皇太后マリアと皇后アレクサンドラ

 マリアの改革への意思は強かった。

 ミルスキーが内務大臣に就任したのも、マリアが強く推薦したためだ。

 最初は国内を引き締めるためニコライは保守強硬派を任命しようとした。

 だが、マリアがニコライに跪かんばかりに反対した。


「今回の任命を撤回して政治的譲歩の出来そうな誰か別の人物に変えなさい。もし同意出来ないなら自分はデンマークに帰るので一人でこの難局に直面することになりますよ」


 母親であり、優秀な助言者であるマリアの半ば脅迫じみた言葉にニコライは当初の人事案を撤回しミルスキーを任命せざるを得なかった。

 ロシアの為、自分の思い通りの人事になったマリアだったが内定が決定しても決して手は抜かず、任命されたミルスキーのもとへ自ら赴き大臣に就任するよう懇願した。


「貴方は私の息子の意思に従わねばなりませんよ……内務大臣になってくれたら、キスしてあげます」


 ロシアの為とはいえ敬愛する皇太后に、ここまで言われては、ミルスキーも断ることなど出来ない。

 強力なバックが付いたこともありミルスキーは、周囲を気にすることなく改革案を纏め上げる事が出来たが、やり過ぎて反感を買ってしまった。

 しかも、1904年夏待望の跡継ぎであるアレクセイが生まれると、ニコライ二世は政治的な相談相手を母マリアから妻であるアレクサンドラに移した。

 ロシア帝国では皇后は世継ぎを産むまでは正式な皇后とは認められない。

 結婚後十年間、世継ぎを産めなかったアレクサンドラの地位は低く影響力もない。しきたりとはいえ異常だが、これまではマリアがロマノフ王朝のファーストレディであり、マリアが辣腕を振るえた理由の一つだった。

 だが、アレクセイが生まれたことによりファーストレディはアレクサンドラへ移った。

 マリアのニコライへの影響力は低下し、マリアの支援を受けている改革派の勢力も縮小している。


「皇后様もマリア様のように聡明であったならどれほど良かったことか」


 ミルスキーは嘆かずにはいられなかった。

 ダンスが得意で、社交的で人々と触れ合う温和なマリアとは正反対にモデルのように美人だが陰気でヒステリックなアレクサンドラは、人気がなかった。

 マリアも子供の頃からアレクサンドラを見ており精神的に不安定な彼女がロシア皇后としての器量がないと判断。

 アレクサンドラの美貌に惚れ込んだニコライがロシアの為に心変わりすることをマリアは願った。

 しかし、マリアの願いは叶わず、夫である皇帝アレクサンドル三世が列車事故での怪我が元で病状が悪化し余命幾ばくもないこともあり、マリアとアレクサンドル三世は仕方なくニコライとアレクサンドラの結婚を認めた。

 不安は的中し、アレクサンドラは皇后として狭量だったことは、すぐに明らかとなった。

 結婚後十年間、立て続けに生まれた子供が全て女児であり跡継ぎに恵まれなかった事もあって失望したこともあったが、マリアでもヒステリックなアレクサンドラを手懐ける事は出来なかった。

 また、世継ぎが産めないことでアレクサンドラの地位が低いことも周囲からのプレッシャーもアレクサンドラに惨めな思いをさせた。

 嫁姑の関係がこじれている部分もあるが、性格が違いすぎる。

 この戦争でもそれは明らかだ。

 アレクサンドラは皇帝の権威を守る為に戦争継続派に付いているが、気が強く人前に出ない。

 一方、マリアは戦争に反対し講和を主張している。表向きにはニコライを支えるため発言を控えているが、裏では講和を結ぶべく活動している。

 また開戦すると負傷兵のためにマリア自身の歳入から病院列車の運営費を出している。

 どちらがロシアの皇族として相応しいかは明らかだ。

 だが跡継ぎのアレクセイが生まれたことにより、ニコライは話し相手を母マリアから嫁アレクサンドラに変えている。

 聡明で開明的なマリアの言葉を皇帝が聞かないとなると、いつ皇帝専制のために弾圧強化に走るか分からない。

 弾圧するから反発されているのだが、専制政治を絶対視するニコライは理解していない。

 テロを行うのは少数の過激派だけで、その他大勢は従順な国民である。過激派を徹底的に弾圧し処罰すれば良いとニコライは考えていた。

 しかし、過激派に走る人間がどうして生まれるのか、その他大勢がどれほど苦しんでいるのか、戦争に疲弊しているか、ニコライは理解していない。

 生活の苦しさのあまり、過激派へ走ってしまうことに理解が及んでいない。

 しかも既得権益を侵される事を良しとしない貴族層の反対もあり、改革も頓挫している。

 皇帝の側近に戦争継続派がいることもあり、中止を叫ぶのは難しい。

 そして負け戦の中、民衆の願い、戦争中止を受け入れれば、ロシアは負けを、小国日本に戦争に負けたことを世界に認めることになる。

 そもそも、日本が講和を受け入れるだろうか。

 受け入れるにしても、これまでの快進撃を見る限り、ロシアに過酷な条件を突きつけてくる可能性が高い。

 屈辱的な講和条約を結ばされればロシアの面子は丸つぶれになる。

 ロシアの権威を低下させるような事を皇帝ニコライ二世許さないだろう。

 これまで日本が講和を打診しながらロシアが受け入れなかったのは、以上のような理由があるからだ。

 講和を承諾する可能性は低い。

 だが民衆の願いを無下気にすることはミルスキー大臣にも出来ない。

 不満が高まればテロや暴動、最悪革命になりかねない事も予想される。

 上層部の思惑と国民の願いの乖離に挟まれ二人は悩んだ。


「請願行進はやって構わないだろう」


 悩むズバトフとスヴャトポルク=ミルスキーに声をかけた人物が現れた。


「ゲオルギー殿下!」

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