梨田 泰造 Ⅳ

 犯人の男は私が最後に見た時には警察官に囲まれていたが、更なるやましい事があったのかその囲いを突破して逃げ出したらしい。そして警察官に追いかけられながら走っていく途中で妻を突き飛ばして更に逃走し、結局逃げ切ってしまったのだ。


 突き飛ばされた女性の安否を伝える音声を聞いて私は更に青ざめる。それは今まで行ってきた事を全て無に帰すような結果だった。女性は――妻は打ち所が悪く亡くなってしまった。


 そんな事があっていいのだろうか。過去に来て犯人が捕まるように仕向け、更に妻にウソまでついて現場から離れさせた。なのに、どうして死は彼女を追いかけてくるのだろうか? この運命は変えようがないのだろうか?


 運命は変える事が出来る。今までの依頼で何度もその現場を目の当たりにしてきた。後悔のウソをなくして新たな人生を再開させている人を何人も知っている。


 だか、何故私の場合は許されないのだろう。直接的にタイムマシーンが反応した人物ではないからだろうか。仮にそうだとしたら自らの意思で過去へ行こうとする事は不完全なものとなるだろう。


 何かによって恣意的に選ばれた人間のみが享受できる改変。それでは、タイムマシーンが完成したとしても救われない人生は多く存在してしまう。


 何の為のタイムマシーンなのだろう、こんな無意味なものに人生の多くの時間を支えていたのか。


 私の頭は大きな空虚感に覆われる。もう何も変える事は出来ない。それは今もこれからもだ。今後の希望によって埋める事の出来ない空間を何かで埋めなくては息苦しい。


 そんな思いで私はある場所へ向かっていた。そこはかつて妻と一緒に行った海岸だった。


 結局私は妻との思い出でその空間を埋めようとしたのであった。


 妻のニュースを聞いてからかなりの時間が経っていたようで、私が海岸へ向かう為に外へ出ると、ほんのりと白みがかった世界が広がっていた。


 始発に近い電車を乗り継いで現れたその海岸は朝の陽光を弾かせキラキラとしていた。その生き生きとしたキラキラは自分の仄暗い心境をより際立たせているように感じさせていた。


 この海岸はタイムマシーンのプロジェクトへの参加や仕事が忙しく煮詰まっている時に妻が提案してくれて一緒に出掛けた海岸で、妻のお気に入りの海岸だった。


 砂浜は縦にそれほど長くはなく、階段状の堤防がありそこに腰かけて海を見ながら話をしていた。穏やかな海は毎日に追われるように生活している私の心をのんびりとした気持ちにさせてくれた。


「あなたの仕事はみんなを幸せにする可能性を秘めていると思うの」


 食べ物を狙う上空のトンビを気にしながら、持参したサンドウィッチを食べている時不意に妻は言った。


「どうしました? 急に」

「いいから黙って聞いて……、あなたが頑張ってお仕事する事で、今後救われる事になる人がたくさん出てくるわ。あなたはそんな人たちの支えになっていくと思う」

「そうですねぇ。そうやって多くの人の為になると思うと頑張る事が出来ますよ」

「じゃあ、そうやって頑張っているあなたは誰に支えてもらえばいいと思う?」

「誰に支えてもらえばいい……か」

「だからね、私はあなたを支えてあげたいの。あなたがみんなの為に頑張ってくれているから、私はあなたの為に出来る事はたくさんやってあげたいと思っているわ。それがあなたの為……ひいては多くの人の為になると思うから」


 妻は私が仕事と、家族との時間の両立にうまく出来ていないと感じている事を見かねてこう言ってくれたのだろう。どんな時も私がそばにいてあなたを支えてあげるわ、だからめい一杯仕事や研究に打ち込んでくれてもいいよと言ってくれていたのだと捉えていた。


 実際妻は献身的に私を支えてくれていた。私がそこまで諸々の事を気にせず仕事に打ち込む事が出来たのもひとえに妻のおかげであった。


 しかし、そう言ってくれた妻に私は何一つしてあげる事が出来なかった。更に今回の出来事だ。今まで妻の為に何もしてあげられなかった私が、今彼女の為にできる事はなんなのだろう。


 未来への希望をなくしたこの私が出来ること。


 以前は二人で座っていたこの堤防に、今は一人で座っている。そう、私は過去に来ている――妻のいなくなってしまった過去だ。もうこの過去は変えようがない。

 

 つまりそれは、妻が生きている人生がない事を示している。以前二人で座って話していた時はあんなにも温かい気持ちでいたのに、今は凍えるような寒さに震えるような気持になっている。もう妻は戻らない、その事が頭の中をグルグルと回っている。その回転は徐々に加速し、熱を帯び、私の気持ちに火種を落とした。その火種は回転によって更に煽られまるで炎が燃え上がるかのように速く、そして強く大きな炎へと変貌した。


――あの男を私の手で……、それが私が妻に出来る最後の事だ……。


 私は決心した。私の手で復讐を成し遂げる事が妻に対して今の私が出来る唯一の事だろう。そうと決まれば犯人の居場所を突き止めなくてはならない。警察から逃げ切った男だ、未だにあの辺をうろちょろしているとも思えない。ましてはあの町からすぐに逃げだしてしまっている可能性も高い。


 私はそう心を決めると、妻と過ごした思い出の海岸を後にした。辺りは既に夕暮れになっている。妻の死を知って以来、思案する事が多く知らぬ間に長い時間が経ってしまっている。多くの時間が流れてしまえばそれだけ犯人にも逃げる時間を与えてしまっている事になる。焦る気持ちそのままに事件のあったあの町へ戻った。

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