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 おじさんはバッグからタブレットを取り出して、ぼくに渡した。そこには、1秒ごとくらいに変わる世界の通貨の数字と、上下にひげのように線が飛び出した縦長の長方形が横に並んだグラフが映し出されていた。おじさんによれば、これはある為替かわせ業者の取引画面で、おじさんはこの業者に僕の口座を作ってくれて100円入金したらしい。

 そして、画面の中のグラフはチャートという物で、ドル円の動きを表しているという。並んでいる長方形はローソク足と言って、ある時間間隔でのドル円の動きをまとめた物なのだそうだ。


 チャートの時間間隔は切り替えることができて、例えば1分間隔なら1分足、15分間隔なら15分足、一日間隔なら日足ひあしと言うらしい。チャートを見れば円相場がどんなふうに動くのか、なんとなくわかる。おじさんはさらに続けた。


「基本は円でドルを買って、ドルが値上がりしたら売る。それだけだよ。例えば、1ドル100円の時に1ドル買って、1ドル110円になったら売る。そしたら差し引き10円の儲けになる」


「でも……さっきからこうやってチャートを見てますけど、せいぜい1円も動けばいい方で、10円もドルの値が動いたりすることはないですよ? それなのに、おじさんはさっきすぐに100円も稼いだんですよね? いったい、どうやったんですか?」


「ふっふっふ……」おじさんはニヤリとする。「『レバレッジ』っていう魔法を使ったのさ。英語で『梃子てこ』のことだよ」


「ああ、剣道の……」


「それは『小手こて』やー!」間髪を入れずおじさんのツッコミが炸裂する。「理科の時間に『てこ』の原理って習っただろ? 小さい力でも重いものを動かせる。それと同じで、小さい金額でも大きな額の取引ができる。それがレバレッジさ。さっきは100倍のレバレッジをかけた。だから、本当なら1ドルしか買えないところ、100ドル買えたことになる。1ドル100円なら10,000円だ。そしてドルが1円上がれば、1ドル101円だから100ドルは10,100 円。差し引き100円の儲けになる」


「すごい……まさに魔法ですね」


 ぼくがニッコリすると、おじさんは逆に真面目な顔になる。


「ああ。だけどな……上がればいいんだが、1円下がったらどうなると思う?」


「……どうなるんですか?」


「マイナス100円」


「マイナス?」


「ああ、まだ習ってないか。マイナスってのは損すること、って思えばいいかな。100円の損になる、ってことだ。決済すれば、差し引きゼロ円」


「げ……」ぼくの顔が引きつる。


「それで済めばいいさ。それ以上下がったら……借金を背負うことになるんだ」


「ええー!」


「でもな」おじさんは笑顔になる。「心配しなくてもいい。ロスカットって言って、相場が損をする方向に動いたら、借金を背負う前に業者があらかじめ一定の額を残して強制的にポジションを決済してくれるんだ」


「そうなんですか……」ぼくは安堵のため息をつく。


「それに、レバレッジの倍率は変えられるからね。100倍は高リスクだから10倍くらいにしておけば、1円下がっても損は10円で抑えられる。あと、何も入金したお金を全額ポジションに変えなくてもいいんだ。例えば100円入金して、10円分だけポジションゲットしたとしよう。そうすれば、100倍のレバレッジで1円下がったとしても、ポジションは10ドルだけだから、これも結局10円の損で済む。ただし、いずれにせよ1円上がったとしても儲けも 10 円になるけどね」


「……」


 うーん。よくわかんないなあ……だけど、危ないことはやめた方がいい、ってことだよな……


 そして、さらにチャートを見ているうちに、ぼくはおかしなことに気づいた。


「ねえ、おじさん」


「ん?」


「チャート見てるんですけど……ここ数時間、ドル円、下がりっぱなしですよね」


「そうだね」


「だったら、どう考えても儲けられないじゃないですか。なのに……おじさんは、さっき、どうやって100円も儲けたんですか?」


「ちっちっち」


 おじさんはまた顔の前で人差し指を振ってみせた。それ……かっこいいと思ってんの?


「それじゃ、奥義を教えてやろう。『ショートポジション』だ」


「ぼくが野球するときのポジションは、ショートじゃなくてサードですよ」


「野球ちゃうわ!」


 またまたおじさんのツッコミが炸裂する。どうしてこの人、ツッコミ入れるときだけ関西弁になるんだろう。


「今まで説明してきたポジションは、正確にはロングポジションと言うんだ。ロングは相場が上がると儲かるけど、ショートは逆に下がると儲かる。どうしてそうなると思う?」


「いや……わかりません」


「それじゃ、説明しよう。まず、1ドル100円の時に、きみは業者から1ドル借金するんだ。そしてその1ドルで円を買う。そうすると、きみの手元には100円残る。ここまではいい?」


「ええ」


「だけど、これは借金だということは忘れないように。いつかは返さないといけない。そして、きみが借りたのは100円じゃなくて、あくまで1ドルだ。これも忘れないようにね」


「はあ」


「で、ドル円が1円下がって、1ドル99円にになったとしよう。この時、きみは1ドルの借金を返すんだ。そうすると、どうなると思う?」


「……?」


「いいかい、きみの借金は1ドルなんだから、きみは1ドルだけ返せばいいんだ。だからきみは手元の100円から99円払って1ドルを買い、それで1ドルの借金を返す。そうすると……あら不思議、手元には1円残ってる。ドル円が下がったのに……というか、下がったおかげで、きみは1円儲けたことになったわけだ」


「……」


 ややこしくて良く分からなかったけど、ぼくは必死で考えた。そして……ようやく理解した。


「……すげえ!」


 全くもって魔法だった。そうか……これなら確かに、相場が下がっても儲けられる。この仕組みを考えた人、めちゃくちゃ頭いいなあ……


「もちろんロングと同じようにショートにもレバレッジはかけられる。だから儲けもロングと同じくらいにできるんだ。どうだい、すごいだろ?」


「すごいです!」


「それじゃ、ここからはきみが自分で好きなようにやったらいい。このタブレットは貸してあげるよ」


 そう言っておじさんはぼくに、具体的な注文や決済の仕方を教えてくれた。


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