第四軍司令官 野津大将
「何故、ロシア軍を追撃しないのだ」
進撃停止を主張する児玉と態度の煮え切らない才谷に野津は苛立って司令部の廊下を歩いた。
「追撃戦こそ戦果を挙げられる好機だろうに。それもこれも才谷中将のせいだ」
鯉之助が、今後の方針を進撃か防衛か態度を煮え切らせないため、結論がぐだぐだになった。
どちらとも付かない鯉之助に児玉は苛ついたが、野津はそれ以上に苛立っていた。
進撃したいのなら何故、自分の意見に賛同しないのか。
確固たる意見を持って拒否する児玉の方がまだ好感が持てた。
「全く、どちらの味方なのだ」
最近の消極的な鯉之助の姿勢に野津大将はウンザリしていた。
「閣下、部隊の統制ですが」
廊下で待機していた第四軍参謀長の上原勇作少将が野津に尋ねた。
「各部隊はロシア軍の反撃に備え、偵察を強化させろ」
「ですが、各部隊とも前進しております」
進撃は許されていないが、偵察名目で前進、露骨な攻撃さえ威力偵察、実際に攻撃して相手の反応を見る戦術として行うことはよくある話だ。
「停止を命じられては?」
そのような行動をしないよう手綱を掴むべきではないかと上原は進言した。
「上級司令部が無用な掣肘を行うべきではない。各部隊への委任は重要だ」
一般において軍隊は上意下達と見られている。
この認識は一面では事実だが、同時に命令の範囲で自立して、独自の判断で行動する事を求められている。
何故なら一々上にお伺いしていたら時間が掛かる。
例えば、上官に報告して指示を仰ぐだけでも、上官へ状況伝達、上官が状況を認識し、考え、決断し命令を下す、この四つのステップが必要だ。
おまけに、進撃している間は司令部から離れている。司令部も移動しているため、伝令が行くだけで数時間かかるのは当たり前だ。
無線はあるが、性能は低いし、重量もあり、各部隊に配備出来ていない。
電信も、繋がっている中継所まで行かなければならないし、転電などに時間を取られる。
行きだけでこれだが、返信も同じルートと時間をたどる。
その間、時間が無駄になる。
なので、与えられた権限の範囲で各級指揮官は最善を尽くす。
勿論、命令違反や不要な命令をして損害を出した時は追及されるが、命令されていない範囲で、上官の考えを汲んで行動するのは良い。
特にドイツ軍では訓令戦術、目標だけを示して方法は部下に任せる事を重視している。
ドイツ陸軍を手本にした日本軍も同じ事をしていた。
「しかし、満州軍総司令部や大本営の方針に反するのでは?」
上原は、ハルピンまでが限界線だということをこれまでの議論、戦前の参謀本部や工兵監として対露戦を想定しあらゆる可能性を想定し検証した結果からハルピンが限界だと考えていた。
これ以上、進撃すると日本軍は自壊しかねないと考えていた。
「尻込みしていてはロシア軍を撃破出来ない。半数も取り逃がしてしまったぞ。ここで徹底的に叩きのめさなければ、また日本に来襲するぞ」
しかし、軍司令官の中でも猛将とされる野津の敢闘精神は、まだ盛んだった。
奉天会戦の時も、予備軍を送るまで待てと総司令部が指示しても
「予備兵など一兵もいらぬ! 俺が行く!」
と叫び追撃戦を行い猛将健在ぶりを知らしめた。
「攻撃ができる限り前進せよ!」
「しかし」
「くどいぞ。そんな事では一家は守れぬぞ」
野津は上原を叱責する。
上原は野津の娘と結婚しており、義理の父親だ。
その事を知っていて上層部は上原を送り込んだのは情事人事ではなく、野津を掣肘するためだ。
各軍司令官の中でも筆頭格の野津、猪突猛進で頑固者の野津の抑え役が出来る人間は義理の息子である上原以外いないと考えてのことだ。
本来なら工兵出身であるため攻城戦である旅順攻略の第三軍参謀長に上原を任命しようと上層部は考えていた。
だが、野津の抑え役が必要と言うことで第四軍の参謀長に任命された。
しかし、上原でも常に抑える事は不可能だ。
勿論上原はよくやっている。
もし、他の人間なら更に野津が暴走していただろう。
上原の能力は高い、だがここで限界だった。
「各部隊は、偵察を継続。ロシア軍の来襲に備えよ」
「しかし」
「これは軍司令官の決定だ」
「……分かりました」
日清戦争前、野津とは第五師団長と第五工兵大隊大隊長の頃からの付き合いであり、こうなっては行くことを聞いてくれないと上原は理解している。
この上は、イタズラに損害が出ないように注意深く、部隊の前進を見守るしかない。
結果、第四軍は偵察とハルピン防衛の為の前進拠点構築の為に、東清鉄道に沿って前進を続けた。
そして数日後、安達付近においてロシア軍の攻撃を受けることになった。
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