第一部 日露開戦編
総員第一種戦闘配置
年が明けて間もない明治三七年――西暦1904年二月。
寒風吹きすさぶ闇夜の中をその艦は進んでいた。
前方の艦の艦尾灯を頼りに続行し向かうが、天測による位置は分からない。
電波式航法装置で分かってはいるが開発されたばかりで正常に作動しているか、いまいち自信が持てない。
まして風と波の強い悪天候の中での使用だ。故障していないか不安になる。
目的地に向かっているのか、疑問に思う中、やがて、前方の水平線から光が見え始めた。
「前方に灯火を確認。旅順のロシア艦隊です!」
ロシア艦隊から放たれる探照灯の光で旅順沖だと分かった。
これから戦う敵に教えて貰うとは妙な気分だが、敵の所在が分かって丁度良い。
「……長官二二三〇です」
隣にいたショートカットの女性綾波艦長佐々木麗少佐が無表情に呟いた。予定通りの時刻に到着した。
配備したばかりの電波航法装置のお陰で、迷うことなく旅順沖に到着できた。
コンパスと海図だけだとどうしても誤差が出てくるが、各所に作られた電波灯台から出される電波を伝って、航行する方式ならキリの中でもある程度航行出来る。
開発を強く主張した鯉之助はその成果を実感できて感無量だった。
だがそのような事は顔には出さず鯉之助は綾波の艦長に頷くと命令する。
「総員第一種戦闘配置! 雷撃戦用意! 敵に対抗するため主砲にも装填。だが命令あるまで撃つな。戦闘旗はいつでも開けるよう固縛してマストに掲げておくんだ」
「了解、総員第一種戦闘配置」
小さな声だが、彼女の命令は副長が復唱し全艦に通達される。
床から艦内を乗員が移動する振動が響いてくる。
一〇〇〇トンクラスの大型駆逐艦だが、乗員の動きは手に取るように分かる。
先の訓練でこの艦の乗員が十分な技量を持っていることを確認しており鯉之助は、安心して艦の指揮を艦長に任せ敵の様子を把握することに集中できる。
目的地に近いため、発見されることを恐れたが今日の月齢は二二で、月の出は日付が変わってからだ。
そのため今は闇夜で見つかる確率は少ない。だが、深夜を過ぎれば月が昇り洋上を明るく照らしてくれる。
敵に見つかりやすくなるが、攻撃する味方も標的を見つけやすい。
奇襲するにはもってこいの時間だ。
月が出ていない闇夜に紛れて敵に気づかれず接近し、月の出と共に、月光に浮かび上がる敵を攻撃できる。
「総員戦闘配置完了」
鯉之助が命令を下してから五分ほどで終わった。
こうしている間にも艦隊は目的地である旅順に向かっている。
「旅順の様子は?」
「特に変わった様子はない、と伝えてきています」
通信員が報告した。
ロシアは小国日本が大国ロシアに戦争を仕掛けることなどいないと侮っている。
ロシア帝国は日本の最後通牒を、行き詰まった交渉を優位に進めるためのブラフに思っているようだ。
日本は既にロシアに追い詰められて窮鼠と化し噛み付こうとしているのに、当のロシア人は寝ていてくれるようだ。
旅順に入ったスパイと大連から漁船に偽装して偵察に出たスパイ船からの無線報告。
そして鯉之助自身による偵察と記憶と知識では、ロシア太平洋艦隊はほぼ全て旅順外港に停泊している。
それでも確実ではなく、監視を置いて見張りをさせている。
だが常時監視できるわけでもなく、配備された無線の調子もイマイチ気まぐれだ。
投資した分、確実に作動して欲しいのだが、新製品に故障は付きもの。
これまでの成果を信じて騙し騙し使うしか無い。
「旅順と大連においてある短波無線機は無事に作動していて欲しいんだけどな」
これまでの報告からも、ロシア艦隊の配置は変わっていないはずだ。
まして旧正月であり、旅順は祝いの真っ最中。太平洋艦隊の首脳部も大夜会を開いており、艦隊が動く予定はない。
攻撃は成功するハズだった。
しかし、攻撃予定時刻までまだ時間があった。
ロシア側の気が変わって、こちらを攻撃するかもしれない。
宣戦布告はなされていないが、駐露日本公使は、「最良と思推する独立の行動」と記された最後通牒をロシア外務大臣に提出している。
これは先制攻撃を含む攻撃を行う、という意味であり、此方から警告なしの攻撃をしても良いことになっている。
だが、表向きフェアプレイを標榜する欧米の価値観によって、国際法上、相手からの先制奇襲攻撃も許される。
もし、ロシア軍が自分たちに気がついて攻撃してきたら。
状況は全艦に通達されており乗員全員が知っている。
開戦前に、此方が攻撃する前にロシアから奇襲されるのではないか。
そんな不安から、悪い緊張感が艦内に流れた。
「三千世界のカラスを殺し、主と朝寝がしてみたい」
そこへ鯉之助が不意に都々逸を口ずさむ。
「わしとお前は焼山葛 裏は切れても根は切れぬ」
「よく歌いますね」
後ろにいたポニーテールの女性、鯉之助の右腕であり参謀長の谷沙織大佐が言う。
「親父がよく口ずさんでいた。三代目としてキチンと覚えて四代目に伝えろと言われたよ」
肩をすくめて言う。
若い内に亡くなった父親の知人が作った都々逸だそうだ。
意味は、全世界の不安をなくしてお前と朝寝がしたい、お前と俺は焼山葛であり地上の茎が焼き払われても地下の根でしっかりと結ばれている、という意味だ。
なかなか良い作品で韻も良く、鯉之助は思わず口ずさんでしまう。
「ええ、息子も覚えていますよ」
「それは良かった」
鯉之助はほっとして答えた。
「しかし、他に誰か手を付けていないでしょうね」
「していないよ」
鯉之助は言うが、沙織は疑いの目で見た。
隣にいる麗が、鯉之助に熱烈な視線を送っているので仕方ない。
彼女は鯉之助のことを昔からよく思っている。
疑われても仕方ない。
先の都々逸が愛人に送られたものであることも余計にバツが悪い。
気まずい雰囲気になり、鯉之助は話を逸らそうと機関室へ通じる伝声管に大声で叫ぶ。
「そろそろ、攻撃時刻だな。平賀造船大技士、機関の調子はどうだ?」
「機関異常なし。全艦正常です」
機関室で機関の監督をしていた平賀譲は答えた。
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