ジャネット・チャーチル
「……はあっ!」
大概のことでは驚かない秋山が鯉之助の言葉、英国の従軍記者チャーチルに食われかけたと言ったことにはさすがに驚き、海軍士官の冷静さも崩してしまった。
「ああ、違う違う。チャーチルに食われかけたんじゃない」
秋山の驚いた姿を鯉之助は楽しんだ後訂正する。
「チャーチルの家族に食われかけたんだ」
「脅かすな」
生来悪ガキの秋山は人を脅かすことが好きだが、脅かされる事は嫌いだ。
一瞬にらみつけるが、すぐに鯉之助との間で負け戦を引きずっていることに気がつき酒を飲んで心と顔を落ち着かせる。
「しかし、そんなのと付き合うのか?」
「仕方ないだろう。仕事の付き合いがあるんだよ」
海援隊は鯉之助の投資事業で発展している。
投資が一番発達しているのは米国のため、米国の経済界と密接に関わっている。
そのため鯉之助はちょくちょく米国に行き有力者に会っており、その筋から紹介されたのが、英国貴族へ嫁いだ銀行家の女性だった。
産業革命により領地からの収入が減少した英国貴族は米国の成金と結婚することで資金援助を得て延命しようとしていた。
チャーチルの母、ジャネット・ジェロームの結婚もその一つで、結婚後毎月実家から資金援助を受けている。
「結婚することで英国貴族との繋がりが出来るし、名誉も得られるからな」
海援隊がヨーロッパでの活動がし易いように鯉之助は、彼女の紹介を受けたのだ。
「それほどの人物か?」
「何しろ政治家の夫のために身を粉にして働いた女性だ」
チャーチルの母ジャネットは病弱な夫ランドルフに代わって出世できるように活発に政治運動に参加した。
選挙事務の手配に、議会演説の代筆、内閣および議会有力者との調整、上流階級や政治サークルに参加と社交を広めていった。
「結婚後のイギリスの全首相と大臣の友人になったと言われているよ」
「すごいのお。しかし、それだと」
「ああ、通じているそうだよ」
そっちの方面でも活発で有名だった。
息子が結婚後八ヶ月で出産しても早産でなかったのは、夫と婚前でしたためとされる。
「息子が生まれてからも活発だ」
夫が病弱なのは夫人から、女性から性病を移されたためと噂されることもあったが息子が無事なのでただの噂だ。
だがそんな噂が立つほどに精力的な女性だ。
「しかし、関係を持って主人は何も言わないのか」
「ヨーロッパでは結婚は一種の契約だからな。息子が生まれたら妻は義務を果たしたとして好きにして良いそうだ」
ブルボン朝のフランスでは出産を終えると妻は夫以外の好みの男性を騎士と見なし、(表向きにだが)肉体関係なしに楽しく過ごしたそうだ。
貞操観念などは時代によって違うが、そのような考え方がその家には残っていたのかもしれない。
「信じられんのう」
夫唱婦随、おしどり夫婦という言葉がある日本では考えられないことだった。
「しかし、そんな女性に会うお主も好きよの」
「何しろ、ジャネットさんの相手がすごいからな」
だからこそ、ジャネットの愛人ネットワークを使おうとして鯉之助は接触したのだ。
「確かにイギリスの全首相と友人か」
「他にもヘルベルト・フォン・ビスマルク侯爵――鉄血宰相ビスマルクの息子にセルビア王、プリンス・オブ・ウェールズ」
イギリス皇太子――イギリスの次期王位継承者は、ウェールズの反乱を抑えるため王子をウェールズの名目上の君主にした故事によりプリンス・オブ・ウェールズと名乗る。
「凄まじいの」
「全くだよ」
うんざりした表情で鯉之助と秋山はしみじみと言う。
そのお陰で王族とのコネが出来て鯉之助がヴィクトリア女王に謁見できたのは大きい。
その後、英国での活動で社交界を行き来できたのは良かった。
「さすがにそこまでされて、何もなしでは済まないからな。息子と仲良くする位はする」
「息子?」
「その従軍記者ウィンストン・チャーチルだよ、女性の息子は。まあ、女性は俺たちの母親ぐらいの年だが。息子に対しては母親というより姉といった感じだな」
鯉之助の説明に秋山は絶句しながら聞いていた。
「息子のような年のお主を口説こうとしたのか」
「下手をすれば結婚することになったよ。七歳下の息子が出来るのは勘弁願いたいがね」
海援隊のためとはいえ、とんでもない女性と付き合ってしまったことに鯉之助はうんざりした。
前世では二十代で早世したが、女性経験はない。
なのにそんなやり手の女性と相対するなど、肉食女子を前にした子羊より小さな存在だ。
「あとは上手く切り抜けて、ウィンストンと仲良くして躱しているよ。ウィンストンに母の抑え役を頼んでね。それに親父に助けてもらった」
あのやり手の父親である龍馬は、ジャネットと仲良くしていやがった。
危うく親子で穴兄弟になるところだった。
鯉之助は結婚しているので他の女性と同衾したくなかった。
何にあの父親は龍馬は何人もの女性と付き合っている。
明治の元勲は大なり小なりそんな連中だが、龍馬はひときわひどいように思える。
鯉之助の不機嫌、何より海援隊の女性陣の怒りを察知した秋山は急に話題を振った。
「とにかく、海援隊とお主には期待して、いや頼りにして居るぞ」
「任せろ。今日まで色々と仕組んできたからな」
ニヤニヤと笑う鯉之助の顔に、秋山は頼もしさを感じると共に、これまでの話から恐ろしさも感じていた。
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