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 それからのぼくは、とにかく取引を繰り返した。相場が上がっていればロング、下がっていればショート。それだけで、口座の金額はどんどん跳ね上がっていく。面白くて仕方なかった。まあ、時には予想が外れて損をすることもあるけど、それでも儲けるパターンの方がずっと多かった。


 それに、ぼくは予想を確かにするために、世界情勢の勉強を始めた。


 通貨の動きは世界情勢に強く関係している。今世界で何が起きているのか。だから、その知識があれば、相場の値動き予想も正確にできるのだ。


 いつしかぼくの口座には、1千万円を超える額の数字が並んでいた。ぼくは得意満面だった。こんな魔法があるなんて……これなら働かなくても十分暮らしていける。


 だけど、そう言えば、この口座のお金を下ろすためには、どうしたらいいんだろう。しまった。おじさんに聞くのを忘れてた……


 まあいいや。おじさんとはいつでもタブレットで連絡出来るから、いつか教えてもらうことにしよう。


 そんなふうに思っていた、ある日のことだった。


---


 その日の朝、ぼくは目が覚めると、いつものようにタブレットを開いてチャートをチェックしようとして……ぼう然とした。


 ポジションが全て、決済されている。


 昨日の夜に、ドル円のロング1000枚(1枚=1万通貨単位)が指値さしねで注文成立したはずなのに……


 あわててチャートを表示させると、夜中の間にドル円が暴落していた。それも、一気に10円近くも……チャートの窓(ローソク足とローソク足が重ならず、縦方向のすき間が空くこと)が、思いっきり開いている……


 まずい。


 資産合計を見てみると、数字が真っ赤だ……しかも、マイナスで、7桁……5千万円?


 うそ……


 お金がない、なんて生易しい物じゃない。ゼロならまだマシだ。


 ぼく、この若さで、5千万円の借金を抱えちゃったの?


 ちょっと待ってよ、ロスカットはどうしたんだよ? こんな風にならないために、ロスカットがあるんじゃなかったの?


 だけどぼくは思い直す。おじさんから聞いたことがある。あまりにも値動きが急だと、ロスカットが間に合わないことがあるらしい。しかも、そういう場合の補償は無い。取引規約の免責事項にもそう書いてあった……


 資産合計がマイナスじゃ、ロングもショートもポジションは持てない。これ以上何も取引はできない、ってことだ。だから稼ぐこともできない。


 ……。


 どうしよう……


 こんなこと、父さんにも母さんにも相談出来ない……


 そうだ、おじさんだ。おじさんに相談してみよう。


---

 待ち合わせの公園。おじさんはベンチに座り、難しい顔でぼくを待っていた。


「まったく……ちゃんとリスク管理をしなきゃダメだ、って言ったじゃないか。おおかた、スキャルピング(高額ポジションを極小差額の値動きで何度も注文・決済を繰り返し、利益を積み重ねる戦略)狙ってハイレバかけて全力買いみたいなことをしたんだろ? そりゃ儲かるときは儲かるけど、ネガったらトコトン損するからな。しかも損切り注文も出さなかったんじゃない? ロスカットは確実じゃないから、ちゃんと損切りもしなきゃダメだって、教えたよな?」


「でも……前、下がって損切りしたら、その後すぐに上がって損切りしたのがバカバカしくなったから……」


 ぼくが言い訳をすると、


「バカヤロウ!」


 いきなりおじさんが怒鳴ったので、ぼくはビクッとした。


「目先の欲にくらんでるんじゃないよ! きみが損切りしなかった結果が、これじゃないか! いいかい、5千万なんてお金はね、たぶんきみの両親が共働きしたとしても、とても2~3年で返せる額じゃないんだ。下手すりゃ10年以上かかるかもしれない。それをきみは一晩で失ってしまったんだよ」


