまた、うっとりしてしまうくらい綺麗なんだ。願わくば、この瞬間がいつまででも続いて欲しいと思ったよ。彼女のこの微笑みだけで、ご飯何杯でもいけそうだった。

 


 「ちょ、ちょっと、なに人の顔をジロジロ見ているの? やっぱり眼鏡……そんなに変かしら?」



 あんまり僕が間抜け面して見惚れていたものだから、霧島は少し顔を赤らめて、握っていたレコードのジャケットで恥ずかしそうに顔を隠した。なにこの胸キュンな光景、反則じゃないの?



 「いやー! えーと、霧島があまりにも幸せそうな顔するからさ、ほんとに音楽……ロックが好きなんだなー……なんて」

 「そうね……ロックを聴いてるときは、凄く気分が落ち着く……自分が自分でいられる気がするの。私……ロックがなかったら、きっとおかしくなってた……」



 霧島はその場に座込むと、レコードのジャケットをとても愛おしそうに胸に抱えた。

 僕はこの時確信した。だいぶ普通とはずれてはいるけど、こんなに純粋で不器用で儚げに笑う女の子が、悪い奴なはずがない。陰謀論は陰謀論なんだ。



 「皆んなはさ、霧島のことヤバい奴みたいに言うけどさ……何て言うかさ、人って実際会って話してみないと、やっぱり分からないものだよな」

 「……そうね」

 「俺はさ、お前の嘘みたいな噂話なんて信じないよ。だからさ、お前の好きなロックのことはまだあんまりよく分からないけど、また学校で一緒に――」

 「……嘘ではないの」

 

 

 レコードから針が外れて静まり返った部屋、さっきまでの温かなムードは霧島の呟いた一言で一変する。何だろう? 急に背中がゾクッとしてきたぞ。



 「……え?」

 「私が事件を起こしたのも、停学になっていたのも全て事実よ。私はあなたが思うような女ではないの……」

 「で、でもさ! そうだとしてもさ、なんか理由があるんだろ!?」

 「今日は私の話を聞いてくれてありがとう……楽しかったわ。でも、もう終わりなの。私には近づかない方がいい……でないと私……」



 既に日は水平線の彼方へ沈み、霧島の体は夜の青い闇に染まっていた。闇を帯びた彼女のその姿は、まるで野生動物のように精悍で、そしてため息が出るほど美しかった。

 僕はその光景に唖然とし、息を呑んだ。陰謀論に騙されるな……っていう陰謀論には気を付けた方がいい。だってさ、本当に美しいものっていうのは、恐怖を覚えてしまうくらい鮮烈で、危険を孕んでいるんだから。



 「いつかあなたを……食い殺してしまうから」

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