 ようやくぼくは自分がやらかしたことがどんなに重大だったのか、実感してきた。


「……ううっ……ぐすっ……ごめんなさい……」


 ぼくはべそをかきながら、ひたすら下を向いていた。


「円相場、っていうのはね、基本的にゼロサムゲームなんだよ」と、おじさん。


「ゼロサムゲーム?」


「ああ。決まった量のものがあって、それをみんなで取り合うこと。今まできみはずっと儲けてきたみたいだけど、それは、世界の他の誰かが損して失った分をもらっただけに過ぎない。全体のお金の量は変わらないからね。きみはずっともらう側でいられたけど、それは単に幸運だっただけだ。でもそれはずっとは続かない。そして、今まで貯まったツケが今回一気にやってきたわけだ。今まで損してきた沢山の人の恨みが、同じ目に遭わせてやろうとして、きみを引きずり込んだのかもしれないね」


「……」


 ゾッとした。確かに、ぼくは今まで儲けたお金が、どこから来たのかなんて考えたことがなかった……そうか……そういうことだったのか……


 ってことは、ぼくが今回失ったお金も、誰かの儲けになった、ってことだよな……確かに、ぼくもその人を恨みたくなるもんな。


「でも……ぼく、どうしたらいいんですか? こんなこと、父さんにも母さんにも相談出来ないし……ぼくはまだ働けないから、働いてお金を稼ぐこともできないし……5千万円なんてお金、簡単に貸してくれるようなところもないですよね?」


 しゃくり上げながら、ぼくがそう言うと、おじさんはしばらく黙ってぼくを見つめていたが、やがて、握った右手を差し出した。


「はい」


 開かれたおじさんの右の手の平には……100円玉が一つ乗っていた。


「え……?」


「君から預かったお金だ。返すよ」


「え、でも……たった100円あっても、5千万にはほど遠いし……それに、そのお金は、業者の口座に入金したんですよね?」


「してないよ」


「ええー!」ぼくはびっくりする。「でも、ぼくは確かに100円から取引を始めて……」


「よく見てごらん。ここ、なんて書いてある?」


 おじさんは優しい笑顔になって、タブレットの画面を指さした。そこにはアルファベットが並んでいる。


「ええと……ブイ、アイ、アール、ティー、ユー、エー、エル……」


「それはね、ヴァーチャル、と読むんだ」


「ばあちゃんは金沢に住んでますけど、ぼくんちにはいませんよ」


「……この期に及んでボケをかますとは、きみもなかなか大物だな」おじさんは呆れ顔になる。


 うーん。別にボケをかましているつもりはないんだけどな……


「いいかい、ヴァーチャルっていうのはね、仮想ってこと。ホンモノじゃない。つまり、きみはずっと、ホンモノじゃない、ニセの取引をしてたのさ。だからそのマイナス5千万も、実際には存在しない」


「えー!!!」


 おじさんの言葉に体中の力が抜けたぼくは、思わず地面の上にへたりこんでしまった。


---


「ヴァーチャルって言ってもね、実際の相場の値動きで取引してるから、実際の取引とほとんど同じなんだ。だから初心者が練習でよく使うんだよ。さすがに僕も小学生にリアルな取引はさせられないからね。たぶん何らかの犯罪になっちゃうから」


 おじさんはニコニコしながら言う。


「そうだったんですか……よかった……5千万円の借金がホンモノじゃなくて……」


 ぼくは心の底からほっとしていた。


「いいかい」おじさんは真面目な顔になる。「これでよくわかっただろ。何もせずにお金がもらえる魔法なんて、ないんだよ。お金をもらうためには、働くのが一番だ。しかも働けば、他の人のためになる。喜んでもらいこそすれ、恨みを買ったりすることは滅多にない。な、円相場と、どっちがいいと思う?」


「……働いた方がいいと思います」


「そうだろ? ま、きみはまだ働くことができないけどね。でもさ、円相場も悪いことばかりじゃなかっただろ? 世界のことをいろいろ勉強できたんじゃないか? 下手すりゃ学校の先生よりも詳しくなってたりして」


「そうですね」


 確かに、それは言える。アメリカの失業率とか雇用統計の最新のデータが、いつもぼくの頭に入っている。地政学リスクって言うのもあるから、世界の紛争状況にもやたら詳しくなった。


「ま、今回はほんとにいろいろいい勉強になったんじゃないかな。この経験を忘れずに、頑張っていくんだぞ」


「はい!」


 ぼくが笑顔でうなずくと、おじさんも朗らかに笑った。


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